第9話 懐かしき漆黒の肖像


「お祖父さま、助かるといいわね」


 助手席で頷きつつ、私は祖父の遺言ともとれる言葉の数々を反芻していた。


「「いつわりの影」を九十九集めると「本当の影」になる」というのはいったい、どういうことなのか。本来ならそれどころではないはずなのに、気が付くと頭の片隅でこの暗号じみた言葉をころがしているのだった。


「ごめんなさい、円さん。せっかくレジャーとグルメを楽しむつもりでいたのに、こんなことになってしまって」


 私が詫びると円は「何言ってるの」と頭を振った。


「こんなとんでもないトラブル、誰だって予想できないわ。気にしないで」


 円はことさら明るい口調で言うと、駐車場から車を出した。数分も走ると周囲の風景はまるで先ほどの騒動が嘘だったかのように長閑なものになった。


 私は軽自動車の立てるがたがたという振動に身を任せながら、自分の足元を見つめた。

 いかに人工の影とはいえ、いざ身体から切り離されると痛みにも似た寂しさがあった。


 私はシートに背を預けつつ、時折木立の間から覗く空に目を凝らしていた。あの空のどこかに自分の影が浮かんでいるのではないか、そんな気がしたからだった。


「ねえ、本当に病院に行かなくていいの?」


 ハンドルを巧みに動かしつつ、円が横顔で言った。


「ええ。救急車には叔母さんが乗っていったし、私が一緒にいてもどうしようもないもの」


 私はうつむくと、いくぶん自虐気味にいった。どうして父も祖父も私にいろいろなものを背負わせて、遠くに行ってしまうのだろう。私は宿命なんか欲しいとは思わないのに。


 そんなことを考えていた時だった。ふと視界の隅を何かがよぎり、私は声を上げていた。


「円さん、車を停めてっ」


 私の声がよほど切羽つまっていたのか、円は「えっ」と叫んで急ブレーキを踏んだ。


「いったいどうしたの、陽向ちゃん。熊でも見た?」


 円に問い質された私は、反射的に頭を振っていた。違う。そんな物じゃない。


「円さん、見て、あれ。……何だと思う?」


 私はサイドウィンドウ越しに見える遠くの木立を、指で示した。うっそうと茂る木々の間に、人の形をした黒いものが見え隠れしていた。


「なに、あれ……人間?」


 私は円の問いには答えず、いきなりドアを開けると車から降りた。

 あれは……私の「影」だ。他の人にはわからなくても、私にはわかる。

 見え隠れする黒いシルエットは、ちょうど鏡を見た時のように「自分」としかいいようのないものだった。


「ちょっと、陽向ちゃん、何をするつもり?」


「円さん、ごめんなさい。……少しの間、ここで待っていてください。あれは……あれは、私の「影」です」


「なんですって?影がどうかしたの?」


 私が一歩前に出ると、「影」はすっと後ろに下がった。誘っている、そう直感した私は、まるで森の精に誘われる迷子のように「影」を追いかけ始めた。


 背後から円の声が聞こえたが、私は何かに憑りつかれたかのように後ずさる「影」を茂みに分けいるようにして夢中で追っていった。

 やがて木立の密度がまばらになり、「影」も周囲の明るさに合わせるかのように薄くなっていった。


 私が歩みを速めると、それまで私を翻弄するかのように逃げ続けていた「影」が突然、ひゅっと細くなったかと思うと、私の足元に飛び込んできた。


「あっ……」


 私が思わず立ち止まると、「影」はここが終点だと言わんばかりに私の足元で消滅した。


 思わず周囲を見回した私の目に、木を伐採して切り開いた広い空間が飛び込んできた。


「……ここは?」


 戸惑いながら広場に足を踏みいれた、その時だった。どこからか動物の咆哮を思わせる声が風に乗って聞こえてきた。


 ――この声……まさか。


 私は得体の知れない好奇心に掻きたてられるように、声のした方へと足を向けた。ほんの数回しか耳にしなかったが、その声は母屋の屋根にいたあの「怪物」の物だったのだ。


              〈第十話に続く〉

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