冷えたキールとバーボンソーダ
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第1話別れ
別れ
「私の役目は終わったわ。だから、もうここには来ない」
アクリルガラスの向こうで、翠はあっけらかんとした口調で言った。
マッチ箱の様な面会室の中、翠の声がこだまの様に反射し、僕の心の中を揺らしている。
「俺が帰ってくるのを待ってるって言ったじゃないか」
不満げに言っては見たが、僕の口からこぼれ落ちた言葉は、未練の色が濃厚に張り付いている。
「私疲れちゃって…。あなたの携帯の中身、見ちゃったのよ」
翠の目付きが俄かに変わる。
僕は次の言葉が見つからず、黙り込むしか無かった。
携帯の中には、僕が働いた不貞の動かぬ証拠ってやつが残されていた。
捕まった時に持っていたスマートフォンは、事件の証拠品として警察に押収されたが、直前に機種交換した以前の携帯は、翠と暮らした部屋に残したままだった。
「だから待ってるって言う約束も、もうナシだから」
「分かっているでしょ」とでも言うように、翠の放つ言葉には、もう一片の温もりも含まれていない。
「浮気の事はちゃんと謝って終わったじゃないか」
捕まる直前に僕の浮気が発覚し、相手にはもう二度と連絡を取らないと言う約束で、翠には許しを貰っていた。
「あの時は確かに許したけど、貴方達のメールのやり取りなんか見てたら、何だかバカバカしくなって来たの」
「お互い携帯は見ないって約束だったじゃないか。その約束を破って内容が気に入らないからって、一方的に別れるなんて言うのは汚いよ。しかも俺が手も足も出ない時に…」
未練がそうさせるのか、僕はみっともないと分かりながら、声のトーンが上がっていくのを止められなかった。
「五十嵐、喧嘩するなら面会は中止にするぞ」
拘置所の職員が横から口を挟んだ。
「いま大事な話をしてんだろうがよ。ちょっと黙っててくれよ」
担当抗弁で後からキツいお叱りを受ける事など意にもかえさず、僕は不機嫌を面会担当の刑務官にぶつけた。
「一々歯向かうのやめなさいよ、みっともない。じゃあ、そう言う事だから」
翠はそう言いのこし、呆気なく面会の席を立った。
「待てよ、ちゃんと最後まで話しをしろよ」
声たかに叫んだ僕の声に振り向きもせず、翠は後ろ向きのまま手を振り、面会室を出て行った。
呆然として座り込む僕に
「このまま処遇分室まで来い」
と担当が言った。
処遇分室とは、学校で言うなら職員室みたいなものだ。
しかし、たった今女に棄てられたのを横で見てただろうに、どうして刑務官と言うのは収容者をいたぶるのが好きなのだろう。
楽しんでいるのではないかと感じる事さえある。
「まったくなんて言う最悪な日なんだよ」
僕は力なく呟き、担当が発する「オイッチニィ、オイッチニィ」の歩調に合わせ、ダラダラと行進しながら処遇分室に連れられて行った。
俺の耳には「ドナドナ」の歌が流れていた。
「大事な話があるんだ」
改まった口調で僕が言うと、あまり良くない話しだと直ぐに察したのか、翠の顔がくもった。
「……。」
何も言葉を発することもなく、翠は黙ったまま僕の顔を見つめている。
その不安気な視線が、今から僕が告げるべき話しを躊躇させる。
それでも、僕は告げなくてはいけない。
翠を愛していればこそ、僕は翠を今ここで解放してやらなくてはいけないのだ。
「逮捕状が出たんだ。だから、別れて欲しい」
苦しい胸の内を吐き出すように、僕は自分の思いと真逆なことを翠に伝えた。
「バカじゃないの?」
翠の言った言葉が、僕が逮捕状の出るようなことに関与した事を指しているのか、或いは、心にもない別れを告げた事を指しているのか、その会話だけでは判断が付かなかった。
「雄樹が捕まったんだ」
二日前、後輩の竹本雄樹が名古屋に盗難車を運ぶ途中、東名高速道路で高速隊に捕まっていた。
ただ盗難車両に乗っていたと言うだけでは僕に累が及ぶことも無いが、雄樹の乗っていた車には取り外しのできるポータブルナビとドライブレコーダーが付いていた。
単純に車の盗難事件といっても、何でもかんでも手当たり次第に車を盗んでくれば良いと言うわけでは無い。
バイヤーの外国人が、いついつまでにこの車とこの車を何台欲しいとリクエストを入れて来るのだ。
実行犯のグループはリクエストに応えるべく、街中に散って目当ての車を探し歩く。
昼間の明るい内に車を見つけ、その都度ナビには地点登録をする。
夜中になると数名で列を組み、地点登録をした車を盗む。
雄樹が乗っていた車に積まれていたポータブルナビの地点登録は、そのほとんどが自動車盗の発生現場という、事件の重要な証拠が残されていた。
更に、ドライブレコーダーが記録するのは映像だけでは無い。
車中の会話も同時に録音されている。
雄樹が「五十嵐さん」と呼びかける声も当然録音されている。
現在、録音された声だけでは裁判の証拠にはならない。
本人の了承を得、声紋鑑定をするなら話は別だが、任意である以上、鑑定を拒否することができる。
被疑者に断りなく録音したとしても、違法な捜査で得た証拠では、裁判を維持することは出来ない。
つまり、否認さえすれば起訴にならない可能性もないわけでは無いが、雄樹の携帯は当然捜査資料として押収されている。
通話履歴を開けば「五十嵐」という名の男は簡単にめくれてしまうのだ。
敢え無くして僕の名前は捜査上に上がり、逮捕状の発行となった。
「どうして逮捕状が出たの分かったの」
翠の疑問は当然のことだ。
「雄樹が呼んだ当番弁護士から伝言が来た」
「なんて?」
「五十嵐さんに暫く帰れないので、北海道の別荘は使って下さいって」
「どういう事?」
「ヤバイから遠くに逃げろって事だろ」
僕は投げやりに答えた。
「どうにもならないの?」
翠も、僕の様な男と10年も付き合ってきた女だ。
事件のかわし方も、耳で覚えて多少の事は理解できる。
「捕まってみないと分からないよ。雄樹が最後まで喋らないって保証もないし」
可愛がっている後輩の事は信じてやりたいけれど、警察も落としのプロだ。
況してや、雄樹にだって探られれば痛い腹は持っている。
どんな交換条件を突き付けられ、洗いざらい吐かないとは限らない。
『雄樹なら大丈夫』
自信を持ってそう言えないだけのヤマを、僕たちは既に踏み過ぎていた。
「雄樹一人が何を喋っても、否認さえすれば起訴猶予くらいにはなるかもしれないけど、そこら中の道路にはNシステムもあるしな、写真が残っていればどうなるかなんて分からないよ」
Nシステムとは、オウム真理教事件の時に急激に普及したと言われている道路上の防犯システムで、一瞬で車のナンバープレートを読み取り、盗難ナンバーや手配中のナンバーが通過すると、警察に通報しその車両を追尾する装置だ。
更には運転者や同乗者の写真も記録する、犯罪者にとってはこれほど恐ろしいものはない。
二人一組で盗みを働いた場合、共犯者の一方が誰々と一緒に事件をやったと喋ったとしても、もう一方が俺は知らないと言ってしまえば起訴にはならない事も多い。
さらに、車を盗んだ場所、時間、車種などの、犯人しか知り得ない事の説明が出来なければ、いくら自分が盗んだと名乗り出ても、犯人として認めてくれさえしない。
裏を返せば、警察の取り調べで、それさえ黙っていれば逃げ切ることも不可能ではない。
「あやしきもの罰せず」
それが日本の法律だ。
しかし、警察もその辺はお手の物。
「動かぬ証拠は握ってるんだ。ただお前の口から言った方が裁判でも有利になるんだぞ。俺たちも上申書に素直に取り調べに応じたと書いてやれるしな」
などと甘い言葉で被疑者の自供を取る。
共犯事件の場合、何をおいても最初に全てゲロした奴の勝ちだ。
何故なら、その調書に沿って捜査が進むのだから。
後から捕まった者が何を言ったところで「誰々はこう言ってる」と切り返され、まるで取り合ってくれない。
そこに動かぬ証拠、例えば指紋、DNA、身体的特徴が映った画像を出されてしまえば、いくら否認したところで一巻の終わりだ。
「どうするつもりなの」
アンニュイな物言いで翠が聞いた。
「逃げられるところまで逃げるよ」
存在感のある翠の大きな目から、表面張力を失った涙の雫がこぼれ落ちた。
「逃げ切れると思ってるの」
「無理だろうな」
「じゃあどうして逃げるの」
「いま捕まる訳にはいかないからだよ」
「どうして」
「雄樹の弁護士費用も作らないといけないし、名前が出た以上、とことん悪い事をやり切って金でも残さなきゃ馬鹿みたいだろ」
「私と別れてまでやりたい事なの」
叫ぶ様に言った翠の言葉に、僕は何も答えることができず、翠の顔さえも見ることができず、自分の指先を意味もなく弄んでいた。
「もうやっちゃったんだよ。今度刑務所に入ったら別れるって約束だろ」
前回務めた二年の懲役を、翠は待って居てくれた。
出所後、二度と懲役には行かないと言う約束をしていた。
「二度と刑務所に行かないと言う事は、二度と悪い事はしないと言う事でも有るんだよ」
翠の言う事はもっともだ。
どんな悪事も、明るみに出なければ犯罪ではない。
少なくとも僕はそう思って居る。
上手くやれる自信も有った。
「ごめん」
思い浮かぶ言葉はそれだけだ。
「覚醒剤は?」
「やってる」
「何時から」
「結構前…」
「本当バカ」
自分でもそう思って居るだけに、何の反論も出来ない。
「今別れるの、それとも刑務所に行く事が決まってから分かれたいの、どっちにしたいの」
翠に聞かれ、僕は返事が出来ない。
何故なら、僕は翠と別れるなんて、本当は考えられない位に翠の事が好きだからだ。
翠が居なければ、生きて行く事に何の希望も持てない位に僕は翠の事が好きだ。
その事は翠も充分に分かって居る。
それだけに、今日僕が告白した事は翠にも大きなショックだったに違いない。
「約束守れなくてゴメン。別れるなら早い方が良いと思う」
「どうして」
「逃げるとなれば電話で翠に何処に居るか聞かれても答えられない時もあるし、夜中に疲れて女とラブホテルに隠れる事も有るかも知れないだろ。そんな事が後から分かったら、翠の事を傷つけるだけだし、その度に嘘を付くのは俺も苦しいんだ」
自分勝手な言い分だと分かっていても、今の時代、警察から逃げると言うことは、周りの人間の感情に流されず、本気で逃げなくては逃げ切ることはできない。
母子家庭とは言え、前夫との間の男の子を抱え定職に就いている翠では、一緒に逃亡の旅に出る事は不可能だ。
それこそ電話の盗聴などされてしまえば、たちどころに僕の居場所が知れてしまう。
翠や、近頃懐いて来た息子の翔太の前で警察に捕まるのも、僕の望む所ではない。
「この家庭に、これ以上の悲劇を持ち込んではいけない」そう思えばこそ、今ここで別れるしかないんだと僕は思っていた。
「それが今健二のやりたいことなんだね」
真っ直ぐな視線で翠が聞いた。
「そうするしかないんだ」
僕はそう答えた。
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