第2話 影を失くした少女



 私がその男の人に会ったのは、七歳の時だった。


 いつもは父と行く公園に、その日に限って私は一人で出かけて行った。

 おそらく自転車に乗れるようになったのが嬉しかったのだろう。公園の遊歩道で一人ベンチに腰掛け、鳥のさえずりに耳を傾けているだけで大人になったような気がしていた。


 一人の時間を充分味わったわたしがベンチから立ちあがろうとした、その時だった。黒い服に身を包んだ男の人が、まるで木立の間からにじみ出るように姿を現したのだ。


「お嬢さん、失礼ですがおひとりで?」


 男性は童話に出てくる外国の人のようにうやうやしく、私に声をかけてきた。


「……うん、一人」


「いい天気ですね。足元にとてもきれいな影ができている」


 男の人は、私の足元に目を遣りながらなんとも不思議な感想を口にした。


「影ってきれいなんですか?」


 私が尋ねると、男の人は満足そうにうなずき「私にとってはね」と返した。


「いかがです、お嬢さん……ひとつその美しい影を、私に売りませんか?」


 男の人の申し出は、子どもの私が聞いてもぎょっとするような物だった。


「影を……?身体にくっついている物をいったいどうやって買うんですか?」


「うふふ、不思議でしょうね。でも売っていただけるのなら、ちゃんと方法があるのです」


 私の当然とも言える疑問にも、男の人はごく当たり前のように応じてみせた。


「影を売ってしまったら、私はどうなるの?一生、影のない人になってしまうの?」


「どうでしょう。……あなたはまだ小さいから、また生えてくるかもしれませんよ」


 男の人は影という自然現象を、まるで髪や爪が伸びてくるかのように語った。


「人の影なんか、買ってどうするんですか?自分の影じゃだめなんですか?」


「そう、駄目なのです。あなたのように美しい影じゃないとね。……もちろん、買うからには、代金を払わせてもらいます。……これと交換ではいかがです?」


 男の人はそう言うと、黒服のポケットから橙色の石を取りだしてみせた。

 石は丸いものを真ん中から半分に割ったような形をしていて、私は見た瞬間、あることを思い出した。


「これ……お父さんが持ってる石とそっくりだ」


 私の呟きに、男の人は頷きながら顔をほころばせた。


「じゃあ、持って帰ったらさぞ、お父さんも喜ぶでしょうね。……さ、そうと決まったら気が変わらないうちに交換しましょう」


 男の人の言葉にうながされるまま、私は陽当たりのいい場所に移動した。黒々とした影が遊歩道の上にできると、男の人は手にした杖で影の輪郭をなぞり始めた。


「本当にいい影だ。……なに、大人になったらもっと立派な影ができますよ」


 男の人が影の周囲をなぞり終えると、私の身体の中で何かがはじけるような感覚があった。それは身体のどこかを鋏でちょん切られたような、微かに痛みを伴う感覚でもあった。


「さあ、影よ、おいでなさい。今からお前は私のものだ」


 男の人がそう言って杖の取っ手を外すと、私の影が頭の方からくるくると丸まり、あっと言う間に細い筒のようになった。男の人が私の足元に杖の先をあてがうと影は私の両足から離れ、一瞬で杖の中へと吸い込まれていった。


「これで……影はなくなっちゃったの?」


 私が声を震わせながら言うと、男の人は「いかにも」と満足そうな声で言った。


「さあ、約束通り「ギフト」をあげましょう。お家に帰ってお父さんに見せるといい」


 男の人はそういうと、杖を一振りして「それでは、ごきげんよう」と私に一礼した。


 気がつくと男の人の姿は消え、遊歩道には影のない私と不思議な石だけが残された。私は自転車に乗って大急ぎで帰ると、ちょうど仕事場から戻っていた父に石を見せた。


「お前、これをどこで手にいれたんだ」


 石を見たとたん、目を丸くして声を上げた父に私は「影買い」の話を聞かせた。


「……なんということだ。私がうかつだった。まさか奴らがお前を狙うとは……こんなことなら影など使わず、普通の方法で保存しておくのだった」


 父のうろたえぶりと意味のわからない言葉に、私は自分が何か大変なことをしでかしたのだとようやく気づくことができた。


「お父さん……もしかして私の影、もう生えてこないの?」


 私が恐る恐る尋ねると、父は悲し気な顔になって私を抱きしめた。


「すまない……お前の影はもう、生えては来ないんだ。買っていった人間を探して買い戻すか、私が研究を進めて新しく作り直すしかない。……許してくれ、陽向」


 父はそう言うと、普段見せたことのない涙を目尻に滲ませた。私は泣きじゃくりながら、「ごめんなさい」と繰り返した。


「お前のせいじゃない。私が……すべてこの私が悪いんだ」


「お父さん、その石はお父さんが持っている石の残り半分じゃ、ないの?」


 私が尋ねると、父はまたしても悲し気に首を振った。


「残念だが、これは違う。形も色も似ているが、これは性質がまるで違う物なんだ」


 父の喜ぶ顔を思い描いていた私はその言葉を聞き、深い谷底へと落ちていく気がした。


「じゃあ、私は騙されたの?どうしてあの男の人は、私の影なんかを欲しがったの?」


 私の矢継ぎ早の問いかけに、父は項垂れたまま「そのうちきちんと説明する」と繰り返すばかりだった。


 その日を境に私は、陽の当たる場所を極端に恐れる人間に変わってしまったのだった。


              〈第三回へ続く〉

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