其の二

「……」


 一体、どれ程のときが流れたのであろう。


 先程の裏門が見える一つ目の角の処で、長時は息を殺して女が潜り戸から出てくるのを待っていた。

 鼓動は一向に落ち着きを取り戻すことはなく、只々、虚しく時だけが過ぎ去って行く……


 ぎーーーー、


 大きく軋む音を立てながら、やっとのことで裏門が開き始めた。


「……?」


 長時は、このことを不審に思う。 

 何故なら潜り戸からひっそりと入って行った者が、裏門とはいえ、帰る時にだけ堂々と出て来るものであろうか?

 もしかすると、お忍びの要人が出て来たとも考えられなくはないが、仮にそうであるとするならば、それこそ出来るだけ静かに潜り戸から帰って行きそうなものだ。


『!?』


 あれこれと考えを巡らせつつ、瞬きすら惜しんで注視していると、先程の堂々たる体躯の侍が姿を現し、辺りを確認するようにして向こう、次いでこちらへと視線を送ってきたので、長時は慌ててその身を隠し、音だけを頼りに様子を窺うことにした……

 

「よいぞ」


 程なくして、その侍であろう者の声が耳に入る。そしてそれから直ぐに、がたごとと車を引いているような音が聞こえてきた。


「……」


 長時は、そっと顔を半分だけ出して、どのような状況なのかを確かめてみた……


 見みれば屋敷の下男と思われる者が、ちょうど荷車を引いて出てきたところで、その荷台にはむしろが掛けられており、その蓆には、ふわりとした厚みがあって何かを覆っていることが伺い知ることができた。

 それから二人の侍がやや遅れて屋敷から出てくると、その荷車の両脇に付き、先頭に立つ侍へと頭を下げた。


「行くぞ」


 堂々たる体躯の侍は、それに一つ頷きで返したあと、向こう側へ向けて先頭で歩き始め、下男と二人の侍がそれに付き従う。

 それを見た長時は、得も言われぬ不安に駆られ、その後を慎重に付けていくことにした。


 ――――がたん!


 一つ目の角を右へと曲がり、暫く進んだ暗がりの中、石塊いしくれにでも当たったのか、荷台が僅かに傾き、その拍子にぱさりと蓆のへりからしな垂れるようにして片方の肘から先が姿を現す。


「!?」


 この距離からでもその手が誰の者なのか、長時には直ぐにそれと判別がつく。

 それが長年苦楽を共にしてきた、最愛の妻のものであるということは、疑いようもなかった――


「理絵!」


 長時は顔を真っ蒼にしながら、裾が大きく肌蹴るのも気にせず駆けだし荷車へと迫る。


「理絵っ!」


「なんだ貴様っ!?」


 突如として背後から現れ、荷車に飛びつくようにして勢いよく蓆を剥いだ浪人に、両脇を固めていた二人の侍は驚きたじろいでしまう。


「理絵!!」


 ぴたりと止まった荷車の上には、素っ裸でその白い肌を露わに目を見開き顔を歪めた己が妻の屍が、無情にも横たわっていた。


「理絵ーーっ!」


 長時は、この場の状況が全く理解できないことに、絶叫する。

 否、理解することを絶叫で拒絶する。

 

「何をしておる!」


 取り乱す長時を他所に、先頭にいた侍が振り返り誰に当ててのものか分からない声を寄越しながら静々しずしずと近付いてきた。


「定岩さま、この狼藉者が!?」


「取り押さえぬか!」


 定岩と呼ばれた屈強な侍の一喝で、冷静さを取り戻した二人が慌てて取り押さえに掛かる。


「離せーーっ!」


「黙れ! 浪人風情が、無礼であるぞ!」


 長時は二人に後ろから鷲掴みにされて、力任せに突き飛ばされ地面に尻餅をく。


「わたしの妻だ! わたしの妻……なんなんだーーーーっ!?」


 長時は混乱の中、直ぐに立ち上がり刃毀はこぼれのする刀を抜いた。


「……お前たちは、先に行け」


「しかし、定岩様……」


「ここは儂に任せて、早くそれを片付けてこい」


 定岩はそういうと、二人を通り越して長時の前に立ちはだかり、するりと刀を抜き正眼の構えを取った。


「――はっ!」


 二人は定岩の後ろ姿へ揃えるようにして頭を下げると、蓆を元に戻し、その中へ理絵の手を無造作に押し込み下男に進むよう合図を出して歩み始める。


「待て……待てぇーーーーっ!!」


 それを見た長時は、目の前の男を斬り付け直ぐに追い付こうと刀を振り上げ詰め寄った――


 ……冷静な長時であれば、いま、目の前に立つ男がどれ程の手練れの者なのか、見極めることが出来たであろう。そしてその技量の差を考えれば、己の命と引き換えにして、やっと腕の一本でも取れるかもしれないということぐらいも理解出来た筈。けれど今の長時は、もはや錯乱状態に近い。そんな男が真面まともな読みができる筈、当然なかった。 


「ぐわぁーー!」


「……」


 定岩は血走った眼で刀を振り下しにかかる長時に対して、素早く己が刀を合わせその一撃をいとも容易く受け止め封じると、そのままぐんと力強く押し返し、長時の体勢を後ろへと弾き飛ばした。


「っ!? ……だぁーー!」


 よろけながらも踏みとどまった長時は、今度は横一閃に斬り込もうと大きく身を捻りながら定岩へと迫り、その刃を一気に走らせた――


「!?」


 定岩がその体躯に似合わぬしなやかな捌きで剣戟けんげきを響かせると、長時の刀身は、がちゃり、と、鈍い音を奏でつばに近い処から砕け散るようにして宙へと飛んでいき、そのまま主の横合いの地面に刃先から着地し突き刺さってしまう。


「――でやっ!」


 定岩は刀を逆さに持ち直し掛け声と共に首、胸、腹と立て続けに渾身の連撃を打ち込み長時を跪かせた。


「ぐはっ!」


「……そのようななまくらで、勝負になるわけがなかろう」


 定岩は、長時に刃先を向けたままに言う。

 それでも長時は立ち上がり定岩に立ち向かおうとしたので、定岩は容赦なく長時の左の肩口に一太刀を浴びせ鎖骨にひびを刻む。


「ぐっ!」


「お主まで命を捨てることはあるまい」


「……何故だ……何故、あのようなことに……」


「……我が主である年番方同心、沼田宗脇様の相手を金で請け負っていた。そして今宵、その最中に急逝し帰らぬ者となってしまった。其方には気の毒だが、ここから立ち去れ。金の為とはいえ、他の男に抱かれる女のことなど忘れるに越したことはなかろう」


 言い終わり、最早この浪人に立ち向かう気力がないと知ると、定岩は刀を収めてその場を後にした。


「……」


 長時は、地面の土を力一杯に握り込んだ。

 悔しさが込み上げ、肩を震わした。

 自分の稼ぎの少なさが原因であろう。

 だが、それでもなんとかやっていけていると思い込んでいた己のなんと浅はかなことよ。

 理絵は、何故ひと言わたしに相談をしてくれなかったのであろうか……

 なぜ夫婦で乗り越えようとしてくれなかったのであろうか…… 

 そんなことが、長時の中で只管ひたすらに反芻する。


 ――いや、待て。


 もしかすると、理絵は悦んでいたのではないか?

 他の男に抱かれ、快楽を得ていたのではないか?

 本当に相手は沼田という同心だけなのか?

 もしかして、そのもらった金を別の男に会う為の化粧や着物などに遣っていたのではないか?


 それに――


「ああ、そうか。結は、わたしの子ではないのだな……」


 ぷつりと何かが切れるように、その顔に怪しげな笑みをひとつ宿すと、長時はこうべと両肩をだらりと垂らしたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、くるりと向きを変え、ふらふらと何処へともなく歩き出して行った。






 

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