其の六

「お絹ちゃん、これなんだい?」


 常連二人が、小鉢に入った大根の煮付けを困った様子で突いている。


「駄目だったかな?」


「ん~、なんかこう、妙な味すんだよなぁ……」


『やっぱり……』


 先日、宗太から遣ってみて欲しいと云われ、丸日屋の新たな醤油を少しばかりもらっていた。

 お絹はさっそく味見をしてみたのであったが、腐ったような臭いが鼻につき、次いで血生臭さのようなものが舌先に広がり眉根を顰めてしまっていた。

 けれど宗太からの頂きものと思うと、そのまま「はい、さよなら」と容易く捨てるということが出来ずに、なんとかならないものかと試しに食してもらっいるところであった。


「無理しなくて、いいですからね」


わりぃね……」


 宗太には悪いが、こればかりは仕方がないと気持ちを切り替えた――


「――お絹ちゃん、ちょっといいかい?」


 お絹がいつも通りの刻限に日本橋へ向かう為に表へ出てみると、そこには宗太の姿があった。


「あら、どうしたの?」


 お絹が一人で切り盛りするようになり、早六日が経つ。

 初日と二日目は気ばかりが急いてどうにも上手く行かなかったのだが、品数を減らし、身の丈にあったことをするという腹積もりにしてからは、目まぐるしい毎日の中にも少なからず落ち着きを取り戻していた。

 そしてそんな中、宗太と二人きりで会えるという喜びが何よりの褒美となっていて、今日もこれからそれに与ろうと板場の裏口から通りへと、一人笑みを浮かべて出て来たところであった。


「……?」


 宗太の様子は何処かいつもと違っていて、温かさよりも冷たさを感じさせるものがある。だが、それよりも自身の浮かれた様子を見られたことに気恥ずかしさを覚えて、乱れてもいない襟元に手を遣り小さな咳を一つしてから、話し掛ける内容も決まらぬままに口元を開きかけると――


「わっ!?」


 宗太がするりとお絹の手を掴んで、つと歩き出した。


「宗太さん!?」


 お絹はよろめきながらも宗太に合わせて慌てて足を運ぶ。


「宗太さん、あのね。このあいだ頂いた醤油なんだけど……」


「美味しくなかったかい?」


「……もうちょっと、なんか変えた方がいいみたい」


「そっかぁ……じゃあ、もう何体か増えるから、それも入れてみようかねぇ」


「?」


 宗太の強引な行動に驚きつつも、会話のやりとりが噛み合っていなさそうなことに、お絹は口先を尖らせて小首を傾げる。


「彦六さん達は、今頃どの辺りだろうね」


「……品川宿か川崎宿じゃないかな」


「そっかぁ。箱根まで無事に着いてくれるといいねぇ」


「……うん」


 宗太の声音に違和感を覚えたが、話しの向きが彦六達のことへと及び、お絹は二人の旅の安全を祈願して、居間の神棚にお供えする神饌しんせんの量を少しばかり増やしていることを何とは無しに思い出す。そして、やはり其処には寂しさがふっと入り込み、少しだけ胸が締まるものがあった。


「!?」


 そうしてお絹が彦六達のもとへそよぐように心馳せていると、宗太が自身の奉公先である大野屋へと足先を向け、店の戸口を開けて中へと入った。


「ちょっと、宗太さん!?」


 引き摺られるようにして足を踏み入れてみると、店先よりも増して、つんとした薫りが漂ってきた。


「……」


 中には六尺はあろうかという大樽が土間に二樽据えられており、きっちりと屋号も刻印されている。おそらく奥の方には蔵があるのだろう、そこからのこうじの香りも中々のもので、先日もらった、あの臭いも混じるようにしてきた。


「……」


 宗太は履物を乱雑に脱ぎ散らかし、床板をぐいと踏み鳴らし上がり込む。

 お絹もそれに引っ張られるようにして慌てて履物を脱ぐと、整える暇も与えられずに奥へと続く廊下へ向かわされた――


「大丈夫なの?」


 宗太は振り返ることも返事をすることもなく、ただお店をそのまま通り過ぎ歩みを進めていく。


「……」


 お絹は問いかけるのを止めて、繋いだままの手の先にある宗太の背中を見つめてみた。するとその後ろ姿は、『いつもの宗太さんじゃない』と、そんなふうに映る――


「――あら、いらっしゃい」


 宗太が薄暗い廊下を渡りきり二つ目の部屋の前までくると、失礼しますと言って障子をがらりと開いた。そこには肌襦袢はだじゅばんに裾よけという格好で、脇息きょうそくにもたれ掛かり煙管キセルくゆらせる女の姿があった。


「申し訳ございません!」


 お絹は色あるこの女の様子に、顔を逸らして目を覆う。


「気にすることないよ。さ、お入り」


 そんなお絹を尻目に、女は事も無げにふぅっと煙を吐き出した。


「宗太さん。あたし、やっぱり――」


 帰るわ、と言い終わる前に、宗太がお絹を中へと押し込んだ――


「お絹ちゃん、この方が丸日屋の女将さんだよ」


 隣の襖はきっちりと閉められていて、三人で居るには些か狭さを感じさせる。


「お、お初にお目にかかります。斜向かいでご奉公させて頂いております――」


「お絹さん……だね? 宗太がいつも世話になっているようだねぇ」


 両の膝を折り畳み挨拶をするお絹へ、面白い物を品定めするようにして女将は目を細める。


「……」


 お絹は世話にもなっていないこの女将から、小馬鹿にされたような目付きで見られていることにしゃくに障るものがあったのだが、それよりも先に、何やら只ならぬものを感じ取っていた。


【ふつうの商人あきんどじゃない】――そう、直感的に感じたのだ。


 恐らく女将もそういった雰囲気を隠すつもりがないのであろう。

 お絹のいぶかしむようなその態度に、殊更に咎め立てたりすることはなかった。


「お絹ちゃん。実は今から、ちょっとした遊びをしようと思うんだ」


 宗太がお絹にぐいと顔を近づけ話す。


「!?」


 その瞬間、お絹はぎょっとして仰け反ってしまった。

 宗太のその表情に、まるで、蚯蚓みみずが背筋をせり上がるような、そんなぞくりとするものを味わってしまったのだ。


 そう……今あるこの表情は、以前、日本橋の上で見た時のようなものだ。


「でも……あたし、明日も早いし……」


 宗太のその様子と得も言われぬ女将の圧から逃れようと、お絹は帰る理由をあれこれと思案してみる。


「直ぐに済むから、大丈夫だよ」


 次第に焦点さえも合わなくなっていく宗太の目が、嬉しそうにお絹の両の肩を掴んだ。


『!?』


 化けの皮が剥がれ落ちていくかの様なその表情に、お絹は恐れと焦りを覚える。


『――帰らなきゃ!』


 そう思うのであったが、一向に説得力のある言葉が思いつかない。かと言ってご近所で商いをやっている以上、いきなり飛び出して後々のつまらぬ火種をこしらえるわけにもいかない。


 そしてそんなことを考えながら宗太と押し問答をやっていると、


 ――ごつん!


 女将は澄まし顔で煙管の灰を叩き落とし、手元だけでお絹に意志を伝えてみせた。


「……わかりました」


 お絹はその雰囲気に完全に呑まれてしまい、不承不承の返事をしたのであった。

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