第28話 亀裂
亀裂
「五十嵐ぃ」
車検整備班に移ってから、飯山技官と会話する機会が格段に増えた。
整備の打ち合わせもさる事ながら、神戸刑務所時代の同囚の噂話に花を咲かせる事も多い。
受刑者同士の作業中の雑談は不正公談として罰則も受けようが、刑務所の職員で有る技官となら、どんなに談笑しようとも処罰される事は無い。
「おはようございます」
僕は飯山技官の呼び掛けに笑顔で答えた。
「軽トラックのエンジンの載せ換えが有るんだけど出来るか?」
技官は受刑者に仕事は教えるが、自らの手を汚して作業をする事はない。
従って、車検以外の整備はいちいちこうやって担当者となり得る受刑者に出来る、出来ないの確認を取る事も習慣と成っている。
「エンジンは前ですか、後ろですか」
エンジンの載せ換えは、エンジンその物がどこに設置して有るかで作業のやり易さが随分違う。
「両方だ。全部で3台有るんだよ」
「出来ない事は無いですけど、班長の吉井さんには断らなくて良いんですか」
幾ら僕と飯山技官が気安い仲だと言っても、車検整備班の班長はあくまで吉井だ。
しかも、吉井は二級整備士の資格を持った経験豊かな技術者で、エンジンの載せ換えくらいは朝飯前だろう。
「吉井も出所が近いからな。少しは楽させてやらないと可哀想だから、お前が出来るならやって貰おうと思ってよ」
飯山技官はそう言ったが、出所間近の受刑者は何故か矢鱈と怪我をする。
娑婆の事を考えると、ついソワソワとし作業に身が入らないのが大きな理由ではなかろうか…。
更に言えば、手抜きの作業をして何らかのクレームで車が帰って来たとしても、整備した本人が出所してしまい、何処をどう手抜きしたのかが分からなくても困るのだ。
そう思えばこそ、飯山技官も僕にこの話を持って来たのだろう。
「分かりました。やらせてください」
僕はそう言って飯山技官に頭を下げた。
「ところでよ」
と口にして話しを切り替えた飯山技官に、僕は俄然興味が湧いて来る。
さて、今日はどんな愉快な話しを振って来るのだろう。
「お前、神戸で三級整備士の資格を取ってからどれくらい工場で働いてたっけ」
「あの時は丸3年お世話になったんで、資格を取ってから2年はあの工場で働かせて貰いました」
「そうか……」
そう言ったきり飯山技官が思案顔になる。
「何か有りました?」
僕は意味もなく不安になり、そう聞き返した。
「いやな、今度来る整備の訓練生が10名の所7名に減ってしまったんだよ」
「予定してた訓練生が取り調べに成ったとか、そう言う事ですか?」
刑務所の中の職業訓練は1月頃に募集が掛かり、3月にはその可否が決定する。
訓練開始が4月…。
それまでの間、うっかり取り調べにでも成ろう物なら、せっかく掴んだ資格取得のチャンスも水泡に帰すと言うもの。
今年はそのうっかり者が3名も居たのだろう。
「まあ、早い話がな…」
「で、その3名減ったのと自分の実務経験が何か関係あるんですか?」
僕は当然の疑問を口にした。
「まだ俺が勝手に思ってるだけでどうなるかは上次第なんだけどな、お前、二級整備士の試験を受けてみる気は有るか?」
「二級ですか?」
「実務経験も今回と前回のを合わせれば充分足りるし、予算も3人分余ったからよ…どうだ、やって見るか」
何と言う幸運な…。
二級整備士の資格を取るには、三級整備士の資格を取ってから更に3年の実務経験を必要とする。
前刑、神戸で三級を取った後2年の実務経験を積み、更に今回の訓練生と一緒に来年3月に試験を受けたとしても、飯山技官が言う様に3年の実務経験は充分にクリア出来る。
何よりも真っ先に頭に浮かんだのは、翠に対し僕自身が反省をし、社会復帰に向けて最大限の努力をしている事の最高のアピールに成り得ると言う事だ。
飯山技官の問い掛けに、僕は是も非もなく飛び付いた。
「やらせてください。よろしくお願いします」
僕は腰を45度に曲げ、深々と頭を下げた。
「待て待て、まだ決まった訳じゃ無いって言ってるだろ。一応オヤジにも相談して見るから、今日はお前の意思を確認してみただけだ。分かったな」
飯山技官はそう言って僕を牽制したが、これだけ具体的な事を僕に言って来る以上、ある程度の話しは既に決まっている筈だ。
「この事は家族にもまだ手紙で知らせたりするなよ。上はけっこうデリケートだからよ」
飯山技官はそう言い残し、僕のそばを離れて行った。
4月、自動車整備科及び小型建設機械科の職業訓練生合わせて15名が一度に入って来た。
それと同時に、僕の二級整備士の職業訓練も決定した。
工場の人員も30名を超え、一気に賑やかに成った。
幾ら他の工場で成績が良く、大勢の応募者の中から選ばれてこの工場に来た連中だとしても、そこは一癖も二癖もある再犯の受刑者ばかり。
この時期、必ず揉め事が起こり何名かの脱落者が出る。
特に多いのは、訓練生同士のしょうもない喧嘩だ。
前年度の訓練生は有資格者となって新しい訓練生の面倒を見るのが慣しとなって居るが、あまり深く関わってしまうと、そのしょうもない喧嘩に巻き込まれ、我が身諸共この工場からフェードアウトともなり兼ねない。
僕は飯山技官の好意により、二級整備士の訓練生となったが、例外として訓練生の身分で有りながら車検整備班の次期班長にも指名される事になった。
訓練生同士のしょうもない喧嘩…つまり僕もその一人だ。
同じ訓練生で有りながら、何かにつけ優遇されている僕を、気に入らない奴だっているかも知れない。
余程気を引き締め無ければ、この先一年の職業訓練を全うする事も出来ないだろう。
何が有っても、僕は二級整備士の資格を取得する。
そうすれば…翠だって必ず認めてくれる筈だ。
いやそれより、僕がどれだけ真面目に訓練に取り組んでいるかを知れば、翠の事だ、必ず面会に来て僕を励ましてくれるだろう。
頑張っている人を見ると、翠は全力で応援する。
この10年、翠のそんな性格に妬き持ちを妬いた事さえある。
僕が頑張っていることを知って、何時迄も僕を試す様なことをする筈がない。
翠が僕の考えや行動を先回りして理解出来る様に、僕だって翠の事をずっと見て来たのだ。
必ず来る…翠は必ず僕を励ましに面会にやって来る。
僕はそう確信していた。
翠へ
今日は翠に報告が有って手紙を書いたんだ。
実は二級整備士の職業訓練を受ける事になって、来年の春に試験を受ける。
今も整備士の資格は持っているけど、三級整備士の資格だと出来る事も限られてるからね。
二級整備士の資格を取れば殆どの作業が許されるから、仮釈放でここから出た時に大沢社長にも恩返しが出来る。何より二級整備士の資格が持てるって事は、将来自分の整備工場を出せるって事でもあるんだ。
勿論、資格を取るのは簡単では無いし、これから一年、必死で勉強をしなければ絶対に合格なんて出来ない。
だからって訳でも無いけど、出来る事なら二級整備士の資格を取る為の訓練に集中したいと思うんだ。
それには、今一番の懸念事項でも有る翠との事が、少しでも楽になってくれたらな…なんて思うんだよ。
なに自分勝手な事をと思うだろうけど、こんなチャンスはそう滅多に訪れるものでは無いし、もっと言えば娑婆に出てから試験を受けようったって、受かる自信なんか絶対に無いからね。
先日、大沢社長と面会した時に翠の気持ちを少しだけ教えて貰ったけど、俺も今回の事件の事は本当に反省してるし、薬さえやらなきゃ二度と他の女に目が行ったりする事もないって誓えるから、二級整備士の資格を取る為に、それは俺たちの将来の為なんだから、一度で良いから面会に来て貰えないだろうか。
そして「頑張れ」て言って欲しい。
刑務所の中の職業訓練は正直かなり厳しいんだ。勉強も人間関係も担当からの目だって他の受刑者とは違って厳しくなる。その中で一年間頑張り通すには、俺には翠の力が必要です。
「甘えるな」って言う翠の声が聴こえて来そうだけど、どんな条件を突き付けられ様とも翠の言う事は100パーセント尊重するから、今は俺の事を応援して欲しい。
勝手な事ばかりでごめんな。
それでも面会に行くのは気が進まないと言うなら、翠の考えを電報でも良いから知らせて下さい。
無視される…俺にとってそれが一番辛いし苦しい事なんだ。勉強が手に付かないなんて事にならない様に、どんな形でも良いからこの手紙の返事を下さい。
待ってます。
健二
手紙を書いた…と言うだけで、僕の心は幾らか軽くなっていた。
まあ、これくらい書いて置けば翠だって心が動かない筈はない…。
いや、誰だったこれだけの事を言われれば、先ずは何らかの連絡はよこすだろう。
僕の自己満足と、僕と翠の絆への過信が、ただ手紙を書いたその事実で、この職業訓練のスタートダッシュで躓かない程度に、僕の心を穏やかにしたくれて居た。
職業訓練生が4月に集まったからと言って、直ぐに訓練がスタートする訳では無い。
他の工場から集められた訓練生は、一日も早くこの工場に慣れる為、僕が新入の時にやった事と同じ様に、声出しや行動訓練をみっちりとやらされる。
同じ訓練生と言う身分で有りながら、元からこの工場に居た僕はそれらの事を全て免除され、何時もと変わらない与えられた自動車整備をこなす毎日を送って居た。
5月…刑務所の中にもゴールデンウィークはやって来る。
刑務所の中に居て最大の楽しみは祭日の「甘シャリ」つまり、お菓子だ。
祭日は必ず一人に一袋、何らかのお菓子が配られる。
ゴールデンウィークや正月の様な連続した祭日の有る時は、お菓子を食べながら録画の映画を観る。
それがどんなに嬉しくて幸せな気分になるのかを、面白おかしく手紙に書いて翠に送った。
6月…ソフトボール大会で我が自動車整備工場が優勝した。
僕がどんな活躍をしたのか、個人プレーが大好きな連中をどうやってまとめ上げたのかを手紙に書いて翠に送った。
7月…翔太の夏休みには何処かに行くのだろうか。いつかここから出たら、家族3人で海の有る何処かへ旅行に行きたいと手紙に書いた。
8月…葵さんの初盆の事。
9月…一雨毎に寒くなる季節の事。
10月…翠の誕生日のお祝いと、まるでオリンピックの様な国際色豊かな府中刑務所の運動会の事。
11月…二級整備士の実技免除の講習が始まり、その勉強について行くのがやっとで、必死に机に噛り付いて勉強している事。
12月…新しい年が来る前に、せめて一度だけでも面会に来て欲しいと、僕は翠に手紙を送った。
それでも…翠からの連絡は一度たりとも来る事はなかった。
僕の心は日ごとに暗くなり、年明けにはラストスパートを掛けなければいけない受験勉強にさえも身が入らなくなっていた。
親友の吉川和也からは、相変わらず月に一通は手紙が送られてくる。
何かにつけ、翠は吉川に相談をしている様だ。
そんな事のいちいちを、吉川和也は僕に知らせてくれる。
僕自身吉川に何度も翠に面会に来る様に伝えて欲しいと手紙を書いたが、その度に翠は「近いうちに行くつもりだ」と答えるらしい。
大沢社長も二ヶ月に一度は面会に来てくれる。
相変わらず盆暮れの付け届けは欠かさずに翠から届いているらしい。
その都度電話では話すが、何時もと変わった様子は何も無いらしい。
「何でも一度面会に来たけど、時間に間に合わなくて面会出来なかったなんて言ってたぞ」
大沢社長の話しを半信半疑で聞いたが、その後吉川和也からの手紙にも同じ様な事が書かれていた。
少し前の僕なら飛び上がって喜んだかも知れないが、無視され続ける事で、僕の気持ちが少しだけ変化して来たのかも知れない。
「ふざけるな…何が時間に間に合わなかっただよ」
そんな言葉が僕の口から零れ落ちた。
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