07 繊細ピアニスト?
俺が質問をとちったせいで、
鷲尾さんが先に帰ったので、俺は一人で教室に残る。少し、考えをまとめることにした。
依然として、
だけど、彼の話が本当なら、彼もまた鷲尾さんと同様に、授業を途中で抜け出したことになる。となると、その間に財布を盗むことは可能なんじゃないだろうか。
鷲尾さんにしても同じだ。理由はどうあれ、彼女が授業を途中で抜けたのは事実だろうから。
「詰めが甘い、か」
自分のふがいなさに溜息が出てしまう。輝良人からも、鷲尾さんからも、実のある話が聞けなかったわけで。また
そろそろ繭由の家に行こうか、そう思って顔を上げた。窓の外はもう暗い。冬だから日没まであっという間だ。
通学鞄を持って教室から出ると、どこからともなく流れるようなメロディが聞こえてきた。廊下の窓から中庭の方を見ると、三階の角部屋から明かりが漏れている。あそこは確か、音楽室だ。
まだ誰か残ってるんだろうか?
興味の赴くまま、俺は音楽室へ向かった。
音楽室から聞こえてくるのはピアノの演奏だ。川のせせらぎのように穏やかな雰囲気から、次第に弾みのあるアップテンポへ。そこから更に、海原へと広がるような壮大な旋律に変化して、次第に怒涛の激しさを増していく。
俺が音楽室のドアを開くと、グランドピアノを演奏している女子の後ろ姿が見えた。小さな身体を激しく揺らして弾くその姿は、まるで自分の魂そのものを鍵盤に叩きつけているようだ。今や曲調は激情のように強く、聞いているうちに高揚感にも似た興奮が込み上げてくるほどだった。
しかし突然。
調子外れな音がして、演奏がストップした。失敗でもしたんだろうか?
俺は拍手しながら、彼女のいる防音室に入っていく。ここまでの演奏を聞いて、素直に賞賛の言葉を送りたくなった。
「さすがだね、
「
彼女が振り返った。肩より少し長い黒髪を後ろで一つにまとめ、素朴な顔立ちをしている彼女は、いつもなら地味な印象だ。けれど今は頬が赤みを帯びていて、普段より魅力的に見える。演奏するのに体力を使ったから、顔が上気してるんだろう。
「ごめんなさい。私、扉を閉め忘れてて」
聞けば、音無さんは毎日放課後になると防音室を借りきってピアノの練習をしているんだそうだ。さっき曲が聞こえてきたのは、彼女が防音室の扉を閉め忘れたかららしい。
「うるさくなかった?」
「いや、実に素晴らしい演奏だったよ」
数々のコンクールで受賞経験のあるピアニストに、誉めこそすれ、うるさいだなんて。そんな失礼なことは言えるわけがない。
「いえ、そんな……私なんてまだまだ……」
あれだけ演奏できるのに、まだ満足していないみたいだ。本当に才能がある人は、みんなこんな感じなんだろう。
「聞いたことのない曲だけど、何ていう曲?」
音楽に詳しい方ではないから、曲名を教えられてもピンとこないだろう。でも、これだけ感情に訴えかけてくる曲には、少し興味が湧いた。
「おもい……で」
「思い出?」
「……うん」
「誰の曲? すっごい良かったから、ネットで買いたいんだけど」
「私のオリジナル……です」
かあっ、と顔を赤くして音無さんが俯いてしまった。
「へぇ、そうなんだ! 凄いね!!」
純粋にそう思ったから口に出した。腐っても作家の端くれだけど、こういうときは語彙力が追い付かない。
「やめて……恥ずかしい……!」
音無さんはますます頬を染める。誉められ慣れていないらしい。
そんな彼女を、不覚にも可愛いと思ってしまった。
「でね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。いいかな?」
音無さんが落ち着くのを待ってから、そう切り出した。彼女も一応は疑いのある生徒だ。何も聞かずに帰ったら、繭由に文句を言われる。
音無さんは、ちらりと時計を見た。
「少しだけなら」
「ありがとう」
俺は、さっき鷲尾さんに聞いた話を説明した。彼女が授業を途中で抜け出し、校舎に向かったという内容だ。
それを踏まえて、こんな質問をしてみた。
「もしかしたら、保健室から鷲尾さんが見えたんじゃない?」
俺がそう推測したのは、グラウンドから中庭に入れる通路が、保健室と隣り合っているからだ。この通路を通り、右へ曲がるのが女子更衣室への最短ルートとなっている。もし鷲尾さんが『体調不良』のために中抜けしたなら、最短ルートで女子更衣室に向かったと俺は考えたわけだ。
一方、体育の授業中は保健室にいた音無さんだから、彼女は中庭を走る鷲尾さんの姿を目撃した可能性がある。要は、その考えが正しいかどうかを確かめたかったのだ。
「見た……と思う」
誰かに気を遣っているような言い方だけど、俺の考えは正しかったみたいだ。
「鷲尾さんは、どこに向かってた?」
音無さんは首を横に振る。
「本当に少し見えただけだから……」
分からないらしい。体調不良で休んでいたんだから、無理もないことだ。多分、ベッドで横になっていたんだろう。
「そっか」
こちらとしては、推測の裏付けが取れただけで満足だ。もう外は真っ暗だから、女子を遅くまで引き止めておくのは心苦しい。
協力してくれたことにお礼を言うと、音無さんは恐縮して手を振った。途中まで送ろうかと申し出ても、同じリアクションだ。彼女は椅子の上に置いていた通学鞄を手に取る。
そのときに気付いた。
「あれ? いつもの髪留めは?」
彼女の後ろ姿を見た時から違和感があった。改めて見て、その正体に気付いたのだった。
いつもの音無さんは、髪留めを使って、うなじの辺りで髪を束ねている。彼女が使っている髪留めは、ラピスラズリを使ったアンティークなデザインで、大人のお洒落という感じがする。いつか聞いた話では、十五歳の誕生日に両親から送られたものだという。節目の年齢に達したお祝いなんだそうだ。
その髪留めを、音無さんが付けていない。何かあったんだろうか?
「ああ……」
一瞬、音無さんは哀しそうな顔をする。目を伏せ、僅かな逡巡の末に彼女はこう言ったのだった。
「……盗られたの、誰かに」
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