其の五

 大川の流れ以外しんと静まり返った東橋の袂で、吉之助は独り、心の臓を高鳴らせながら静黙に待つ。


 すると――つぁ つぁ つぁ つぁ……ざぁ ざぁ ざぁ ざぁ!

 

 広小路の遠く向こうの方から、足早にこちらへと駆けてくる音が聴こえてきた。

 そしてその音は次第に大きくなり、やがて小脇に風呂敷包みを抱えた二つの人影が姿を現す。

 

「待ってください!」

「ひぇ!?…………なんだ、お前ぇか……今いそいでんだ。また今度にしてくんな!」

「おゆきさんを殺めたのは、あなた方ですか!?」

「!?」

「いったい、何があったのですか!?」

「お前ぇには、関係ねぇ!」

「そんなことはありません! おゆきさんは、私があなた方に渡した金子を取り返しに行くといって亡くなってしまったのですから!」


 襟裳は、自身の腕の傷を摩りながら俯き加減に口を開く。


「…………おゆきが金を返せっていって、川岸で口論になったんだよ。そしたらおゆきのやつ、俺の懐から金を奪い取ろうとして揉み合いになったんだ。んで、つい力任せに突き飛ばしたら、転んだ拍子にあいつ、頭ぶつけちまって……そのまま動かなくなって息もしてねぇから、〈川に入れちまおう〉って……」

 

 すると蒼い顔をしたままの神流が、襟裳を睨み付け口を挟んだ。


「お阿仁ぃ! こんなガキに余計なことぺらぺら話すんじゃないよ!?」

「ぉ、おう。そうだな……」

 そうして吉之助に「これ以上、余計な真似はすんじゃないよ!」と言い残し、七十六間ある橋を二人で足早に渡り始めた。


「待ってください! ちゃんと罪を償ってください!!」


 吉之助は必死の形相で追い駆け、後ろから襟裳の着物の帯を両手で掴んだ。


「なにしやがるんだ!?」


 襟裳が首だけをくいと捻り、吉之助のことを振り払おうと手を後ろへと回す。


「人殺し!」


 力任せに肩を掴まれた吉之助は顔を顰めるが、絶対にその手を離そうとはしない。

 只々、吉之助の脳裏にあるのは、おゆきのことだけだった。

 おゆきの演技、おゆきの笑顔、おゆきの曇った顔……

 そんなことが、次々と触れるように蘇ってくる。


「いい加減にしやがれ!」


 襟裳が「人殺し」という言葉に目の色を変えて、怯えながら体を懸命に左右へと振り、そのまま強引に吉之助を引き剥がし目一杯に突き飛ばした。


「っ!?」


 その瞬間、眼鏡が役目を終えたとばかりに真逆の方へと飛んでいき、吉之助は、辺りの景色が曖昧になりながら、大きく体の軸を崩してよろけた後に欄干にどんという音を伴い強く頭を打ちつけてしまった。

 すると頭の後ろにぐにゃりとする感触が走ったかと思えば、頚が前後に激しく歪に揺れ、次には、ぶつけたそこから冷たいような熱いような何かを感じる。

 吉之助は起き上がろうと片膝を突きながら状態を起こしかけたのだが、思うように体がいうことを聞いてはくれずに、吐き気を伴い、目の焦点が定まらないままにそのまま襟裳の足元へどんと突っ伏した。


『こうして、おゆきさんも亡くなって逝ってしまったのですね……』


 吉之助は薄れゆく意識の中ででも、おゆきのことを想ふ――。


「ぉぃ……おい……!?」


 襟裳が起き上がらず、後頭部からじわりと鮮血を滴らせる吉之助にしゃがみ込んで声を掛ける。


「また、殺っちまった……」


「お阿仁ぃ! なにぼうっとしてんだい!? さっさと川へ放り込みなよ! おゆ

 き殺っちまった時点で、どの途 お終いなんだからさ!」


「そ、そうだな……」

 

 襟裳は小刻みに震えながら爪を噛む神流に云われるがまま、吉之助を抱き上げ東橋の上から軸のない吉之助を大川の中へと投げ入れる。

 

 ――ざぶん!


 普段と比べて、一段と流れの速い川の中へ、吉之助の生暖かい亡骸が規則正しいうねりの中へと割って入ると、その姿はあっという間に取り込まれ見えなくなっていってしまった……。


「急ごう!」


「おう!」


 そうして二人は、終盤に差し掛かった演目の舞台のようにして、ざぁ ざぁ ざぁ ざぁ! つぁ つぁ つぁ つぁ……という音を残し、宵闇の中へと消えて行った――


『あれ? ここは……』


 水の音が聴こえる。

 暗い暗い、冷たい水の中。

 吉之助は、己の身に起こったことを反芻してみた。


『あぁ、死んでしまったのですね……』


 東橋から大川に投げ入れられ、下流へと音もなく流されていった吉之助は、今、百本杭のところに着物が引っ掛かり、暗い川の底で独り彷徨っていた。


『誰ですか……?』


 ふと目をやると、三~四間ほど離れた距離で、真っ赤な鞠を抱えて、二人静の着物を纏う童女が、ひっそりとこちらを見ながら佇んでいた。


『もしかして、あの子がおゆきさんと遊んでいた子じゃないかな……』


 吉之助は、見えない筈の裸の眼でしっかりと目に映す。


「……」


 静謐な時が流れ、吉之助が童女と瞳を合せていると、はたと、この童女の存在意義に魂が気が付く――


『――恨みを! 恨みを晴らしてください!!』


「あの子はそんなこと、望んじゃいなかったよ……」


『……だとしても、私は望みます! おゆきさんをあんな目に遭わせた人達を……許せません!』


「……堕ちるよ?」


『…………構いません!』


 すると童女は、一瞬だけそのつぶらな瞳を揺らめかせたあと、ひとこと、「哀、わかったよ」と、そう言い残し、吉之助の前から静かに姿を消していく。


 ――束の間、川の底よりも深いところから、黒光りする輝きが放たれたかと思うと、そこから無数の狂喜を宿した者達がおぞましくも美しくその姿を現して、吉之助を貪ろうと、その手を一杯に伸ばし我先にと迫り寄る。


『……』


 吉之助は、その瞬間を目を閉じ、心静かに待つことにした。


 そうして数日後、吉之助のむごたらしい亡骸が発見されることとなる。

 明け方、最初に吉之助を見つけた船頭の喜助は、長年この稼業をやってきて何度か土座衛門を拝んだこともあったのだが、この眼窩の窪みに闇を映したような吉之助の成れの果ての姿を見て、番屋への届けと言上を済ませると一目散に独り暮らしの裏長屋へと戻り、かび臭い、ぺったりとした布団に包まって三日三晩、ぶるぶるとふるえながら「南無阿弥陀仏……」と、ひたすら唱え続け、「水辺には、絶対に近づいちゃなんねぇ」と、そういって、目を虚ろにしながらこの稼業から足を洗うこととなった。


 それから吉之助のことを方々と捜していた家の者達は、吉之助の亡骸を確認すると、母親は半狂乱となり、父親は精根尽き果ててしまったような状態に陥り、その後のお店はというと、長男、次男の奮起の甲斐も虚しく、「憑き物がついた」という噂が広まり、あっという間に傾き家の者達の行方も分からなくなってしまう。


 そして後日、片岡は重い足取りで吉之助のことを森田へ伝えに行ったのだが、森田は心痛の面持ちで唇を噛み締めたままに事情を聴き、最後に一つ、片岡に頭を下げたのであった――。






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