第27話 居場所
居場所
「ちょっと歩きませんか」
篠崎が運動の時間に話しかけて来た。
「歩きませんか…」それは、他の誰かに話しを聞かれたく無い時のサインだ。
僕はその誘いに応じ、篠崎と二人グラウンドを並んで歩き始めた。
「何かあったんですか?」
歩き始めて直ぐに、僕は篠崎に聞いた。
「いや、特に人に聞かれたく無い話でも無いんですよ。まだ確定したことでも無いんで、イガさんだけには耳に入れておこうと思って」
篠崎にそう言われると、お前の事は特別に思っていると言われている様で、何処かくすぐられる様な気がする。
刑務所の中と言う特殊な環境では、同じ工場で働く同囚と言えども、その関係は友達では無い。
何をやって刑務所に入って来たのか、娑婆でどんな暮らしをしているのかも分からない人間を、自分の事は棚に上げたとしても、容易に信用する事は出来ない。
それはつまり、言葉一つも選んで話さなくてはいけないという事で、そんな相手が友達である筈もなく何時ケツを捲られるかも分からない。
それだけに、こうやって運動の時間に篠崎が「イガさんにだけ」と言って内緒話を持ちかけてくれるのは、お前の事は友達だと思ってると言われてる様で、嬉しくも有った。
「実は今朝オヤジに呼ばれて、このまま工場に残る気は無いかって聞かれたんですよ」
「えぇ!マジですか」
僕は唯一心の許せる篠崎が工場に残っるてくれるかも知れない嬉しさと、自分から工場に残りたいと言ったならまだしも、工場担当からそんな話しを持ちかけられた事の驚きで、大きな声で聞き返した。
「貸与係の駒田さんが四月の中頃に出ちゃうじゃ無いですか。その後釜にどうかって言われて」
なるほど…。
それなら悪い話でも無い。
出しゃばる事も、人を焚きつけて喧嘩を煽る事もない篠崎の人間性を、工場担当ともなるとちゃんと見てるのだろう。
「それで、何て返事したんですか」
「少しだけ考えさせて下さいって」
そりゃそうだな…と思った。
篠崎ほどの人格なら、元居た1工場にだって気の合う奴はいた事だろう。
何かと人恋しい刑務所の中、況してや篠崎だって残り少ない刑期だ。
最後にもう一度話しをしたい相手が居たって不思議ではない。
「必ず戻って来いって1工場のオヤジにも言われてるんですよ」
そうか、担当のヅケ(覚え)も良いなら、戻っても楽な仕事に付けるに違いない。
「帰れば立ち役ですか」
「いや、自分の場合、家具の塗装班の班長をしていたので、また同じ仕事をさせて貰えると思うんですよ」
「その仕事は面白いんですか」
「まあ得意というか、娑婆でも塗装の仕事をしてたので」
そう言う事か…だったらこの工場に残って人の洗濯物や飯の準備なんかをやるよりは、得意な事をやってる方がマシってもんだ。
「自分的にはシノさんに残って貰えると、こんなに嬉しい事は無いですけどね」
あまり深刻にならない様に、さらりと言ってみた。
「そこなんですよ、自分もイガさんを置いて行くのは気が引けるって言うか、自分があの部屋から出ちゃったらイガさん独りぼっちでしょ」
篠崎が言う通り、同じ部屋の李と松岡は特別に仲が良く、何時も二人で戯れあっている。
それを鬱陶しいと思う事も多いが、今は篠崎がいてくれる事でキレそうな時もどうにかやり過ごす事が出来ている。
篠崎はそこを心配してくれているのだ。
だからと言って「俺の為にこの工場に残ってくれ」とは言えない。
「俺の事は気にしないで、シノさんの一番良い様にした方が良いですよ」
ここが刑務所である以上、仲が良いだけに篠崎には暮らしやすい場所に居て欲しいと思う。
それに…僕の事を考え、古山のオヤジに即答しなかった篠崎の友情がまたらなく嬉しかった。
「イガさんならそう言ってくれると思いましたよ。自分、やっぱ残りますよ。ここに居れば風呂も毎日入れるし」
弾ける様な笑顔で篠崎はそう言った。
油まみれになる自動車整備の仕事、他の工場は週に二回しか無い入浴の時間も、自動整備工場だけは特典として毎日の入浴があるのだ。
僕が気を使わない様に、篠崎はその事を持ち出したのだろう。
篠崎の残刑期は僅かに半年…。
刑務所の中の時間の経過は驚くほどに早い。
篠崎との一時的な別れはあっという間に来るだろう。
それでも…自分勝手な事を言えば、今僕の置かれている環境の中で、僕自身が無事故で刑期を全うするには、何時も僕の精神的な面まで気遣ってくれる篠崎は、無くてはならない存在だった。
憎っくき副担当が移動になり、いつか李が話した様に僕の芽が少しづつ工場の中でも出始めた。
神戸刑務所で三級整備士の資格を取った時の教官だった飯山技官が、作業中に珍しく僕に話しかけて来た。
「五十嵐どうだ、もうすっかりこの工場にも慣れたか」
今まで飯山技官も副担当の目を気にしていたのか、この工場に来て直ぐに一度挨拶をしたくらいで、今日までまともに話しをする機会も無かったと言っていい。
そう思うと、前の副担当の佐藤は、他の職員から特別に目を掛けられている奴が余程嫌いだったのかも知れない。
僕の場合、貝塚のオヤジの口利きでこの工場に配役され、仕事を直接教わる技官は以前いた刑務所からの顔見知りだ。
自然、話し方だって気安さが混じる。
前の副担当は、そう言う事が我慢できなかったのかも知れない。
「まあ、この工場は受刑者の数も少ないし、言ってしまえば他の工場から選ばれて来た連中ですから、こんな楽な工場は無いですよね」
「佐藤先生も居なくなったしな」
飯山技官はニヤリと笑い、含みの有る事を言った。
「何の事か分かりませんが、まあそんな所です」
僕も笑い返す。
技官だって刑務所の職員である以上、あまり気安く口を利いていい相手では無いが、余程の事がない限り直接罰則を与える立場では無いし、それに僕と飯山技官との間には、三年近く同じ職場で働いて来た実績が有る。
歳だっておそらく同年代だろう。
気安くなるなと言う方が無理な話だった。
「お前、整備の仕事をやってくれるか?」
唐突に飯山技官が言った。
どちらかと言えば板金塗装が得意な僕は、出来るなら洗車班を卒業した後は塗装の仕事をさせて貰いたいと思っていた。
それに…神戸刑務所の自動車整備工場で働いていた時も塗装の仕事をしていた事で、僕が塗装の仕事の方が向いている事を飯山技官も知っている筈だった。
「整備ですか…」
洗車の仕事には正直飽き飽きしていたし、直ぐにでも飛び付きたい話では有ったが、一度整備の仕事に就いてしまうと、後から班を変えて欲しいと言った所で中々聞き入れて貰えない。
「塗装の方は上野が頑張って居るからよ」
つまり、僕の出番はないと言う事か…。
刑務所で職業訓練を受けたとしても、ほとんどの者が資格だけ取って直ぐに釈放されてしまい、刑務所の中で職人を育てるのは難しい。
しかし、板金塗装班の班長で有る上野は、五年の刑期の内、既に四年もこの工場で頑張って居る。
板金の腕もそこそこの物になっていた。
そこを押し退けて僕が出しゃばる事も出来ない。
確かに車検整備の仕事をするしか無いのかも知れない。
「7月に車検整備の班長が出所するから、その後釜をお前にやって貰おうかって話しが出てるんだよ」
「そんな話しを技官の口から言っちゃって良いんですか?」
工場の中の人事を決めるのはあくまで本担当の腹一つ、技官にはその権限はない。
だからこそ僕は飯山技官にそう聞き返した。
「バカ、ダメに決まってるだろ。だからお前も誰にも言うな」
そう釘を刺した飯山技官は、僕に話しかけた時とは別の刑務所の職員の顔に戻り、他の班に作業指導へと出て行った。
その日の午後、僕は古山のオヤジに呼ばれ第二班車検整備係への移動を申しつけられた。
この晴見自動車整備工場の車検整備班でやる仕事は、殆どの場合、刑務官や技官の車の車検、及び点検がメインで、その他は契約している近隣の中古車販売店の店頭に並ぶ前の車の点検や修理だ。
特に多いのはロクマルと呼ばれる古いランドクルーザーの修理点検で、ミッションの交換やクラッチのオーバーホール等もやっていた。
刑務所は1日でも古い奴が偉いと言う暗黙のルールが有るものの、この晴見自動車整備工場に関して言えば、職業訓練生が整備の現場にもいる事で、技術者として有資格者が配役された時にはその立場を簡単に逆転する事も可能だ。
尤も、その有資格者に技量が無ければ、鼻くそ程度にしか扱われ無い事も又事実では有るが…。
僕の場合、こと車の事に関してなら多少の自信はある。
只でさえ昨今の整備士は、エンジニアなんて誰も呼ばずチェンジニアと揶揄される事が多い。
「OBD2」と言うパソコンで言うところのインターフェースが車の車内に設置されるようになってからは、そこにケーブルを繋げば、後はコンピューターが勝手に故障診断をしてくれる様に成った。
車のエンジンだって火力を動力に変えている以上、燃料と火と空気が有れば止まる事はない。
その3つがなぜ交わら無いのかをOBD2は勝手に診断してくれる。
今の整備士に知識など殆どの場合必要も無く、故障診断機が検出した部品をただ交換するだけで良い。
だから今の整備士はチェンジニアと揶揄されるのだ。
しかし、この晴見自動車整備工場に入って来る「ロクマル」と呼ばれる30年以上前のランドクルーザーにそんな装置はなく、僕は手探りで故障箇所を探し出し、エンジンのバラツキや異音を消して行った。
本担当の古山のオヤジの信頼を得るまでに、僅かな時間で充分なくらい、僕はあっという間に頭角を現し、自分の居場所を確立して行った。
何かとぞんざいな口を利いて来たあの李でさえ、自動車整備についてあれやこれやと僕に質問をして来るようになった。
僕はその質問にいちいち丁寧に答え、いつしか李は僕の弟子のような存在となり、今まで鬱陶しいとすら思う事の多かった李が、可愛いとすら思える様に成っていた。
受刑生活の事だけを考えれば、整備の腕を周りに認められ、この工場に居る限りもう人間関係で懲罰を受ける事もないだろう。
もうすぐ四月…四月になれば新しい訓練生もやって来る。
新しい訓練生にしてみれば、有資格者は雲の上の存在だ。
僕は大きな顔をしてその訓練生に整備のイロハを教えるだけで良い。
教える立場にさえ成って仕舞えば、作業中の脇見、雑談で調査を受ける事もない。
何もかもが上手く行って居た。
受刑生活の辛さ苦しさなどどこ吹く風の様に、日々は足早に過ぎて行く。
貝塚のオヤジ、古山のオヤジ、飯山技官、僕の為に工場に残ってくれた篠崎や、李や松岡が僕の事を褒め称え押し上げてくれる。
何もかも…そう、昼間の僕は誰もが抱える受刑生活の不安など一切感じる方も無く、また、大沢社長が身元引受人として受け入れ態勢を整えてくれる事で、仮釈放の不安さえもない。
親友の吉川和也が毎月本や手紙を送ってくれる事で淋しい思いを感じる事もない。
それでも…それでも僕は眠れない夜を数えている。
ただ一つ、翠の事だけがまったく上手く行って居なかったから。
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