第18話 晴見自動車整備工場
晴見自動車整備工場
新入訓練工場の後期生、約15名が処遇本部の廊下に集められ、二列横隊で整列している。
同期生20名で配役になった新入訓練工場だったが、赤鬼こと貝塚のオヤジの厳しい指導について来れず、5名の者が脱落していた。
結局、僕たちの部屋の食器口に置かれたA食は一つだけ。
「566番五十嵐、A食だ」
職員から名前を呼ばれたのは僕だ。
前日の夜から、期待するに良いだけ期待していた井上の落胆は、見ているのも気の毒なくらいだった。
まあ、新入の時は座り仕事だとしても、井上くらいの若さなら、どんな工場に行っても直ぐに立ち役になるだろうから、僕はその通り井上に言葉を投げ掛け、慰めるしかなかった。
しかし…立ち仕事と分かっただけで、自分がどんな仕事に付くのかはまだ分からない。
処遇本部の廊下に整列し、これから自分が行くべき最終目的地を告げられるのを、誰もが固唾を飲んで待っていた。
直ぐに帽子に金線を巻いた、おそらくは処遇統括だろう偉そうな職員が、黒い表紙のファイルを手に現れた。
刑務官の階級は簡単に見分ける事が出来る。
偉く成るごとに制服の袖口や帽子、階級章に金色が増えていくからだ。
ただ、刑務所の大きさに依って、同じ階級でも役職が変わる。
府中刑務所の処遇統括クラスなら北海道辺りの小さな刑務所では、所長や処遇部長になってる事も少なくはない。
「これから名前を呼ばれた者は大きな声で返事をする様に」
最初に呼ばれたのは橘だ。
「332番、橘」
橘は緊張していたのか、或いはボーッとしてたのか返事をしない。
「橘ぁ、居ないのか橘慎太郎!」
「あっ、はいっ!」
橘がやっと気が付いて返事をする。
「呼ばれたら直ぐに返事をしろ!」
まったく何をやっても怒鳴られる。
それにしても、橘の名前は「慎太郎」と言うのか…。
おそらく、刑務所の中に居る間、チンチン丸出しで捕まった橘のあだ名は「チン太郎」に違いない。
そんな事を考えると、僕はニヤケ顔が止まらない。
ここでクスリとでも笑えば、また罵声を浴びせられるだけだ。
僕は笑い出したい気持ちを必死に堪えていた。
「橘、3区32工場」
「はい」
予定通り、橘は「変態工場」に落ちる事になった。
井上の名前が呼ばれた。
「井上、1区7工場」
「はい」
と井上は大きな声で返事をした後、深く大きな溜息を吐いた。
「溜息なんか吐くな!」
忽ち担当の怒声が飛んだ。
しかし、溜息を吐きたい井上の気持ちも分からない訳ではない。
府中刑務所の1区とは、比較的現役のヤクザが多く配役されている区で、7工場と言えば「サムライ工場」と呼ばれも高い工場でも有った。
ただでさえ面倒な刑務所の対人関係。
それを、口煩い現役イケイケのヤクザが多い場所に行かされると有っては、誰だって溜息の一つも吐き出したく成るだろう。
況してや、井上の様な堅気の窃盗犯なら尚更だ。
待って居るのは立場なき居住区と、陰湿ないじめ…。
行きたくない所に行かされる…。
それも刑務所のアルアルだ。
「566番、五十嵐」
遂に僕の名前が呼ばれた。
「はい!」
一際大きな声で僕は返事をした。
「3区29工場」
自動車整備工場だ。
思わず僕は拳を握り締めた。
貝塚のオヤジに対する感謝が、胸の中に湧き上がった。
「はい、ありがとうございます」
無意識に「ありがとう」の言葉が出てしまった。
「何がありがとうございますだ!余計な事は言わなくて良い!」
結局僕も怒鳴られてしまった。
「叱られる事が一番の仕事」
受刑者たちの口癖が、今日はヤケに身に染みた。
1区に拝命を受けた者は1区で集められ、2区は2区、3区は3区と同期の新入訓練生達が、一般の受刑者として自分の落ち着くべき工場へ連行されて行く。
1区は1工場から9工場、2区は10工場から18工場、本来なら19工場も2区に入るべき数字なのだが、19工場と20工場が同じ印刷工場である事から、19工場から32工場までが3区となって居る。
30、31と言う工場は何故か存在しない。
この日、経理関係の4区に落ちたのが1名居ただけで、残りの14名は全て一般工場。
僕が配役となった3区は5名だ。
20工場、22工場、24工場、28工場と番号の若い順に回り、1人づつ配役先の工場に引き渡されて行く。
僕が配役されるべき29工場は、府中刑務所の一番奥まったところに有った。
工場の入り口正面に「晴見自動車整備工場」と大きな看板が立って居る。
どうやら、国土交通省から認証を受けた工場らしい。
噂には聞いてはいたが、聞きしに勝るその巨大な自動車整備工場を目の当たりにし、僕は一瞬怯む様な感情を抱いていた。
一般家庭の勝手口の様な簡単な門を開け、連行の職員が工場の敷地内に入るよう、僕に指示を出した。
僕が敷地内に入ると、職員は門の鍵を閉め、当たり前の様に僕の身体をペタペタと触り出した。
所謂、衣体検身と言うやつだ。
僕が余分な物や危険な物を持っていない事を確認した後、連行の職員は大きな声で「いぃちめぇいぃ」と言った。
勝手口から入って進行方向の左側に有る建物から、直ぐに職員が現れ僕の目の前に立った。
その途端、連行の職員が「キヲツケェ」と号令をかける。
言われた通り僕はキヲツケに成ると、間髪入れずに「レイ」と号令がかかる。
僕は新入訓練工場で教わった通り、腰から60度折り曲げ、規則通りの礼をした。
「ナオレェ、番号名前!」
「566番、五十嵐」
僕が名前を言い終わると、連行の職員が再び「いぃちめぇいぃ」と奇妙な節を付けて言い、僕の目の前に立って居る職員に敬礼をした。
「1名」
僕の目の前の職員が、歯切れの良い口調で敬礼を返した。
どうやら、僕の引き渡し儀式が終わったようだ。
「荷物を持ってこっちに来い」
僕は、ここがどんな工場なのかを見回す余裕も無く、言われるがままに両手から溢れそうな荷物をどうにか抱え、矢鱈と機能性の悪い私物カバンを転がしながら、その職員の後ろをついて行った。
1メートル程の高さが有る担当台の前に荷物を置く様に言われ、僕はその通り荷物を置いた後、担当台に向かってキヲツケの姿勢で次の指示を待った。
先ほどの職員が担当台の上から顔を覗かせ
「休めの姿勢で待ってろ」
と言った。
僕は「はい」と大きな返事をし、足を肩幅に開いた。
何事も第一印象、僕は素直さを最大限にアピールするつもりだ。
その姿勢でしばらくの間待たされた。
暮れも押し迫った12月最期の配役。
建物のシャッターを全て開け切った、吹き曝しの自動車整備工場。
おまけに配役の初日、検身でまごつかない様に薄着と来ている。
痩せ我慢も限界か…と思われた頃、漸く担当台の職員から次の指示が出た。
「食堂に入れ」
「はい」と僕は大きな声で返事をし、担当台の直ぐ後ろに有る食堂に、太ももを地面と水平にに成る様に高く上げ、手を大きく振り、習った通りの行進で食堂に向かって行った。
食堂の中はたった今までストーブが点いていたのだろうか、仄かな温もりが残って居る。
冷え切った身体から、ゆっくりと緊張が引いて行く。
食堂の入り口に有る小さな担当台の前に立つように言われ、僕は先ほどの職員と向き合った。
「キヲツケ、レイ」
職員の指示通り、僕は腰から曲げる礼をする。
僕が頭を下げると、職員は軽くオデコに掌を翳し敬礼をを返す。
「番号名前」
職員と向き合うたび、同じ事を何度も聞かれる。
「566番、五十嵐」
「休め」
職員との会話は、いつだってこのやり取りから始まるのだ。
「俺がこの工場の担当で古山だ。今、何か困ってる事は有るか?」
第一声で古山のオヤジはそう言った。
「いえ、特に有りません」
僕は簡潔に答えた。
「んっ」
と古山のオヤジは短く返事をし、分類から回ってきた僕の身分帳に目を通し始めた。
僕は僕で、このオヤジが一体どんなタイプなのかを、会ったばかりの少ない情報から読み取ろうと、頭の中をフル回転で巡らせて居る。
工場の本担当と言えば、一般の会社なら社長と同じ。
いや、それ以上の権力を持っている。
オヤジに気に入られるか否かで、これからの受刑生活が大きく変わり、更には仮釈放が貰えるかどうかまで、この正担当の腹ひとつなのだ。
オヤジが毎日付ける閻魔帳には、各受刑者の毎日の受刑態度が付けられており、作業態度は真面目なのか、生活態度は、話し方、手紙の内容、出所後再犯の可能性は無いか等などが記載され、更には面白そうな仕事、誰もやりたがらない仕事に振り分けるのもオヤジが決定を下す。
「ズケ取り」つまり、オヤジの機嫌取りは
「今回が4回目、これまで全部満期出所、懲罰も多い、今回も半年で再犯、お前の経歴を見てるとだな、刑務官としてこんな事は言ってはならんと分かっていても、更生させるのは無理な気がするんだがどうなんだ」
閻魔帳からやっと顔を上げた古山のオヤジが言った。
「自分ももう若く無いし、内妻とやり直すのも最後のチャンスだと思ってますから、今度こそ真面目にやろうと考えてます」
答えた言葉は、僕の本心だ。
「その内妻の事だけど、このところ連絡が来てない様じゃ無いか」
さすがは工場担当、核心をつくことをズバリと聞いてくる。
「はい、でも頼んだ物はちゃんと送ってくれるし、自分の友達とも連絡を取り合ってくれてるので、大丈夫だと思います」
希望的観測だとしても、僕はそう信じている。
「その友達と言うのは信用出来るのか」
「自分は信用してます」
「お前さんの居ない間に、お前さんの内妻をどうにかしたりしないと言い切れるのか?」
この人は、なんと言うデリカシーの無いことを聞くのだろう…。
そう思っても、刑務官に対し顔色を変えるなどと言うのは、絶対にやってはいけない。
半ば不貞腐れた気持ちが湧き上がったとしても、涼しい顔で笑って見せるのもズケ取りの秘訣だ。
「心配には及びません。古い友人だし、家族ぐるみで仲良く付き合ってる友達ですから」
そう言った僕の答えを聞いても、古山のオヤジはどこか憮然としている。
敢えて感情を殺してる…と言う感じだ。
「お前も自動車整備の仕事は初めてでは無い様だから分かっていると思うけど、この工場は全員が危険作業従事者だ。お前が女の事で頭を悩ませて、事故でも起こされたんでは皆んなが困るんだよ」
まだ起きてもいない事で注意をされる。
それもまた刑務所…。
「良く分かって居るし、今オヤジさんから言わらたことを、心に留め置く様にします」
優等生的な答えを返す。
古山のオヤジは少し考える風を装った後、
「お前さん、貝塚のオヤジと知り合いなのか」
と突然違う話しを始めた。
「昔、釧路少刑でお世話になりました」
「成る程なぁ…いいか、貝塚部長の推薦が有ったから、今お前がここに居ることを忘れるなよ。貝塚部長から直接お前の事を頼むと言われてるから、お前がここで頑張ってる間は面倒見てやる。けどな、貝塚部長に恥をかかせる様な事をした時には、特に厳しく対処するからそのつもりでな」
そう言って、古山のオヤジは鋭い目を僕に向けた。
嬉しかった…。
貝塚のオヤジが、わざわざ僕の事を工場担当にまで頼んでくれていたのだ。
僕が調査を受けて懲罰になるのは、貝塚のオヤジに恥をかかせる事。
それは、僕を信じてくれた貝塚のオヤジを裏切る事にもなる。
「絶対にその様なことはしないつもりです」
自分の決意を古山のオヤジに伝えた。
「つもりじゃダメなんだよ」
「はい、しません」
僕は一際大きな声で返事をした。
「ところでお前さん、飯山技官を知ってるのか?」
これはまた以外な名前が出て来たものだと僕は驚いた。
「神戸刑務所の自動車整備工場の技官ですか」
「そうだ」
「自分が三級整備士の資格を取った時の教官です」
刑務所の各工場には、それぞれ技官と言う人がおり、刑務官とは別に刑務作業の指導を専門にして居る。
飯山技官は、その昔大手自動車メーカーのサービスにいて、その後刑務所の技官になった人だ。
「今神戸から転勤になってこの工場に居るから、後で挨拶させてやる」
そうか…特に飯山技官とは仲が良かっただけに、それはそれは良い工場に来たのかも知れないと、僕は思い始めていた。
「ありがとうございます」
と僕は古山のオヤジに深々と頭を下げた。
「分かった。この後、副担当から話しが有るから、それまで椅子に座って目を閉じて待っていろ」
古山のオヤジは、そう言って食堂内に並んでいる3人がけの長椅子を指差した。
僕は言われた通り椅子に座り黙想をしていた。
食堂内に居る事で寒さと戦う事は無かったが、睡魔が襲って来るほど待たされて居ると言うのに、来るはずの副担当は直ぐには現れなかった。
古山のオヤジが良いオヤジなのか、或いは食わせ物なのかは、今日の会話だけでは判断がつかなかった。
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