10 お嬢様?



 繭由まゆゆの家へ行く前に、もうひと波乱あった。学校の正門を出てすぐのところで、綾小路あやのこうじさんが泣き崩れていたのだ。


 そのそばには送迎用の高級車が停車し、スーツ姿の運転手がオロオロしていた。自宅まで送ろうとした矢先に、彼女が急変したんだろう。


 近くを通る生徒たちは、気の毒そうな視線を送っている。けれど誰も声を掛けようとはしなかった。綾小路さんの様子に戸惑う人が半分、関わりたくない人がもう半分といったところか。


 こんなのを見せられて、無視できないのは性分だから仕方ない。

「綾小路さん、大丈夫?」

「えぐっ、ひっ、あ、あぁぁっ、うっ……」

 こりゃ重症だ。落ち着かせるところからやらなきゃならない。こんな時、自分が女子だったらいいのにと思う。


 綾小路さんは、道路に座り込んだまま、人目をはばからずに泣いていた。いつもは綺麗に巻いている縦巻きロールも、今は形が崩れてしまっている。フランス人形みたいにばっちり済ませていた化粧も、涙と鼻水ですっかり荒れ模様だった。


「ご学友ですか? まことに申し訳ありません」

 初老の運転手さんが謝ってきた。俺はとんでもない、と手を振る。

「彼女、どうしたんですか?」

「それが私にもさっぱり。正門から出てくるなり、この有り様でして……」

 運転手さんは心底困っているようだ。人の良さそうな顔が、しわくちゃになっている。


「何か言ってませんでしたか?」

 解決の糸口になればと思って聞いてみた。すると運転手さんは、泣きそうな顔で答える。

「さあ……『想いが盗まれた』とはお聞きしましたが、何のことやら」

 それを聞いて、俺は何となく理解した気がした。


 大企業の令嬢である綾小路さんが、財布一つ盗まれただけで、これだけの精神的ダメージを受けているとは今まで予想していなかった。いくら高価な財布といえども、彼女なら買い直すのは容易だろうから。


 でも、綾小路さんにとってはそうじゃなかった。盗まれた財布に込められた『想い』が重要だったんだ。


「盗まれたのはただの財布じゃない、『プレゼント』だった。そういうことだね?」

 横にしゃがみ込んで聞くと、綾小路さんは何度も頷いたのだった。





 綾小路さんが落ち着くまでには、それからもうあと三十分ばかりかかった。それを待っている間、俺は何故か『女子を泣かせた最低な男』を見るような視線を送られて理不尽さを感じたものだけど、車で家まで送って貰えることになったから良しとしよう。


「あの財布はオーダーメイドでしたの」


 努めて明るい口調で彼女は言う。けれど両目は真っ赤なままだ。リアシートに横並びで座っているから、それがよくわかる。


「なにぶん、殿方へのプレゼントは初めてでして。何を差し上げたら喜んで頂けるか分かりませんでしたから、男性従業員を対象にした一斉リサーチをお父様にお願いしましたの」

 彼女らしいというか何というか。スケールが違い過ぎる。


「で、財布が人気ナンバーワンだったと」

「ええ。ですから各ブランドの直営店を回って探しましたの。必要な時には海外にまで足を運びましたのよ?」

 プレゼント選びをしている時のことを思い出したのか、綾小路さんの声が少しだけ明るくなった。


「だけど『これだ!』というものが見つからなくて。ですから、私が懇意にしているブランドの職人にお願いして、特別に作って頂きましたの」

 途方もない時間と手間とお金のかかる話だ。まさに、彼女でなければ用意できないプレゼントだったと言える。


 くすっ、と綾小路さんが笑った。高飛車なお嬢様ではない、年相応な女の子の笑みだった。

「そこまでやる必要があるのか、とお思いになりましたでしょ?」

 聞かれたので、正直に頷く。


「私にとっては、必要のあることでしたわ」

 彼女の言葉には迷いも後悔もない。

「私にとって、煌星こうせいさまはそれだけ価値のある方ですの」

 さま、を付けて名前を呼ぶなんて。好きを通り越して尊敬の対象みたいだ。並ならぬ好意を抱いていたのが解る。


 それからというもの、綾小路さんは煌星との出会いや今日に至るまでの出来事を余すところなく語った。

 入学式で、初めて会ったときから好きだったという。一目惚れだそうだけど、超絶美少年の煌星が相手じゃ仕方ない。入学式当日から、彼の周りは学年関係なしに女子生徒で溢れかえっていた。


「一年以上、お姿を拝見して参りましたが、煌星さまはやはり素敵な方でしたわ。あれだけの数の女子を相手にしても、慢心せず増長もなさらない。それどころか、皆様への気配りを常に心がけていらっしゃいました。『完璧な男性』とは、ああいう方のことを言うのでしょうね」


 ここまでベタ褒めだと、聞いている俺の方が恥ずかしくなってくる。


「きっと煌星さまにとって私は、『みんな』の中の一人でしかないのでしょう。ですが私にとってあの方は、差し上げようとした財布と同様にオンリーワンですの」

 だから、プレゼント一つをとっても手間ひまを惜しまなかったというわけらしい。


「……と、ここまでは綺麗なお話ですわね。ここからは少々汚い話になりますわ」

 そう前置きして、綾小路さんがこちらを見た。続きを話して良いか確認しているようだけど、繭由の助手としては聞いておくべきだろう。


 先を促すと、綾小路さんは頷いた。彼女は彼女で、全てを話す気らしい。

「私はプレゼントを差し上げることで、『みんな』から抜け出したかった。もっと直接的に言えば、煌星さまの気を引いて、あわよくば自分だけのものにしたかった。とんでもない独占欲だと言われれば、その通りですわね」


 包み隠すことの無い、正直な言葉だ。それだけに、共感できる部分もある。自分が好きになった相手を独占したいという気持ちは、誰にでもあるはずだ。


「煌星さまを独り占めする為には、どんな手でも使うつもりでしたの。あの日までは」

 あの日、とは財布が盗まれた日のことだろう。

「私は、自分が手段を選ばないなら、周りの方々も同じだということを忘れていましたの。きっと覚悟が足りなかったのでしょうね」

 覚悟が足りなかったから、財布――ではなくて『想い』を込めたプレゼントを盗まれて酷くショックを受けた。そういうことらしい。


「私が皆様から煌星さまを奪おうとしたから、逆に奪われた。少し考えれば、そうなることが分かったはずですのに。我ながら情けない話ですわね」

 綾小路さんが、事件の翌日に学校を休んだ理由はこれで分かった。じゃあ、今日は感情を押し殺していたのは何故?


 疑問に感じたことを率直に尋ねると、綾小路さんは僅かに涙を滲ませた。

「……それが、自分でもよく解りませんの。最初は、私の邪魔をした犯人への対決姿勢を示そうとしていたのですけれど……帰ってきた財布を見た途端にガラガラと崩れてしまいまして……」


 あの時、目を見開いた一瞬だけ、確かに彼女の感情のブレを感じた。


「今さら財布が帰ってきたところで、そんなものを差し上げられるはずがありません。一度、他人の手に渡ってしまったものは、もう『プレゼント』ではありませんから」


 財布を無価値なものとして捨てのは、そういう理由かららしい。彼女にしてみれば、プレゼントの財布を盗むという行為は、対象物に込められた『想い』を盗む行為と同義なんだろう。


「犯人には弱みを見せたくない、だけど自分にとって価値の無くなったものを見せつけられるのは辛い……その気持ちの狭間で揺れ動いていたのだと思いますわ」

 今日一日、彼女はぎりぎりのところで自分を保っていたんだろう。


「で、さっきは耐えきれずにあふれ出してしまった……と?」

「きっとそんなところですわ」

 声を震わせながらも笑って見せる綾小路さんが、今は凄く健気けなげに見えた。

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