第19話 副担当

副担当



「黙想やめぇ」


そう言いながら食堂の中に入って来たのは、おそらく副担当だろう。


言われた通り閉じていた目を開けると、そこには刑務官の制服に着られている様な、ちんちくりんな小男が立っていた。


「この後、副担当から話しが有るから」と古山のオヤジに言われ、小一時間は黙想をしていたのでは無いだろうか…。


「これから運動でグラウンドに行くから、そのまま出て来い」


血の通わない人間が話すと、こう言う話し方になるのでは無いか…と思える様な冷たいもの言いだ。


「グラウンドって外のですか」


僕は思わず聞き返した。


「何処だって良いんだよ!黙って言われた通りにしろ!」


からだの大きさに似合わない大声。


僕は丸首シャツに裏地の無い薄っぺらな舎房着一枚だ。


運動は一日40分。


食堂に入れてもらい、やっと身体が温まったと言うのに、40分も吹き曝しのグラウンドに立たされたのではたまったものでは無い。


「すみません、メリヤスか何か着ても良いですか?」


新入工場から持参した手荷物の中に、私物のヒートテックも有る。


引っ張り出せば、ものの1、2分で着ることも出来るだろう。


「最初から着て来ないお前が悪いんだろうが、皆んな整列して待ってるんだよ、お前一人のために時間なんか取れるわけないだろ!」


そう言って有無を言わさず、寒風吹き荒む師走の戸外へと僕は引っ張り出された。


食堂の外に出ると、誰が履いたのかも分からないクタクタのアップシューズが置かれている。


右足の親指の部分には穴まで開いていた。


「これを履いて列に並べ」


副担当は、そう言ってアップシューズを足で蹴って僕の方に寄せた。


水虫は大丈夫だろうか…中々薬を貰う事が出来ない刑務所の中、水虫など貰った日には地獄の苦しみを味わう事も少なくは無い。


だからと言って嫌は言えない。


仕方なく言われた通りに足を差し込むと、ブカブカでまるでサイズが合ってない。


28センチ位だろうか…26センチの僕の足には大き過ぎ、歩く度に脱げそうになる。


「チンタラやってないで直ぐに並ぶんだよ」


工場の前の、大型トラックが二台すれ違える程度の敷地の真ん中あたりで、この工場で働く受刑者が整列していた。


「キヲツケ、右へ倣え、直れ、右から番号!」


歯切れの良い口調で副担当が号令を掛ける。


点検人員は僕を入れて19名。


この巨大な整備工場にしては、随分少ないと思った。


「右向け右、前へ倣え、直れ、足踏み始め、前へ進め!」


次々と号令が掛かるが、ブカブカの靴で足元が覚束ない僕は、そのスピードについていく事が出来ない。


「五十嵐!やる気が無いなら出て行け!」


副担当の怒号が飛ぶ。


これは一体なんなんだろう…ただのいじめでは無いか…と思っても、刑務官に言葉を返す事は許されてはいない。


「すみません」


許されている言葉はその一言だけ。


奥歯を噛み締めながら、僕は脱げそうな靴を足の親指で必死に抑え、どうにか行進の体裁を整えた。


普通に歩いても3分と掛から無いグラウンドまで、やたらと小さい歩幅でゆっくりと歩く。


その間、副担当が「イッチ、ニイ、イッチ、ニイ、左、左、左右!」と歩調をかけ続ける。


グラウンドの中に入ると


「その場足踏みぃ」


と号令が掛かる。


その間も副担当の歩調の声は止まる事はない。


「五十嵐ぃ、背中を丸めるな、五十嵐ぃ聞こえてるのか!」


歩調の合間に集中砲火を浴びせてくる。


僕は僕で、シャンと背中を伸ばしているつもりでも、寒さのせいで自然と背中が丸まってしまう。


「五十嵐ぃ、お前のせいで全員が行進を止められないんだよ!イッチ、ニイ!イッチ、ニイ!」


僕はこれでもかと背筋を伸ばし、胸を張って習った通りの行進をしてると言うのに、副担当はまだ僕を攻め続ける。


何時迄も止まない足踏みに、業を煮やしたのは他の受刑者だ。


イッチ、ニイと副担当が号令をかける合間に舌打ちが聞こえ始めた。


「五十嵐ぃ、お前が出来るまで止めないからな!」


副担当にそう言われても、僕にはもう自分の何が悪いのかも分からない。


「新入訓練工場さえくぐり抜ければ、後は他の刑務所と大差無いですよ」と言った後藤の言葉が、今更ながら恨めしい…。


「後藤さん、話しが違うじゃねぇかよ」と心の中で毒づきながら、僕は必死の形相で大きく手を振り、足を上げた。


5分くらいは「その場足踏み」をしていたのでは無いだろうか…。


「全体止まれ!」


副担当が号令を掛けた。


永遠に思われた時間がやっと終わった。


最後は、ペラペラの薄着で運動に出たと言うのに、僕は寒さを感じる事も忘れていたようだ。


「体操」


と言う号令の後、開脚、伸脚、屈伸、アキレス腱など、身体をほぐし「別れ、運動」の号令でそれぞれが自由な時間を許された。


グランドの中をゆっくり走る者、歩きながら仲のいい者同士雑談をする者、グラウンドの隅に設置されたベンチで談笑する者。


「コラァそこ、三人で歩くな二人までだ!そこのベンチに座ってるのも、向かい合って話しをするな!話す時は横並びだぁ!」


まくし立てるように、副担当が次々と注意を与える。


僕は顔見知りの者も無く、一人出入口近くのあずま屋でベンチに腰を下ろそうとした。


その時…


「五十嵐ぃ、ちょっと来い!」


と副担当から声が掛かった。


「はい!」と返事をし、脱げそうな運動靴を気にしながら、僕は小走りで副担当の居る方へ向かった。


「誰が走って来いって言った、歩いて来るんだよ」


僕は、全ての事に揚げ足を拾う、この副担当が憎らしくなってきた。


それでも、これからこの3区29工場で刑期を務める以上、こんな小憎らしいチビの副担当にも嫌われる訳には行かない。


「はい、すみません」


と、半ば口癖の様に成った謝罪の言葉を発し、僕は副担当の目の前まで歩いて行った。


副担当と正対し


「はい」


と呼ばれた事に対し、返事をした。


「何がはいだ、職員の前に来たら先ずどうするんだよ」


蝿をひとっぱたきにする様な、人を完全に見下した物の言い方。


幾ら刑務官でも、ここまでの奴には滅多に会った事がない。


これは面倒な工場に来たぞ…と、僕はウンザリとした気分に成って居た。


「あ、566番、五十嵐」


直ぐに思い出し、僕は形通りに自分の名前と称呼番号を言った。


「何が『あ』だ、やり直せ」


「566番、五十嵐」


思わず奥歯に力が入る。


「お前さぁ、やる気が無いんなら出てってくんない?迷惑なんだわ」


「すいません、言われてる事が分からないのですが…」


さすがにこの副担当と付き合って行くのは、無理かもしれない。


折角、貝塚のオヤジが推薦してくれたと言うのに、これではその内に担当抗弁で調査になるのは決定的だ。


「お前、俺の言ってるのが分からないの?」


「精一杯、一生懸命やってると自分は思いますので」


事実、僕は一杯いっぱいだ。


「あれで?食堂を出る時からダラダラして、行進にしても、背中を丸めてカッコつけてるのか何だか知らないけどよ、目立ちたいなら他の工場に行ってやってくれよ。うちの工場には要らないんだよ」


まったく身に覚えのない事で怒られてる訳ではないが、今目の前のこのチビが捲し立てて居る事は、そもそも本質が違って居る。


食堂を出る時にダラダラしたのでは無く、外に出るなら、衣類をもう一枚だけ着させてくれと頼んだだけで、ダメと言われ直ぐに従ったではないか。


確かにアップシューズを履く時、水虫でも移されたら…と一瞬の躊躇いは有ったが、それだって本当に一瞬だったはずだ。


背中を丸めて歩いたのは寒さから来る事で、このチビが黙ってメリヤスの一枚も着させてくれたら、すべて解決した事ではないか。


そもそも、カッコをつけるのに背中を丸めて歩くヤツが居るんだろうか…。


ふざけるなと腹の中では思っても、一言でも言葉を返せば取り調べだ。


それは翠や翔太の元に帰る日が遠くなると言う事に直結する。


こんなチビのがきデカの様なクソ野郎でも、刑務官と言うだけで人の将来を変える権力は持っている。


従うしかないのだ。


外に居る女や家族に「真面目にやって一日も早く帰るから」と固く約束をし、その通り頑張って居ても、こんな訳の分からない野郎にひっつかれ、挙句、居直って取り調べとなれば「約束が違う」と女や家族にソッポを向かれ、離婚や親子断絶なんて事も大袈裟な話ではない。


だから…従うしかないのだ…悔しいけれど。


「済みませんでした」


そう言うしか無かった。


「お前さ、貝塚のオヤジを知ってるとか、飯山技官の事を知ってるとか言ってるらしいけどさ、そんなの俺には関係無いから」


腕を組み、天を仰ぐ様に踏ん反り返り、無理やり下目使いで人を見下し、副担当はそんな事を僕に言った。


「言ってるらしいけどって、古山のオヤジに知ってるのかと聞かれたから、知ってますと答えただけなんですけど…」


おどおどとした話し方になっているのは、意識的に感情を殺している為だ。


「だから、そんなのは俺には関係無いって言ってんだよ」


「はあ…」


なんと答えればこの人は気が済むのだろう。


「お前が信用出来るかどうかは俺が決める事で有って、貝塚部長が幾ら何を言おうと、俺はお前の事なんか一つも信用してねぇんだよ」


「はい」としか答えようが無い。


「お前が整備の資格を持って、どんだけ仕事が出来るか知らないけどよ、お前なんか居なくてもこの工場はちゃんと回ってるんだよ。要るか要らないかって言えば、お前なんか要らねぇんだよ」


まるでチンピラの様な節回しで顎を回すこの小男を、僕は不思議な生き物を見る様な気持ちになって来た。


薬物に溺れ、腐った頭で訳の分からない事をまくし立てる連中と何も変わらないでは無いか…。


況してや、僕が貝塚のオヤジや飯山技官を知っているから、少しでも便宜を図ってくれと一言でも言ったなら分かるが「知っているのか」と聞かれ「はい」と答えただけで、何故ここまで責められる必要が有るのだろう。


「要るか要らないかって言えばお前なんか要らねぇんだよ」と面と向かって言われて仕舞えば、幾ら貝塚のオヤジの引き上げだとしても、もうここに要る必要はない。


懲罰を食らう事は本意ではないけれど、仕方ない時だって有るのだ。


「自分も出来るなら無事故で務めたいので、担当さんが気に入らないと言うなら、他の工場へ移して貰ってもかまいませんが」


努めて冷静にそれだけの言葉を返した。


「へー、お前さ、そんな心構えでこの先この刑務所でやって行けるとでも思ってるの?悪いけど逃げ込みなんかさせないから」


「はあぁ?」と言う声は奥歯の向こうで嚙み殺し、僕はこの副担当の顔をマジマジと見返した。


いったいこの人は何をしたいのだろうか…。


懲役をいたぶる事が何よりも楽しい…。


時々、そんな刑務官が居るから困ったものだ。


しかも、見るからに喧嘩の弱そうな、長年虐めに遭って来たんだろうと思わせる様な、ひ弱なタイプに多い。


工場担当の任期は大体が2年だ。


長期収容者との癒着を防ぐ為に、担当と副担当は定期的に工場を移り歩く。


この担当が一日も早く、この工場から消えてくれる事を祈るしか無さそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る