其の四
「宗太さん!」
お絹が軽く息を弾ませ、宗太のもとへ駆け寄る。
「お絹ちゃん」
宗太は欄干に手を置き、月明かりに照らされる町並みを眺めていた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「何言ってるんだい。私の来るのが早過ぎたんだよ」
お絹はこうして二人だけで会えた喜びを噛み締め、薄紅色に頬を染める。
「お絹ちゃん、こういう静かな江戸の町も、いいもんだと思わないかい?」
「ほんと……別の町みたい」
こんな時刻に出歩いたことのないお絹にとって、しんと静まり返った江戸の町は、まるで見知った処とは思えないような寂寥感のある景色に映る。
「町も人も、その情景が変わると、別物になるんだろうね。どれが本当かなんてありゃしないんだよ……どっちが本当の顔かなんて……ありゃしないんだ」
宗太が独りごちるように謎めいたことを口にした。お絹はその様子が気になり、目線をちらと持ち上げその顔を盗み見てみた――
『……ぇ』
「どうかしたのかい?」
「ぅ、ううん」
一瞬だけ、宗太の顔が今まで見たこともないような相貌に映る。
例えていうなら、そう、まるで狂気に囚われた【夜叉】のような――
『気のせいよね……』
お絹は心の中で
「お絹ちゃんは、好いた人はいるのかい?」
「え!?」
唐突な宗太の問い掛けに対し、まん丸にした視線を急いで外して、履き物の裏の汚れを覗き見るような仕草で俯く。
『そんなの、目の前にして答えられるわけないじゃない……』
「変なこと聞いてしまったね。ごめんよ」
「ううん……」
「お絹ちゃん、たまにこうして、ここで会ってくれないかい?」
「――うん!」
今しがたの宗太の様子のことなどは、気が付けば韋駄天様が、すっかりと掠め取っていってくださっていた。
そうして宗太の瞳の中に今のお江戸の町と同じようにして、いつもの自分じゃない姿を見つけながら、お絹は火照った顔のままに答える。
そしてそれからの二人は逢瀬を重ねる度に、その距離をぐんと縮めていき、いつしか唇を重ねるようになっていった――
それからのお絹は、今まで以上に仕事に精を出すようになる。
時折、
〈――いづれは、このお店をお絹ちゃんにお願いしたいと考えているんだよ〉
〈――その人と一緒にここを商ってくれたら、それが一番、私達には幸せなことなんだけどね〉という、彦六達から話してもらっていたことが頭の中を過ぎり、そしてその都度、宗太と二人、このお店を切り盛りしている光景を思い浮かべ一人笑みを浮かべていた。
「――痛たたたた!」
板場の奥から彦六の声が表へと飛んできた。
「大丈夫かい!?」
加代が寄り添い、いつもの痛がり方と違うその様子に不安を覚え、何度も声をかる。
「旦那様!」
お絹は先程の様子を常連二人にからかわれていたのであったが、やり込める前に彦六のもとへと直ぐに駆けつけた。
「……いつものやつだよ。少ししたら治るから、大丈夫だよ」
見れば彦六は
「ご無理なさらないでください……」
そうして彦六は「店の方をお願いするよ」と言って、加代の手を借りながら部屋へと戻っていき、いつものことならば半刻程もすればゆっくりと店に顔を出すのであったが、今日はそれきり出ては来なかった――
「失礼します。具合、いかがですか?」
「あぁ、お絹ちゃん……済まないね」
お絹は店の片付けを終え、彦六達が寛ぐ居間の隣の寝所へと顔を出してみた。
見ると彦六は横向きのまま、声を出すのも辛いといった様子で
「寛治さんの話では、暫く商いに立つのは無理だって。できれば湯治にでも行って来るようにと仰っていてね……」
加代が昼間頼んだ按摩の話を不安気に話す。
この按摩は、彦六とは長い付き合いになる。彦六が腰の調子を悪くしてからも、この男が施術すれば翌日には調子を取り戻すというのを繰り返していたのだが、「今回ばかりは……」と、渋い顔を作っていたそうだ。
「なぁに、直ぐ良くなるさ」と、彦六は加代やお絹と視線を合わせることもままならないながらも気丈に振る舞い、から笑いをしてみせた。
しかし、翌日、翌々日も、彦六が床上げをすることはなかった――。
「とっつぁん、またやっちまったのか?」
活気づく往来の様子を他人事のようにしてのんびりと眺めながら、片岡がお絹に話しかけている。見廻りの途中、どっかりと腰を据えて小腹を満たしているところであった。
ある日、「そんなに江戸の町は平和なのですか?」と、この風采の上がらない同心にお絹が問いかけたところ、「最近、この辺りも物騒だから念入りに見廻っているのよ」と、小唄でも唄い出しそうな調子で話していたこともあるのだが、そもそも小娘がそんな軽口にも似た言葉を役人に言えるわけもないのだが、それが出来てしまうほどに、片岡もまた、足繁く此処に通っている。
「はい……今回のは、少しばかり大変そうです」
お絹は心配の余り、胸に抱えた盆をきつく抱き寄せ溜息を零す。
「ま、あんまり無理しねぇように伝えといてくれ」
お絹のその様子から、事の深刻さが片岡にも伝わり、暫く味わえなくなるかもしれない煮豆を一粒ずつ大事そうに口の中へと招き入れた。するとそこへ、ちょうど宗太が店の前を通りかかる。
『ぁ……』
しかし、宗太は素知らぬふうにして通り過ぎてしまった。
『?』
いつもであれば笑顔のひとつも寄越してくれる宗太なのだが、まるで会ったことも話したこともないかのような素振りであった。
「見かけねぇ、顔だな?」
お絹の視線の先を辿り片岡が呟く。
「……はい。最近そちらの丸日屋さんへ奉公に上がったそうでございますよ」
「へぇ」
片岡は人混みの中に消えていった若者の姿を気のない返事で追うのを止めて、「ご馳走さん」と小銭を置いて、漬物石のようなその重たい腰をゆっくりと持ち上げ店を後にする。
「――ありがとうございました!」
「はーい、ただ今!」
そしてその夜、これは大事を取った方が良さそうだと彦六本人も観念したようで、「歩けるようになったら、湯治に行くことにしたよ」と、お絹に告げたのであった――。
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