第18話 もうひとつの「獣」


 午後の色に染まった美術室に足を踏み入れた瞬間、私は懐かしさに思わず足を止めた。


 乱雑に並んだイーゼル、テレピン油の匂い……わずか半年前まで毎日通い詰めた場所なのに、それらがひどく遠い記憶のように思えた。


「――陽向!久しぶり」


 いきなり名を呼ばれ、声のした方に顔を向けると懐かしい顔がこちらを見ていた。


「若葉……久しぶり。かわんないね」


「来てくれたんだ……ありがとう。早速だけど、「例の絵」が完成したの。見てくれる?」


 そう言うと若葉は私を部屋の奥へと誘った。若葉が示したのは、他のイーゼルに隠れるようにして置かれている一枚の絵だった。


「じゃーん。完成品を見せるのは陽向、あなたが初めてよ」


 私は絵の前に立つと、若葉が描いた「半年前の自分」と対面した。体育館の壁に背を預け、ぼんやりと空を眺めている自分の足元には、あるはずの黒々とした「影」がなかった。


「見たままを描いてくれたのね。……ありがとう、若葉」


「だって嘘はつけないもの。先生には睨まれちゃったけど、そんな事大した事じゃないわ」


 若葉は小鼻を膨らませ、強い口調で言った。ここにも一人味方がいた、と私は思った。


「これ、陽向にあげる。先生には材料費を払ってあるからさ、持って帰りなよ」


「え……だって私の方はまだ、若葉の絵を完成させてないのに」


 私は半年前に描きかけで放りだした課題のことを口にした。互いに描き合うという課題だったのだから交換するのが当然だ、そんなふうに思っていたのだ。


「いいのよ、そんなこと。……ほら、持って帰れるように袋も用意しといたわ」


 若葉はそう言うと、大判のビニール袋を見せた。私はどこか後ろめたい気持ちに駆られつつ「ありがとう。……じゃあ、受け取らせてもらうわ」と返した。


「……でさ、来てもらったついでにといっちゃなんだけど、もう一箇所、つき合って欲しい場所があるんだ」


「どこ?」


「体育館。今日は運動部も使ってないし、人目はないから大丈夫」


 秘密めかした笑みを浮かべる若葉をいぶかしく思いつつ、私は誘われるまま体育館へと足を運んだ。重い防音扉を若葉が力任せに開けた瞬間、お腹に響くような太い弦の響きが私たちを包んだ。


「絶好調ね。弦君」


 若葉がそう言って目で示したのは、奥のステージだった。ステージ上では一人の男子生徒がエレキベースを手に、歌を歌っていた。


「聖月君……楽器なんか弾くんだ」


 ステージ上で弾き語りをしているのは、同級生の聖月弦みづきげんだった。


 秀才だが寡黙で人を寄せ付けない雰囲気を持つ弦は、私がちょっとしたトラブルでいじめのような目に遭った時、いじめの事実はないと公言する担任に「嘘つき」と言い放った過去があった。


「こんにちは。調子はどう?」


 ステージに歩み寄り、声をかけた若葉に弦はちらと目線をよこすと、いきなり歌うのをやめてベースを滅茶苦茶に掻き鳴らし始めた。


「……ごめんごめん、歌ってるときは声をかけるなって言うの、すっかり忘れてたわ」


 やがてピリオドを打つようにひときわ太い音が響き、ようやく弦の演奏は止まった。


「久しぶりね、聖月君。ベースを弾くなんて知らなかったわ」


 私が声をかけると、弦は意外にもはにかんだような表情を見せた。


「そりゃ、人前では弾かないからね。若葉の場合、勝手に嗅ぎつけたから仕方ないけど」


「ひどいなあ。ねえ、弦君も陽向に戻ってほしいよね?」


 いきなり自分の話題を出され、私が面食らっていると、弦は「まあね」と即答した。


「うちのクラスじゃ、自分をちゃんと通す奴は君たちくらいだからな。いないと俺が困る」


 そっけない口調だったが、私はまた胸が熱くなるのを覚えた。そうだ、味方なんて多ければいいってもんじゃない。たった二人の友人だってこんなに頼もしく感じられるんだ。


「若葉や聖月君の気持ちはありがたいけど……最近、ちょっとしたごたごたがあって、すぐには戻れそうもないんだ」


「ふうん……まあ、くわしいことは聞かないけどさ。来れるようになったら、来てね」


 若葉の言葉に私が頷いた、その時だった。突然、があんという大きな激突音があたりに響き渡った。


 驚いて音のした方を見ると、運動場に面した出入り口から見たこともない巨大な生き物が顔を覗かせていた。生き物は、開け放たれた扉の向こうから大きな身体をねじ込むようにしてこちらをうかがっていた。


「……あれ、何?」


 若葉が悲鳴にも似た声を上げた。生き物はよく見ると、牛に似た頭部が三つも突き出ていた。あきらかに私たちの知っているこの世の生き物ではなかった。


「若葉、弦君、逃げて!」


 私は目で後ろの出入り口を示した。弦はステージの奥へ後ずさりながら「俺は後で行く!二人とも先に逃げろ」と叫んだ。私は仕方なく若葉の腕を握ると、強引に出入り口の方に向けて引っ張った。


「弦君!」


 生き物が体育館への侵入を終えるのと同時に、若葉の悲痛な叫びがこだました。


「若葉、先に出て!」


 私は足を止め、身体の向きを変えると若葉に外に出るよう、うながした。


「嫌よ、みんなで逃げましょう」


 若葉がそう叫んだ直後、どういうわけか人の姿もないのに出入り口の扉が閉まり始めた。


「急いで、若葉!」


 私が必死で急き立てたにも関わらず、扉は脱出を阻止するかのように若葉の前で閉じた。


「嘘……」


「若葉、後ろの梯子を登って、足場まで逃げて!」


 私は背後を目で示しながら叫んだ。若葉は最初、いやいやをするように頭を振ったが、私が心を鬼にして睨みつけると渋々、コンクリートの足場に上る梯子へ向かった。


「……こっちに来い、怪物!」


 若葉が梯子に辿り着くのとほぼ同時に、ステージ上から声が飛んできた。弦が怪物を自分の方へ誘き寄せようとしているのだ。私は咄嗟に「駄目よ、聖月君!」と叫んだ。


「こっちを見なさい、化け物!」


 私が呼びかけると、生き物がゆっくりとこちらを向いた。その六つの目を見た瞬間、私は窓から私の様子をうかがっていたのはこいつだと確信した。


「あなた……「終末獣」ね」


 私はあらん限りの勇気を振り絞って問いを放った。もしそうなら、こいつの標的は私だ。


 生き物はしばらくの間不気味な唸りを発してたが、やがて唐突に人の言葉を口にした。


「いかにも私は終末獣、ナンバー47だ。……言え、「ナンバー99」はどこにいる?」


 ジャッカルのことだ、と私は直感した。こいつはジャッカルを連れ戻しに来たのだ。


「そんなの知らないわ」


「蔭山邸の事故以来、奴は行方をくらましている。知っているとすればお前だけだ」


「じゃあ、あなたたちのところが嫌になったんでしょ。ちょっとわかる気もするわ」


 私は嫌味を込めて言った。いかに自分の主人とはいえ、あの性格の悪そうな「影使い」のところになど、戻りたくはないに違いない。


「言わぬなら力づくで言わせるが、よいか」


 ナンバー47と名乗る終末獣は、じりじりと私との距離を詰め始めた。私は咄嗟にポケットから「シャドウバッテリー」を取りだすと、握りしめた。


「知らないって言ってるでしょ!」


 私が叫ぶのとほぼ同時に、ナンバー47が床を蹴って飛びかかってきた。

 私はバッテリーのスイッチを入れると「助けて、シャディ!」と叫んだ。次の瞬間、バッテリーから一条の光が放たれ、私の足元から「人工の影レプリシェイド」が伸びた。


「影」は終末獣の前に立ちはだかると、壁のように四方に広がった。


「……ぐうっ」


 私に飛びかかろうとしたナンバー47は「影」に激突すると、苛立ったように何度も突進を繰り返した。やがて、少しづつ「影」が後ろに押しやられ始めた。


 ――しまった、まだ生まれて間もない「若い」影だから力不足なのか……


 私が「影」を突き破らんばかりに押す存在に恐怖を覚え始めた、その時だった。

 パンという音と共に天井近くの窓を突き破って、一つの黒い影が中に飛び込んできた。


 黒い影はまるで猫のように空中で回転すると、体育館の床を蹴って終末獣に襲いかかった。二つの影はもつれあうように体育館の床を転がり、互いを牽制するように左右に飛び退った。


「……きさま、「99」!」


「この子は殺させないぞ、「47」。」


「ばかな、貴様、気でも狂ったか。我々は一心同体なのだぞ。それとも残りの98体すべてを敵に回すつもりか」


「それもいいかもな。人類って奴もどうやらクズばかりではないようだし」


 向き合って言葉を交わしている獣のうちの一体を見て、私は思わず息を呑んだ。突然現れた「敵」から私を救いに飛び込んできたのは、私が手当てをした「ジャッカル」だった。


              〈第十九回に続く〉

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