其の四

『遅いですね……』

 翌日。

 吉之助は約束通りの刻限に、座の前でおゆきのことを待っていた。

 しかし、かれこれ一刻ほどの時が流れているはずである。

「……」

 吉之助は座の裏手に当たる小路をきょろきょろと覗き見る。

 そこは、特に人の出入りがある様子もなく、しんと静まり返っていた。

 どうしたものかとその小路の前を行ったり来たりしてみたのだが、やがて『様子を見るだけ』という、誰に対する言い訳なのかよく分からない理由をつけて、結局、おゆきが現れるのを待つことなく、首を伸ばしては少しずつ進んで行き、やがて敷地の中へと足を踏み入れてしまう。

 すると、表の喧噪が嘘のように聞こえなくなって、芝居小屋と連なる物置のような小さな部屋の前へと辿り着いた。

「……?」

 中から、僅かに物音と人の声が聞こえるような気がして、吉之助は、その部屋の半開きになっている戸口から音を立てずにそっと入っていく。

 見れば、中には衣装や大小さまざまな道具が所狭しと置かれていて、芝居に必要な物が、これほどの量とは思ってもみなかった吉之助は目を見張る。

 

 かたん―― 

 

 束の間、ちょうどその部屋を仕切るように立てかけられた四曲の屏風の向こうから、先程の音と共に、きしきしと何かが軋む音が聞こえてきた。

 吉之助は勝手に上がり込んでいることも忘れて、何かよからぬ事が起きているのではないかと、息をひそめて忍び足で一歩二歩と近づいていく。


 すると――


「はぁ、はぁ……さぁ、おゆき。おとっつぁんと呼びなさい」

「ぉ、おとっつぁん……」

「気持いいかい?」

「……」

「……返事は?」

「き、気持いいよ。おとっつあん……」


『――!?』


 吉之助が、その端から顔だけを出して見たものは、舞台に上がる段に座わり、脚を大きく開いて頬を紅潮させるおゆきと、その脚の間に頸の後ろに段々をこしらえ顔を突っ込む山楽の後ろ姿だった。


「ぁ……ぁん!」


 吉之助は、その光景を只々、食い入るように見つめる……。

 卑猥な音と、おゆきの悶える仕草に、目が離せなくなる。

 おゆきのその表情は、まるで、舞台に上がっている時のような淫靡なものを宿し、とても美しく思えた。


 ――がたん!


 時の間、余りの出来事に腰が抜けそうになり、膝が がくがくと震え、体勢を変えようと僅かに動かしたつもりの吉之助の体が合掌椽に中り、見事にそれを倒してしまった。


「……誰だい?」


 山楽が口の周りに液を滴らせながら、ゆっくりと振り返る。

 その表情は、大黒様や父親とは似ても似つかぬもので、ただただ幼女を貪ることに快楽を求める鬼畜以外の何者でもなかった。


 そして、その鬼畜の頭上を通り越して、二人は視線をしっかりと合わせてしまう……。


 「いや……見ないでーーーーっ!」


 おゆきが目をぎゅうと瞑り絶叫した!


「――!?」


 我に返った吉之助は、外に向かって一目散に駆けだす!

 出際で戸口に強か肩をぶつけるが、痛がることも忘れて表通りまで無心に駆けてゆく。

 けれどその瞼の裏には、先程の光景が まざまざと鮮明に浮かんでくる。

 純朴そうな幼娘だった昨日。

 犯される女としての今日。


『あの所為だったんだ――!』


 吉之助は混乱する頭の中でも、昨日の暗い影を落とすおゆきの表情を思い出す。

 逃れようのないおゆきの身の上。

 無力な自分。

 そんな思いが、一瞬のうちに駆け巡る。


 どすん!


 まともに前も見ずにいた吉之助は、通りに出て角を曲がった瞬間、誰かにぶつかってしまった。


「!?」


「すみません」の一言も出ないままに、立ち止まり相手を見上げる。


「痛ってなぁ……ん? 昨日、おゆきと一緒にいた坊主じゃねぇか」

「あら、ほんとだ……その様子じゃ、もしかしてあれを見ちまったのかい?(笑)」


 見ればそこには、襟裳と神流役の二人の姿があった。


「知っているのですか!?」

「知っているもなにも……なぁ」

「座頭は、おゆきが大好きだから……ねぇ」

 二人は顔を見合わせ、下卑た笑いをする。

「た、助けてあげてください!」

「う~ん、それは難しい相談だなぁ」

「……」

「……だが、まったく手がねぇってわけでもないんだぜ?」

「本当ですか!?」

「ああ。もし坊主が本気なら助けてやってもいいぜ?」

「本気です! 助けてあげてください!」

「それなら――」

 

 そして吉之助は、おゆきを助ける方法を襟裳から聞きだし、居ても立っても居られず早々に家に帰ることを決め、気負い走り出した。


「いいのかい? あんなこと言って」

「なぁに、ただのお遊びよ。お前だって楽しそうに見てたじゃねぇか」

「まぁね(笑)」

 

 なんの疑いを持つこともなく、まっしぐらに駆けてゆく純真なその後ろ姿を、二人して鼻で笑って見送るのだった。


 そして夜半過ぎ――


 吉之助は家に帰るなり、自身がこれから行う一世一代の大仕事を幾度となく冴え切った頭の中で演じてみては、そわそわと早く今日という日が終わりを告げて、明日に備えて皆が疲れ切って眠ってくれることを落ち着かない心持ちで自身の部屋の畳に足を擦りつけ行ったり来たりして過ごしていた。

 そうして庭の虫たちの声だけが聴こえるようになった頃、吉之助はお店の方へと気付かれないように、ゆっくりと向かっていく。

 金子を仕舞い込んである場所の見当は、おおよそついている。

 よく吉之助の父が、「賊には逆らわず、素直にある金を差し出せばいい」と、寝所にそこそこ見栄えの良い車箪笥を置いて、そこに適当な額の金子を用意していた。

 しかし実際には、店のあがりは全て板場の奥にある、壺が並んだその床下に隠してある筈だった。


「……」

 

 その壺をひとつずつ出来るだけ音を立てないように動かして、床板をぐいと引っ張り上げる。

 するとそこには矢張り、竹細工のかごの中に風呂敷で包まれた金子が仕舞い込んであった。


『ひぃ、ふぅ、み……』


 吉之助は襟裳から言われた額を手にすると、そっと元へと戻す――。


 そして翌日。

 吉之助は口から出てしまいそうになりっぱなしの心の臓を胸の正中をぐっと締めつけ、お天道様が真上からほんの少し西に首を傾げたころ家から抜け出した。


「持ってきました!」

「おー! よくやったな!」

 未の刻。座の前で欠伸をしながら待っている襟裳と、手櫛で髪を整える神流に小国和紙で包んだ金子を差し出す。

「こりゃ魂消たねぇ……」

 神流がその目を大きく見開いたあと、すっと細めて襟裳と視線を合わせた。

「これでおゆきさんは助かるのですね!?」

「ぁ?……ああ!」

「よかった……よろしくお願いします!」


 任せておけと襟裳は豪語し、神流を連れ立って軽い足取りでその場を後にする。


「暫くの間、遊ぶ金が手に入ったってもんだ」

「さっそく行くかい?」

 神流がそこに既にあるように、親指と人差し指で輪を作りそれを口元へと運んできゅるりと動かす。

「あたりめぇよ!」

 

 そうして襟裳と神流は通りに消えていった――。


 興奮冷めやらぬ吉之助は意気揚々と、どこ行く当てもなく、ぶらぶらとその足で通りを歩くことにした。

「!?」

 するとそこには、覇気なく佇み、こちらに首だけを向けた おゆきの姿があった。


「吉さんだけには、知られたくなかった……」

 心が壊れてしまいそうな、否、壊れてしまった表情で おゆきは口にする。

 二人は今、特に話す事もなく連れ立って歩いたあと、両国橋のちょうど真ん中で川を見下ろしていた。

 そこには、そんな会話とは無縁なうろうろ船が、江戸の町の食文化に彩りを添えるようにして今日もゆっくりと波間を形作る。

「でも、もう大丈夫です! さきほど襟裳役の方に金子を渡しておゆきさんを助けてくれるように頼んでおきましたから!」

「え!? そんな……いくら渡したの?」

「……十両ほど」

「!? そんなことしちゃ駄目だよ! それに、そんなことしてもお阿仁ぃさんはなんにもできないよ!?」

「え!? だって、約束してくれましたよ!?」

「……」

「……」

 おゆきが先程までの表情から生気を取り戻し、手にキュッと力を込め、うろうろ舟をキッと見据えて吉之助に告げる。

「吉さんには迷惑かけられないよ。私がお阿仁ぃさんから取り返してくる! 吉さん、ここで待ってて!」

「ぁ!? おゆきさん!」


 そうしておゆきは、さも居所の見当はついているとばかりに駆け出して行った。


 それからもうとっぷりと日も暮れて、吉之助はどうしたものかと思案する。

 これ以上ここで待っていてもおゆきは戻って来ないのでは? と、そう考えた吉之助は、座の方に足を運んでみることにした――。


「あれは……」


 途中、襟裳と神流が足早に後ろから通り過ぎていく。

 その横顔は先程の表情とは違い、真っ蒼なものだった。


「あの!」

「ひっ!? なんかようか!?」

「……おゆきさんは?」

「し、しらねぇよ!」

「阿仁ぃ、はやく行こう! 荷をまとめたら東橋渡って向島の方から逃げよう!」

「お、おう!」

 

 神流が手の甲にひっかき傷を拵えた襟裳の袖をぐいと引っ張りながら小声で告げる。そしてその場をまた急ぎ足で後にする。


「……」


 吉之助は酒の臭いだけを残して去って行く二人の様子にぽかんとなりながら見送ったあと、おゆきは未だ座には戻っていないだろうと決めて、そこら辺を行く当てなく歩いてみることにした。

 すると、花火が上がる訳でもないのに、こんな刻限にも係らず川の方で何やら人だかりができているようだった。


「まだ小せぇのに、なにがあったんだろうなぁ」

「女の子みたいだよ」

 

 人だかりから離れてやって来たであろう夫婦らしき二人から通りすがりに話しが漏れ聞こえ、吉之助は何やら得体の知れない不安を覚えて急いで人ごみの中へと自身の体を捻じ込み、そこを掻き分け役人からそれ以上近づくなというところまでにじり寄って覗き見る。

 すると、三間ほど離れた川岸のそこには、蓆が掛けられた土左衛門らしき姿があって、町方の役人が腰を下ろして横に立つ十手持ちに蓆を上げるよう促していた……。


「――おゆきさん!?」

 吉之助の距離からでも、それがおゆきだということが直ぐに判り、生涯で一番の声を腹から吐き出し駆け寄ろうとする。

「止まらぬか!」

 

 野次馬を押し止める役人が、六尺棒で吉之助の行く手を阻んだ――


「ありゃ確か……」

 土左衛門に手を合わせていた片岡が声のした方へと振り返ると、そこには、先日寺で見かけた森田の教え子の姿があった。


「通してやんな」


 片岡が孫八に上げさせていた蓆を一旦下させ、吉之助を指先でこっちに来るように促す。すると通せんぼをしていた役人がそれに従い、吉之助に「行け」と棒の先で命ずる。

 吉之助は、あわやそのまま転げ落ちてしまいそうな勢いで駆け寄った。


「坊主、仏を拝む覚悟はできてるかい?」

「はい!」

「ん」

 片岡がもう一度、蓆を上げろと孫八に合図した。

「……へい」

 孫八は不憫で仕方ないといった様子を露わに、その蓆をゆっくりとあげていった。

「なんで……こんな……」

「知り合いかい?」

「山楽一座のおゆきさんです!」

「あぁ。あそこか……」

 仏は見たところ片岡自身や森田が気に留める殺しの手口とは違い、溺死のようにみえる。

 気になることと言えば、そこまで大量の水を肺に入れた様子が見られず、頭に腫れ上がった部分があるので、これで気を失っている間に窒息死したか、或いは、中に血が溜まっていてそれが致命傷になって死んだことが考えられる。

 いずれにせよ、何らかの理由で川に入った訳だ。

 それに爪の先には、なにやら引っ掻いたような跡があり、手首には、ぎゅっと掴まれたような内出血の痕も見て取れて、死ぬ前に争ったことも考え得る。

 

 ――そうすると、はっきりと正体の知ることの出来る相手が下手人という、殺しの線も疑わなくてはならない状況だ。


「今日、おゆきさんが襟裳と神流役の人達の所に向かったまま、戻って来ませんでした!」

「そら妙だな」

 さっそく舞い込んできた手掛かりに、『話を聞きに行くか』と顎に手を擦り付けながら木挽町へ向かうことを片岡は決める。

 そしてその一方で『もしかしたら、あの二人が――!?』という結論に達した吉之助は、襟裳と神流に会うことを決め、座へ向かおうと一瞬だけ考えたのであったが、先程の話だと、もう既に座を発ってしまっているかもしれない。

 確かあの二人は、東橋を渡ると、そう話をしていたはず。

 今から急いで向かえば先回りできる。


 そしておゆきの亡骸を挟み、次のやり取りを皮切りに、それぞれが次の行動に移る。


「ありがとうよ。またなんか聞きてぇことがあるかも知れねぇから、そん時は頼むわ。今日はもう遅ぇ。家の者達も心配してるんじゃねぇか? さっさと帰ぇんな」


「はい」


 そうして吉之助は、直ぐに東橋へと向かったのであった。







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