其の十
半刻後――
「済まんが、奉行所までひとっ走り頼む。宿直処で寝てるかもしらんから、返事があるまで門を叩いてやってくれ」
「へ、へい!」
非番の片岡が小袖に袴という格好で細君に小言を言われながらも飲みに出かけたその帰り、大野屋の隣の店で住み込みで働く下男が、丁度いいとばかりに声をかけてきた。
なんでもその下男の話では、大野屋から騒々しい物音がするということで、番屋へ念のため報せるよう主に言付かり出かけていくところであったらしい。
片岡はしかめっ面でその話を聞き終えると、溜息混じりに下男を従え大野屋へと向かい、不用心にも開けたままになっている戸口から声を掛けてみたのだが、うんともすんともない。
仕方なく何やらきつい臭いが漂うなか、「邪魔するぜい!」と呼ばわり上がり込んでみると、奥の座敷へと続く廊下はしんと静まり返っていて、一種異様な雰囲気が立ち込めていた。
「誰か、いねぇのかい!?」
片岡は顔色をすっと戻し、声を掛けながら奥へと進む。そうして進むにつれて、【只事ではない】ということが、長年の経験則から伝わってきた――
「ひぇ!?」
結果、座敷の一部屋において、尋常ならざる光景を目に映す。
下男は其れを目にすると一声上げて腰を抜かしてへたり込んでしまったのであるが、有無を言わさぬ口調で叩き起こして遣いにやった……という次第であった。
「しっかり頼むぜ!」
ふらつきながらも足を急がせ、なんとか使命を全うしようと向かう下男の後ろ姿を見送り、片岡はぐるっと中を見回し、ざっと検分を始める。
「……」
直ぐ最初に目に飛び込んできたのは、片岡の一番近くの処にある、骨だった。
何処からか持って来たのか、得体の知れない骨。
印象深いものがあるが、手掛かりになりそうな痕跡がないことから其れのことを考えるのは後回しとした。
「ひでぇことしやがる……」
そして座敷の中に足を踏み入れ奥へと足先を向けると、そこにはつい先日、店を切り盛りすると張り切っていたお絹の姿があって、その形相や姿形を見れば、どれだけの悲劇が青天のような笑顔を絶やさないこの娘に襲ったのかが容易に知れ、自然と目を眇めてしまう。
それに湯治に行ったはずの彦六と加代の姿までもがあった。こちらも変わり果てた姿で、こと切れている
それから足を戻して女の上に突っ伏した死骸をひっくり返して見てみると、大野屋の主人、亀吉が刺殺されていた。
大野屋とは会えば一言二言のやり取りをするぐらいの間柄ではあったのだが、床に伏しているという話を聞いてからは、とんと姿を見かけることもなくなっていたので、見舞いがてら様子を窺おうと思っていた矢先の出来事となってしまい、『もちっと早めに顔出しときゃよかった』と後悔の念が湧く。
「……」
それから大野屋の下敷きとなっている仏は、ここの後妻である女で、その最期は非常に苦しみ
見れば背中に刃物で刺されたような痕がある……が、着物に付いた血の量やその深さから察すると、この程度の傷で死ぬとは少々考えづらい。
それに今更だが、この女には、なんとも言えないきな臭さを感じていた。
『裏がある』
そう感じていたのだが、片岡とて目立つような事さえしなければ蜂の巣を突っつくような真似はしたくなかったので、知らん顔を決め込んでいたのであったが、こうして改めて拝んでみても、やはり
「ふう」
それから見知らぬ二人の男の死骸に目が向いた。苦しみで胸の辺りを掻き毟ったような痕がある処を見ると、毒殺だろうか。けれど口元へ鼻を近づけても違和感のある臭いはしてこない。まるで、甚八達の死様とよく似ているような気がする。
「何か、被せられたか?」
死因について考えを巡らせてみたのだが、もし仮にそうだとすれば、逃げられないように縛っていたはずであろうから、皮下の出血などの、なんらかの痕跡があってもよさそうなものだったのだが、そのようなものは見受けられなかった。
「わからねえ……」
無精髭をなぞるようにして顎に手を当て先日の甚八達の件を考えてみる……この座敷の雰囲気が、まったく一緒のような気がしてならない。なにか得も言われぬ残滓のようなものが漂っているみたいに感じてしまう。
「どうなってやがんだ」
答える者がないその問いに、溜息を大きく吐き出してみると、ぽーん……と、鞠を突くような音が聞こえたような気がした。
「?」
片岡は顔を持ち上げ確かめてみる……すると、目の端に童の姿を映したように思う。
「……」
廊下まで足を運んで左右へと顔をやってみたが、人っ子一人いなかった。
「腑に落ちねえことだらけだなぁ……」
酒臭い息を吐き出し首を傾げて、ほんのり明るくなってきた夜空に遠く浮かぶ月に目を遣った。はしご酒の所為で先ほどまでやたらと大きく、そしておどろおどろしく真っ赤に映っていたその月は、今ではひっそりと白くなっている。
「さて、と……」
片岡は独りくるりと向きを変えて、役人達が押し寄せて来る前に、お絹のその姿だけでも整えてやることに決めた――
□
「旦那。先日の件ですが、彦六の家から千両箱が出てきたそうでございやす」
八丁堀組屋敷、片岡の住まう家の小さな裏庭で、孫八が縁側で寝そべる主に向けて片膝を突いて話す。
屋敷といってもその佇まいは大変手狭なものであるのだが、その空間を細君の行き届いた手入れのお蔭で見た目よりも広く感じられている。
けれどこれで倅でもいようものならば、自身の寛げるような処はないだろうなと過ってしまう。
「ってことは、やっぱりあの女将……」
「へい。ただの問屋の女将じゃあ、ありやせんでした。賊の頭です。しかも、あの狐目です」
「ああ、なるほどな」
狐目は或る盗賊の一味の名で、去り際、目が印象的な狐の絵を描いた切り紙を蔵の中に置いていくことから江戸中に其の名が知れ渡っていた。
狙うは全て、悪名高い大店から。
死人を出さず、人知れず掠め取る。
千両箱を、決まって三箱だけ残して――
以前はその手際から、江戸っ子からも拍手喝采を浴びていたものであったのだが、いつしか押し入った店の有り金を根こそぎ奪い取った挙句に片っ端から殺めていくようになっていた。
これには江戸に住まう連中も憤りの声を揃え、またその残忍な手口に役人の間では〈頭が代わった〉という見立てをしていた。
そうして仏となった女将だ。孫八の話しでは神楽坂の方で賭博を仕切っていた、おようというのが、あの女将であり代替わりの
そしてそれから宗太と他三名、うち一名は大樽の中に入っていた男の亡骸も一味だということで、そこから芋づる式にお縄となっていた。
役所としては散々に辛酸を舐めさせられた相手であったからして、壊滅に追い込んだことは非常に喜ばしいことであったのだが、この狐目については、役人の間で以前からよからぬ噂がちらほら取り沙汰されていた。
役人の上の方、【あがり】が、懐へ入っているのではなかろうか……と。
というのも、この賊については、本当に尻尾の先すら長年掴むことができなかったのだ。
大店のあらぬ噂を流して張ってみても、一向にその姿を現すことはなく、垂れ込みから構えてみても、全て空振りに終わってしまっていた。
そしていつしか、〈情報が漏れているのでは……〉と、そんな声が囁かれていた。
「で、あの無傷の仏は、どうなんだい?」
欠伸をしながらも、本題とばかりに片岡が孫八へ尋ねる。
「それが、牢屋医者の診立てでも、はっきりしねぇようです」
心の臓を患っていた……ということも考えられなくはないらしいのだが、如何せん、あの状況で数人の者達が一斉にそんな発作を起こすとは余程都合のいい話でもない限り有り得ない。また、何か薬を飲まされたという痕跡も無いらしい。
あの部屋の中にいた者の仕業なのか、或いは他の誰かなのかさえも、今のところ皆目見当がつかないということであった。
……だが、下手人は他の誰かだと片岡は考えている。
あの座敷の空気が、其れを物語っているように感じられている。
――始末して去って行った。そう思っている。
「とにかく、もうちっとあたってみやす」
孫八は渋い顔のままに答える。どうやら、その場に居合わせなかったことがよほど悔しかったようで、事あるごとに「旦那のお傍から離れやせん」と、厠にも付いてきそうな始末だったので、これには片岡も参ってしまい、孫八の奥方である、おたよの方から改めるよう頼んでおいたところであった。
「あの先生、なんていったかね?」
癖の強そうな牢屋医者のことを片岡は何とはなしに思い出す。
「幻舟せんせいです」
「あぁ、そうだった」
片岡は『昼日向に思い出すような面じゃあねえやな』と、過りながらも、興味なく得心した。
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