其の三

 おはすの最期も中々のものであったが、やはり【あれ】には程遠い。


「さて、と」


 うっすら儂の血で色を添えた黒爪の先ごと畳へ払い落とし、土間に置いたかがりを取りに行こうと立ち上がった。


「ん?」


 ――行燈の明かりがふっと消え、辺りが真っ暗となる。

 今宵は月も出ておらんから、中は本当に真っ暗闇で何も見えなくなってしもうた。出来ることならば薄暮にでも頼りたいところではあるが、それもまだ時間の掛かることであろう。 

 ……にしても、遣っておる魚油は先ほど足したばかりなので消えてしまうというのは、どうにも解せん。


「誰か其処におるのか?」


 そんなことを考えながら致し方なく手さぐりに行燈を探し求めておると、土間の上がり口の処に妙な気配を感じて声を掛けた。


「具合が悪いのか? それとも病んでおる者を報せにでもきたのか?」


 目が慣れてきたのか、それが他よりも一層に昏い幼子の影だということが見て取れた。


「……」


 その影は、其処に屹立としたまま微動だにせん。

 

「これ、返事をせんか」


 そのが見えておる訳ではなかったが、それでも確かにその幼子はこちらをじっと見ておる、それだけは判った。


「……」


 返事のない相手に対し、鼻で嘆息した後そちらへ向かおうと儂が足を伸ばし掛けると、その小さな影はすっと闇と同化するように姿を消し、次には、儂の傍らで鞠を突く音と共に童唄が始まりおった……


 ひとぉつ 掴んで 髑髏しゃれこうべ


  ふたぁつ 掴んで 懺悔の日


   みぃっつ 掴んで 魂さぁ


「むぅ……」


 奇怪な光景に惹かれ、儂はその唄声の方へと体の向きを変える。

 と、青白い炎が激しく噴き出し、瞬く間に儂を取り囲みおった。


「……ほぉ」  


 その妖明なる激しい灯火のお蔭で、儂は声の主の正体をはっきりとこの目に焼きつけるに至る。

 主は、まだほんの小さな童だというに、その瞳には全てのものを俯瞰しておるかのような仄暗い力強さを宿しておった。

 

 そして、その童は儂と目を合せ云う――


「病んでるのは、あんただよ……」


 童の言の葉そのものに響くものは何もない。じゃが、その言霊は儂のしんの臓を寸分違わず刺突するかの如き鋭利なものがあった。


「何者じゃ?」


 儂は火の回り具合を確かめながら童に問う。

 見ればその炎はそれ以上の広がりをすることも、勢い盛んに他へ燃え移るようなこともなく板塀のようにして儂らを取り囲んでおるだけで、まるで生き物のようじゃった。

 

「んっ?」


 儂が束の間、その童から目を離した次には、いつの間にやら深編笠の男が童の後ろに控えておるではないか。


「ふぅむ……」


 よくよくみると、此奴こやつらは僅かな呼気や吸気の様子もみせてはおらぬ。

 それに、精気もまるで感じさせん。


「……」


 儂は診るのを止めて、観ることに切り替える。


「!?」


 するとどうであろう、この奇奇怪怪な光景が、至高の作に映るではないか!


「なんと美しい……」


 儂はこの秀逸な作を一寸たりとも逃すまじと瞬きすら惜しむ。

 生と死の狭間で揺蕩うような作もこのように味わい深いとは知らなんだ。


「儂は、まだまだじゃのぉ」

 

 うっとりとしながら観ておると、そんな儂のもとへ深編笠の男が腰の得物をすらりと抜き放ち、ずいと踏みでて天の構えを形作った。

 見ればどうやらその刀身はこの世ならざる業物のようで、赤紫の炎が悔恨の情念の如く噴き上げておる。


「おおっ!」


 儂は只々、眼前に広がるその珠玉の景色に心を奪われた。

 そして吸い込まれるようにして、男の方へとじんわり体を寄せた……


「!?」


 刹那、男が殺気という前触れも施すことなく儂の脳天から股間までを一息に斬り下した!

 斬られた儂は血飛沫を上げることもなくその場に立ち尽くす。

 ……先程の感覚、あれは、体の中を得体の知れない何かが駆け抜けたかのようであった。それはまるで、儂を作り上げておる全ての鼓動を喰い散らかし、まだまだ足りぬと吠え叫んでいるような何かであった。


『――もしや!?』


 儂は鮮明に過ぎったおのが推察に、心の臓をこれでもかというほど高鳴らせる。


『来るか、来るか!?』


 ――そして、それは直ぐにやって来た。


「ぐふっ!?」


 儂の体の内側から、押しなべて沸き起こる憤怒の嵐とでもいうべき痛苦。

 殴打、鞭打ち、皮剥がし、斬撃、刺突、連射、火あぶり、水攻め……

 例えるならばその様な感覚が一斉に襲い掛かってきたではないかっ!!


『おお! これならば外傷の痕跡も盛られた可能性もない!』


 この苦しみの中、どうして立っていられようか。

 それに呼吸を欲したところで皆無。

 儂の体はその痛苦に耐え切れず、まるで雨の日に不用意にも行動範囲を広げ過ぎてしまった蚯蚓のようにして畳に身体を擦り付ける。


『この末路じゃ! 間違いない! この苦しみこそ、まさに【あれ】じゃ!!』


 目の前が判然としなくなってきた。


 苦しさに、胸や喉を掻き毟る。


 身体中に激痛の往来が吹き荒ぶ。


 瞳孔が開き、涎が垂る。

 

 ――痛苦の中、産声を上げやっと見つけた答え。


【あれ】は、人智を超えた仏の御心じゃった。


『ああ、己が身で知ることになろうとは! げに人の命は塵芥!』


 儂は男の脚に師を尊ぶようにして両手を絡ませた。

 するとどうか。

 男から伝ってきたものは、井戸の底よりも冷たく、そして脚という身形を整えておる蟲のような絶佳の感触であった。

 

 夢見心地……


 そう、このような至福のときが他にあろうか?

 痛苦の果てに見る極楽浄土。

 全ての生きとし生けるものは、このように還って行くべきなのじゃ!


 傑作 まさに極上の傑作!


 儂は薄れゆく意識の中、「仏さまぁ……」と、極楽浄土の入り口で屍の山から蠢く餓鬼どもの歓待の声を拠り所に還って逝った――


 







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