第2話再びの
再びの…
逃亡生活をすると決め、まず初めにした事は今まで使っていた携帯電話の電源を切る事だった。
それでも、現在の世の中で電話のない生活は成り立たない。
僕は知り合いの中国人に頼んで作ってもらった偽造免許でプリペイド式の携帯電話を作った。
深夜、その電話が鳴った。
まだ誰にも教えていない電話番号。
この番号を知っているのは翠だけだ。
「どうした?」
相手を確かめる事もなく僕は聞いた。
「うん」
そう答えたまま翠は黙り込む。
「なんだよ」
精一杯の優しさを込めて僕は言った。
「翔太のさ…進学のお金くれたじゃん…アレのせい?」
途切れ途切れの翠の言葉。
「何が?」
「だから、健二が悪いこと始めたきっかけ」
「全然違うよ。そんな金を翔太の進学に使えるわけないだろ。あれはちゃんと仕事をして貯めた金だから気にるすなよ」
数日前、翠の子供の翔太が高校に進学するためのまとまった金を翠に渡していた。
一緒に生活はしていないが、五歳の時からそばにいた翔太のことを、僕自身、我が子のように思っていた。
翔太が中学に上がる時、僕は刑務所の中にいて何もしてやれなかった。
それだけに、高校生になる時は親らしいことをしてやりたいと、僕は思い続けていたのだ。
「でも…」
そう言ったきり翠も黙り込む。
翠がそう思うのも当たり前だ。
刑務所から出て来てまだ半年。
建設現場で真面目に働いてはいたものの、翠に渡した50万と言うお金は、丸々2ヶ月分の僕の手取りに等しい。
確かに翠に渡したお金は、ちゃんとした仕事で働いた綺麗なお金ではあるが、それを渡して仕舞えば、後の自分の生活費は別の事で用意するしかない。
翠の言った事は、当たってはいないが、外れても居なかった。
「やっぱさ、堅気の真似してコツコツやっては見たけど、俺には向いてないんだよな」
努めて軽く言ってみた。
「そんな事ないよ。頑張ってたじゃん」
翠の口調は相変わらず沈んでいる。
「翔太が寂しがってるよ。また健ちゃんおじさんどっか言っちゃうのって」
翠の言った言葉に僕は狼狽えてしまう。
小さい頃に父親との別れを経験している翔太は、大人の心の動きに敏感だ。
僕の事を「おとうさん」とは呼ばないが、父親同然に思ってくれているのは随分前から感じていた事だ。
「ごめん」
僕が今言える言葉はそれしかない。
「行って来なよ」
翠の言葉。
「えっ?」
「刑務所…。翔太と待ってるから」
「……」
胸の内側から込み上げる大きな感情に、僕は言葉が出てこない。
「健ちゃん、もう私たち二人だけの問題じゃないのよ。翔太だってもう子供じゃないんだよ」
確かにそうだけど、再び刑務所に入るような事をした僕を、翔太はどう思うのだろう。
それに…翠には言えない事…。
「女もいるんでしょ?」
翠の口調が投げやりになる。
自分の中の後ろめたさを、翠にズバリと言い当てられ、鼓動が早くなった。
「それはないよ」
僕の口から出た言葉は嘘そのものだ。
僕には一か月ほど前から一緒に覚醒剤を打ってはホテルにしけ込む都合のいい女が出来ていた。
僕は覚醒剤を打つと、とにかくSEXがしたくなる。
時々、翠に隠れて覚醒剤をいたずらすると、必ずバレてしまうのはそれが原因だ。
だから、それを防ぐために外で遊ぶようになってしまった。
どんなに翠を愛していたとしても、翠を失わないために外に女を作る事は、僕の中では正当化されていた。
「嘘ばっかり。私たちもう10年も付き合ってるのよ。薬をやったら、健ちゃんがどういう行動をするかくらいお見通しなんだからね」
敵わないと思った。
「ごめん」
僕はあっさりと認めるしかなかった。
「もう会わないで」
「二度と会わないよ」
「今すぐ連絡先も削除して」
「するよ」
「今すぐ」
「携帯の電源入れるのヤバいんだよ」
犯人を捜す場合、警察が真っ先にやる事は携帯の電波を捜す事だ。
携帯の電源を入れると言う事は、警察に居場所を教えるのと同じ事だった。
「この番号は?」
「教えてないよ」
「じゃあ今すぐ連絡先消せるでしょ」
「だから……」
「今すぐ!」
翠の断固とした口調に「分かった」以外の返事は受け付けて貰えない事が分かり、僕はスマートフォンの電源を入れた。
電源がONになった事を知らせる電子音が、受話器を通じて翠にも聞こえたはずだ。
「消した?」
翠の催促。
「待って、機種交換したばっかだからよく分かんないんだよ」
使い始めてまだ日の浅いスマートフォンの操作に僕は戸惑ってしまう。
「連絡先を出したら右の上に編集が有るでしょ。それを押して一番下までスクロールしたら、赤い字で削除が有るわよ。」
翠の言うようにすると、なるほど削除の項目があらわれた。
今まさに削除ボタン押そうとした時
「待って」
と翠が叫んだ。
「何?」
つい僕の声も大きくなる。
「まずはその番号を着信拒否にして。向こうから掛かってくることもあるから」
既にこの会話の主導権を握っている翠には、もう何の遠慮も無くなっている。
僕は言われた通り、貴子と言う遊び相手の電話番号を着信拒否にした後、連絡先から削除した。
未練は無かった。
いや、薬をやって遊ぶ女なら、巷にいくらでも転がっているのもまた現状だ。
況してや、貴子に対する愛情など微塵もない。
「出来た?」
「出来たよ」
僕は敗北感でいっぱいだった。
それでも、翠と翔太が俺の帰りを待っていてくれるなら、刑務所に入る事など、なんて言うこともない。
『出頭しよう』
その時はもう、そう決めていた。
「高くつくからね」
翠の声は既に笑っている。
ひどく安心している自分がいた。
翠との仲直りはいつも横浜までのドライブだ。
まだ翔太が小さい頃は、翠のお母さんに翔太を預けて出掛けたものだが、今はそんな気遣いも必要ないくらいに翔太も大人になった。
僕と翠が揃って出掛けると分かっただけで、翔太もなんだか嬉しそうに見送ってくれた。
東京の四ツ木インターから高速に乗り、湾岸線から横羽線に乗り換える。
横浜公園で降りて僕たちが向かった先は、翠と初めてデートをした山手の「リキシャールーム」だ。
重い木の扉を開けると、申し訳程度のウェイティングバーが有り、遮光カーテンで仕切られた向こうにテーブル席が並んでいる。
店の中は真っ暗で足元も見えない。
赤いガラス製のホヤの中で揺れているキャンドルがやけに綺麗に見えた。
初めて翠をデートに誘った場所。
港の見える丘公園で街明かりを眺め、リキシャールームで昔ながらの四角いピザを食べた。
10年も前のことだと言うのに、昨日の事のように覚えている。
今日は同じコースを回ってみるつもりだった。
食事の後は東神奈川の「スターダスト」に向かった。
街灯もない真っ暗な道を海に向かって走って行くと、その店は突然現れる。
その店の先には進入禁止のゲートがあり、そこから先に日本人は立ち入ることができない。
何故なら、そこはアメリカだから。
ショットバーと言えば聞こえは良いが、矢鱈派手なネオン管のサインボードと、ジュークボックスだけが売りのこの店が翠の1番のお気に入りだった。
だから……翠との喧嘩は、いつもこの店が仲直りの場所だ。
「久しぶりですね」
若い頃から常連だった僕を、すっかり年老いたマスターが今も忘れずに覚えていてくれる。
「キールとバーボンソーダを」
僕がオーダーを告げると
「うんと冷えたキールをお願い」
と、間髪入れずに翠が付け足した。
「心得てますよ」
どうやらマスターは翠の好みも覚えていてくれたようだ。
「ポテトチップスとオイルサーデンはどうします?」
とマスターが続けて言った。
食事を済ませたばかりで、あまりツマミを欲しいとは思わなかったが、この店に来た時の僕たちのいつもの定番ってヤツを注文することにした。
グラスに汗をかいたキールと、僕の好きなオールドクロウのバーボンソーダが運ばれてきた。
翠とグラスを合わせると「カチリ」と音がなり、その音に今僕が抱いているわだかまりも掻き消されるような気持ちになれた。
翠はキールを飲んで「美味しい」と言って僕に笑いかけてくれた。
この先に…すぐ目の前に待ち構えている暗い現実に、今日は二人で背を向けるのも悪くはないと思える夜だった。
僕は100円玉を1枚取り出し、ジュークボックスに向かった。
選曲したのは、翠が好きな歌。
つのだ☆ひろの「I love you」だ。
窓の外の真っ暗で何も見えない海を見つめ、翠がこの曲を聴いている。
そしてポツリと言った。
「健二とはさ、話しも合うし趣味もセンスもさ、なんか似てるじゃん。だからよっぽどの事がないと私たちは別れないと思うの」
「よっぽどの事って?」
「よっぽどの事よ」
翠はそう言って、冷えたキールを飲み干した。
翠の言うよっぽどの事と言うのは、一体どんな事なのだろうと考えて見たが、今回僕が起こした問題がよっぽどの事では無いとは僕には思えなかった。
許して貰えたんだろうか……。
聞いて見たい気持ちと、聞かない方が良いと言う囁きに、暫し僕は葛藤して居た。
「翔太には明日まで帰らないって言って有るから」
二杯目のキールを飲み終えた翠が言った。
酔いが回って来たのか、翠の瞳が艶を帯びている。
僕と翠は、スターダストにほど近い「50’s」と言う大人のテーマパークに一夜の宿を求めた。
覚醒剤を使って女を抱く事に慣れてしまった僕には、翠とのsexは何処か物足りなく、肉体的な満足を得る事は出来なかったが、どんな女と遊ぶより、心は確かに満たされていた。
翌朝、翠を自宅に送り翔太と三人で昼ご飯を食べた後、僕は自分のアパートに戻り警察に出頭する為の片付けをする事にした。
アパートに入ると、直ぐに玄関の呼び鈴が鳴った。
誰が来たのかは直ぐに分かった。
深い溜息を吐き、僕は覚悟を決めて玄関の鍵を開けた。
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