「これだ!」


 奉行所の中、お取調べ帳が納められてある蔵の中から響き渡った声。

 片岡は、ここ数日というものくだんの童女のことをずっと調べていた。


「向こう(南町奉行所)に行く手間が省けてよかったぜ……」


 あの邂逅以来、片岡は、あの童女のことがずっと頭から離れずにいた。


『――確かにどっかで会った』


 記憶を手繰り寄せ、あれでもない、これも違う等とぶつぶつと独り言を繰り返す日々を送っていたところ、とうとう細君から、「夕餉のときぐらい食に集中してください!」と、鬼の形相で雷を叩き落され、死んでしまうかと思うほど肝を冷やすことになったのだが、これが効果のある荒療治となって片岡に広がっていた靄が一気に吹き飛んだ。


「――そうだ、死んでんだ!」


 己の目で見たものが俄かには信じ難く、あれは奇術の類であろうという考えからどうしても抜け出せないでいたのだが、長年連れ添ったよめのお蔭で過去の事件に目を通してみようということに至った。

 そしてそれからというもの、暇を見つけては(暇じゃない時を見つける方が苦労するのだが)、蔵に籠り埃の被ったお取調べ帳を一人確認する作業を続けていた。


「……」


 文字を指先でなぞりながら読み解く。

 年に一回の日干しのお蔭で虫に食われることはなく、その字体は癖のあるものではあったが、若かりし頃によく目にしていた磯貝秀長の字であったお蔭で、すらすらと目を走らせることができ、片岡は、その筆につい懐かしさを覚える。


「そうか、あん時の……」


 ――遡ること、二十年ほど前


 それは、ひよっこ同心として片岡が磯貝に伴われ、同心のなんたるかを嫌というほど叩きこまれる毎日を送っていた、ある日の事件だった。

 本所深川にある冬木町の裏長屋で一人の童女の惨殺死体が発見された。

 それは、その長屋に住む上木田かみきだ長時ながときという浪人の一人娘、結であった。

 この上木田長時は、剣術指南で細々と生計を立てている男で、この家には、他に妻の理絵がおり、これが【通りを歩けば女までもが振り返る】というほどの美人な奥方であったのだが、そのような評判を気に留めることもなく、誰とでも気さくに打ち解けて話す奥方で、その娘の結も母親譲りの美しさと愛らしさで長屋の住人達から可愛がられていた。


「行って参る」

 

「あなた。わたくしは今日、お幸さんに踊りの稽古を付けて差し上げる予定がありますので、少々帰りが遅くなると思います……」


「うむ。いつも済まぬな。わたしの稼ぎが少ないばかりに」


「何を仰るのです。わたくしは、人様と親しく関わりを持つことができて嬉しい限りです。結も利発な子ですから、大人しく待っていてくれていますし」


 そういって、理絵は娘に柔らかな眼差しを傾ける。


「父上、母上。結は、これがあるから大丈夫です!」


 ずいと娘の結が笑顔でふた親へ高々と差し出してみせたのは、色を付ける前の鞠だった。


 この鞠は以前、鞠突きをしていた少女達のことを羨ましそうにじっと見ていた結の為に、長時が鞠職人の後平次に幾度も頭を下げて破格の値段で買い叩いたものであった。

 結は、長時がこの鞠を持ち帰ったその日、戸惑いながらも「父上、ありがとうございます!」といって大喜びをしていた。けれど父親である長時には、その喜びようが親を思っての物が幾分にも入ったもので、そんな心優しい娘に気を遣わせてしまっている自分が親として情けなく、そして申し訳なくも思った。

 

 本当は、結には色鮮やかな鞠を与えてやりたい。

 

 けれど現状、長時の夕餉を三日ほど抜いてようやっと手に入れた代物である。

「――いづれ、ちゃんとしたものを買ってくるからな」と、ことあるごとに頭を撫でながら、娘にいつ果たせるともしれない約束を長時は交わそうとしていた。

 しかし、結はそんな父親へ「これがいいのです!」と、そういって綻ぶ顔をみせて、それとなく約束を何処へともなく追いやっていた。


 そして結は、いつもいつも、その鞠を大事に大事に肌身離さず持ち歩いていた。


 そしてそのあまりの大切のしように、「鞠は抱えるものではなく、突いて遊ぶものですよ」と、理絵が呆れ果てて口を挟むほどであったのだが、「結の宝物です」と、母へ要らぬお世話とばかりに微笑みをもって応えていた。


「どれ、今日は、父がひとつ結の為に腕によりをかけた夕餉を準備いたそう」


「わーい! 父上の手料理!」


「あなた、そのようなことは、このわたくしが……」


「なに、昔からわたしが料理をするのが好きなことをお前も知っておるではないか」


「ですが……」


「構わん、構わん。今日は、結に珍しいものでも食させてやるとしよう」


「あなた。結やわたくしの為ばかりではなく、まずは御腰の物を一日でも早くなんとかしませんと……」


「なぁに、剣術の稽古は全て竹刀で行っておる。少々脆くとも抜くような機会に遭うこともないので心配ない。それに、一風変わった熟練の鍛冶師に一振り安くできんか、いま頼んでおるところじゃ」


「一風変わった鍛冶師……でございますか?」


「ああ、だが心配するな。妙なことをぶつぶつと言っておるだけで、腕は確かだ。さぁ! では行って参る。お前も無理をするでないぞ」


「はい……」


 長時は、こんな貧乏暮しをさせてしまっている最愛の妻と娘に、一日でも早く楽をさせてやりたいと思うばかりであった――


「――確か、その前ぇにおっかさんの亡骸が……」


 片岡は、ひょいと舌先に親指と人差し指の腹を擦り付け、ぺらぺらと頁を捲っていく。


「ああ、そうだ。沼田様のお屋敷の通り二本行ったとこの茂みの中で見つかったんだ――」


 その日、長時は熱心な指導への謝意として、門弟達から酒場で振る舞い酒を貰うことになってしまった。

 長時としては、一刻も早く結のもとへ帰りたかったのだが、どうしてもと一同に頭を下げられ無下に断る訳にもいかず、そこそこ深い時刻となってしまっていた。


「いかん、いかん。早く帰らねば」


 赤い色を顔や首筋に貼り付けながら、通ったことのない路を方向感覚を頼りに帰っていく。

 そして、一つの大きな屋敷の裏門の前を通り過ぎたところで駕籠屋と擦れ違った……


「?」


 長時は、何故かその駕籠が妙に気になって、歩を少しだけ進めたあと立ち止まり振り返ってみた。

 すると、丁度その駕籠から袖頭巾をした一人の女が、出迎えの為に出て来た堂々たる体躯の侍に促され屋敷へ入って行くところであった。


「!?」


 長時は一瞬にして、先程までの赤を吹き飛ばす。


「まさか……」


 独り言い終わるころには、足をその屋敷の方へと踏み出し、気が付けば駆け出していた。


「……」


 だがしかし、辿り着いた時にはもう既に裏の潜り戸はきっちりと閉ざされており、駕籠屋も来た道を戻って行こうとするところであった。


「すまぬが一つ聞きたい!」


 先程まで前を受け持っていた中年の男へ、長時は慌てて声を掛けた。


「なんですかい?」


「今しがた送り届けた客は、何処から乗せたのだ?」


「いやぁ、そういった話は、ちょいと致しかねますがねぇ……」


 男が困っているふうもなく、長時にそれとなく目で意を伝えてきた。


「……少ないが、取っておいてくれ」


 長時は動揺を隠せぬままに慌てて財布を取り出し、手持ちの小銭を急いで男に握らせた……手の中の物を確認した男は、「時化てんな」という表情をしたあと、簡潔に長時へ伝えてきた。


「いつもの永代橋の袂からですぜ」


「いつもの?」


「へい。だいたい月いっぺんぐらいですかねぇ」


「いつからだ?」


「4~5年くらいめぇだったかなぁ。ま、ここいら辺で勘弁してくだせぃ」


 そういって、駕籠屋は長時を横目に立ち去って行った。


『どういうことなのだ?』


 長時は、己が見たものが只の見間違いであって欲しいと願いながら、そこの屋敷の立札を確認した――


「――もう、今日で終わりにして頂けませんでしょうか?」


 淡い光の中、生暖かい掛け布団で肌理きめの細かい肌を隠しながら手を伸ばす女は、乱暴に畳へ放り投げられてしまっていた長襦袢と着物をそっと手繰り寄せ、隣で仰向けになって満足そうに荒く息をする男へ顔を背けたまま懇願した。


「うん? 何を申しておる。お主はこれまでの中で一番よい女じゃ。その女を手放すわけがなかろう」


 男は起き上がり、女の背中越しに手を回して、その程よい大きさの乳房を揉み上げる。


「これ以上、夫を裏切る訳には参りませぬ……」


「何を申すか、夫の為にこうして体で稼いでおるのではないか。褒められることはあるにせよ、どうして裏切りと罵られることがあろうか」


「もう、嫌なのです」


「……ほう。では、このことをうだつの上がらぬそなたの亭主に詳細に伝えてもよいのだぞ。例えば、〈途切れ途切れに喘ぐ声は艶めまかしく、何処からともなく汗みずくのようにして布団を濡らし踊ること酒池肉林の元締めのようであり、快楽の境地で果てること数知れず、そこへ至れりと求めるは松の傘なりて、それを欲さんが為にいざなうは、右内腿にある黒子ほくろなり〉……とな」


 そういって、男は身を捩りながら女の脚の間へと顔を纏わりつかせ、その黒子を舐めあげようとした。


「もう、おやめくださいませ!」


「ふん、本当は喜んでおるのであろう?」


「違います! おやめください!」


 ――ごつん!


 女が男の額を両手で押さえながら身を躱そうとしたその拍子に、女の右膝が男の左顎に強か当たってしまった。


「貴様……」


「も、申し訳ございません!」


 女は慌てて布団の上で土下座する。


「儂を誰だと思っておる!」


「年番方同心、沼田宗脇様にござりまする!」


「その儂の顔を蹴るなど、いい度胸だ! 懲らしめてくれようぞ!!」


 云い終わるや否や、沼田は引き攣る口角を卑猥にぐいと持ち上げて、女を仰向けにひっくり返し、その腹から上を布団ですっぽりと覆い被せ無理やりに脚を広げさせた。そして四十の声を聞こうかという沼田は、まだまだ精悍さを失わぬとばかりにぬめりとまた一物を押し込んだ……


「仕置きじゃ!」


 沼田はじたばたとする女を羽交い絞めに近い恰好にして、掛け布団がかかった女の顔の辺りに、重ね合わせた己の手を力一杯に圧し付ける。


「どうじゃ! ……どうじゃ!!」


 爛々とする眼光で、女の喜ぶ顔を想像しながら、夢中で腰を振り続ける――


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 沼田は女の上で突っ伏し果てていた。


「如何であった? そなたも存分に味わったであろう?」


 ぐったりと、味気のない田楽のようになってしまっている女へ声を掛ける。


「これ、返事をせぬか」


 沼田は、女の顔に掛かってある布団を乱暴に剥ぎ取ってみた。


「これ……」


 ぱちぱちと頬を叩いてみたのだが、ぎょろりと開けたまま、焦点の合わない女の目は天井を見上げたままだった。


「……なんとも、あれしきのことで息絶えてしまうとは」


 沼田は、壊れた玩具の方が悪いとばかりに溜息を女へ吐き掛け、その身を女から剥がすと、身形を整えながら懐刀である定岩勘三郎を呼び付けたのであった。








 


 

 





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