第四話 吉之助

「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 京の都で話題の演目が、華のお江戸で観られる絶好の機会だよ! 観なきゃ末代までの損とくらぁ、尊をる為、観て行くってぇのが、江戸っ子の心意気ってぇもんだぁ!」


(いいなぁ……)


 芝居小屋の前を通りかかった吉之助は、紐で括った、まん丸眼鏡をかけ直して仰ぎ見た。


「坊ちゃん、如何ですかい? 今やってるやつなら、坊ちゃんぐらいのお年の方でも十分に楽しめますよ! これからの時代、若いうちから色んなもんに触れておくことが将来に繋がるってもんです!」


 心づもりが定まっていない者を見分けるのに長けているのであろう。呼び込みが、吉之助の次に出す足先が決まる前に近づき、熱い語り口調で心をくすぐると、急に人目をはばかるようにして辺りを見回し、そこから声を一つ落として、「此処だけの話し……切り落とし席、特別に半値でよろしいですよ」と言った。


「ほんとうですか!」


 まだ芝居というものを観たことがなかった吉之助は、その言葉に心動かされる。

 この華やかな雰囲気を堪能する為に、わざわざ遠回りをするのが習慣となっていた吉之助であったが、特に今日は寺子屋での手習いも早くに終わり、お上りさんのようにしてゆったりぶらぶらと気の向くままにしていた処への降って湧いたような有り難い話である。


「勿論です」


 男は満面の笑みで頷く。その姿を眼鏡越しに見た吉之助は、遅くはならないだろうと、母の小言が始まることはないと算段を付けて、「お願いします!」と、顔を強張らせながら伝えた。


「ありがとうございやす! 一名様、ごあんなぁい!」


 呼び込みの男は、小気味よい手慣れた調子で入口の小女に合図を送った――


 吉之助は、本所深川の方で料亭を営む三男坊として生まれて、いずれは店を継ぐ……というこもなければ、両親から将来を嘱望されているということもない気楽な末っ子であった。だが、そのぶん生計たっきの道は、自身で探しておかなければなければないという立場でもあった。


 年の離れた二人の兄達は、既に店の貴重な働き手として頭角を現し始めており、長男は日々板場で包丁捌きに磨きをかけ、次男は次男で帳簿の整理や持って生まれた外面の良さを遺憾なく発揮して父に付き従い、方々へと出かけていく毎日を送っている。


「――お前は、学問に秀でた才がある」


 両親から目の悪さを理由として、ということは伝えられはしなかったものの、料理の才は早々に見切りをつられていた。

 吉之助としても、眼鏡を掛けていてもぼやける手元の繊細な作業は、到底、向いていないと幼い時分に悟っていたので、逆にこの言葉には、ほっと胸を撫で下ろすものがあった。

 残念に思うことと云えば、父親同様に自分のことを可愛がってくれている長男の傍で同じ高みを目指せないということではあろう。


 だからといって、まったくもって反りの合わない次男の腰巾着のようなことをするのは願い下げだとも考えているので、その言葉を額面通りに有り難く受け取ることに決めて、寺子屋へと熱心に通い、家でも暇を見つけては勉学に励むように努めていた。


(将来は、算術家か漢学の道に進むのがいいな)と、心秘かに思う毎日ではあったのだが、その日暮らしのような算術家や、藩士でもない吉之助の学者としての夢を母が絶対に許してはくれないだろうということも心得ていた。


(とにかく迷惑をかけないようにしなくては)と、それなりに安全な橋の上を選んで歩くような考えの吉之助ではあったのだが、以前から、どうしても寺子屋の行き帰りに遠回りをしながら通る、ここ木挽町こびきちょうに触れる度、芝居小屋から大層満足そうに出てくる見物客達の表情を目に映しては、芝居というものに強く惹かれていた。


 通りへ一歩足を踏み入れると感じる、他の通りとは一線を画す色合い。

 女や酒といったものを主とする場所とは様子の違う、趣きや人々の情緒が通りへ溢れだす、まほらのような空間。 

 そんな場所の核心に迫ろうと、吉之助は心の臓を高鳴らせながら、その歩をそろり、そろりと進めていく―― 


「いらしゃいまし!」

 

 小女が甲高い声で何処ぞの訛りを乗せながら戸口を引き、吉之助を中へと誘った。


(――おおっ!)


 そこは、人人人で溢れ返っており、思い思いに談笑したり、助六に手をつける者がいたり、体を伸ばしたり捻ったりして備える者がいたりと、昂る一時を、皆、それぞれやり過ごそうとしている姿が目に飛び込んできた。


(凄いなぁ……)


 小屋の作りは必要以上の飾り付けは行われず、前面に広がるその舞台は見やすいようにとしてか、舞台の奥を僅かに高くして客の方へと滑らかな傾斜を施し、その両端は、外側に広がりを持たせた作りとなっていて、あれならば役者の動きもさぞ映えることだろうと期待が膨らむ。

 そして、伽藍としいる舞台の上ではあったが、既に其処では何かが行われているような、そんな躍動感のようなものすら感じて、吉之助は更に胸を熱くさせていた。


(そうだ、席……)


 暫くの間、そうして立ち尽くしていたのであったが、はたと腰を落ち着けなければと思い、先程の小女が示していた花道の後方に少しばかりある場所へと足を運んだ。

 

「――ふう」


 腰を据える人の隙間を掻き分けてやっとの思いで辿り着き、隣で顔を真っ赤に呑まれてしまっている男に絡まれながらも体よくあしらい、満席の場内をぐるりきょろきょろと見渡して、人の入りを頭の中で算盤を弾き、近くの官許を得ている森田座は、これより遥かに大きい造りなので千人ばかりは入るだろうと勘定する。


(それにしても、凄い熱気だなぁ……)


 人の体温なのか魂なのか、はたまたお天道様の威勢の良さなのか、場内の熱いものに、ともすれば小火騒ぎが起きてしまうのではないかとさえ思えるほどだった。そしてそんな熱いものが吉之助までをも飲み込んでしまおうとしたのか、すうっと眼鏡が曇り出し視界を遮り始めたので、ふうと慌てて息を吹きかけた頃、口上が始まった――。


「……」 


 ――吉之助は、自身の小さな口が開いたままとなっていることも忘れて、只々、芝居に魅入った。演目の内容はというと、若い男女の悲恋噺で、最後は互いに抱き合い川の中へ身を投じるというものだった。

 それはとても悲しく、そして辛い。

 呼び込みの男の話しとは違う気もしたが、それでも、吉之助はそんなことはどうでもよいことと瞬きするのも忘れて魅入っていた。

 中でも心を奪われたのが、年の頃でいうと吉之助と同い年か、少しばかり上に見える、一人の娘であった。

 聞きかじった話に依ると、女のしるしが始まると舞台には立てないらしいので、恐らく、もうそろそろの事だろう。


(美しい……)


 その艶やかな容姿は、吉之助の今まで見た、どの娘よりも華があった。

 化粧が、その娘の色気を引き立たせ、その衣装は、まるで天上人を思わせる天女のようだった。娘が言葉を発するたび、吉之助は縦や横へと小刻みに首を動かし、また、しなやかに動くたび、吉之助の体がそれに合せて傾く。

 

(……)


 体から抜け出てしまったかのような、吉之助の魂そのもののような感情が、今や全て舞台へと注がれていて、喜怒哀楽、さまざまな色合いを役者を通して映し出し、そうして気がつけば、あっという間に終わりを告げていて、向こう桟敷から時折、興醒めする調子っぱずれの声はあったものの、客からは惜しみない拍手喝采が沸き起こり、役者達が挨拶の為に改めて舞台に姿を現し頭を下げているところであった。


(――あ!)

 

 去り際、吉之助が食い入るように見つめていた娘が、こちらの方へ、ちらりと顔を向けて微笑んだ。


(間違いない、絶対に目が合った――!)


「ありがとうございました!」という小女の声もまったく耳には入らず、吉之助は小屋から出ると、まるで夢遊病にでも掛かったかのように、ふらふらとしながら家路へと着き、布団に入ってからも同じ段を何度も思い起こして、とうとう、そのまま朝を迎えたのだった――


「おや、坊ちゃん、またお越し頂けたんですね!」


 あれから吉之助は連日のようにして、この芝居小屋へと足を運んでいた。


「たいへん素晴らしいものを拝見できて、嬉しく思います! それで、あの……」


「構いませんよ! 坊ちゃんの為に、切り落としはちゃあんと空けております!」


「ありがとうございます!」


 すっかり常連様となった吉之助は、子供の大股で意気揚々と目の下の隈をお伴に中へと入っていく。そして、終演の挨拶では、間違いなく娘と目が合い、微笑んでくれているということに実感を得て胸を躍らせていた。


(沙羅さんは、本当に美しい……)


 今夜もまた、布団の中までも、あの娘のことを思い浮かべる。

 役の名だったが、沙羅と心の中で呼ぶだけで、頬が熱くなるのを感じる。


 悲しい哉、沙羅は大店に下女として仕えていて、其処の主人に連日のように手籠めにされていた。そしてそれを組紐屋を商う襟裳えりもという若い男が救い出し、沙羅の姉である神流かんなと恋に落ちるという流れだった。

 吉之助にとっては、沙良が手籠めにされているその姿は、非常に心苦しく痛みを伴うものであったが、演が終わった後のあの微笑みで、いつも救われていた。


(沙羅さんは、きっと気丈なのだろう)


 吉之助は沙羅の人柄までも想像し、眠れぬ夜を過ごして、また輝く朝を迎え入れる――


「これ、吉之助。其処へお座りなさい」


 吉之助が今日も囲った女のもとへ向かう亭主のような後ろ姿で、いそいそと寺子屋へ向かうをしながら出掛けようとしたところ、母が愚息の足元へ、苦無を投げつけたかのような鋭い声で呼び止めた。


「……はい」


「お前、さいきん何処へ行っているんだい?」


「え!」


「先日、京橋の方に用向きがあって通りを歩いていたら、ちょうど森田先生に〈吉之助は息災ですか?〉と、声を掛けられてね……。話を合せるのに苦労しましたよ。あんな恥ずかしい思いを母にさせるぐらいならば、もう寺子屋へなど通わず、お店の手伝いに精を出しなさい。この家には、ふらふらと遊ばせておく余裕なんてないんですからね」


「……はい」


 母の説教が、ここから輪廻転生のごとく同じ語り口調で延々と繰り返されるであろうと心の中で嘆息していると、「さぁさ、吉之助。そろそろ出かけないと遅れてしまうよ」と、父が店の方から帳簿を抱えて通りかかり、ちょうど良い具合に宝船のような助けを寄越してくれた。


「ほら、早く行きなさい」


「はい、父上!」


 吉之助は「行って参ります!」と頭を一つ下げてから、見事なまでの素早さで手入れの行き届いた畳と別れを告げて疾風の如く立ち去る。

 すると、「しっかり励むんですよ!」という、小言を言いそびれた母の不満の声が後ろから追いかけて来て、それから「本当に吉之助には甘いんだから!」という、矛先が変わった声を聞きながら、お店の邪魔にならないようにと裏口から駆け出して行ったのであった。

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