其の二

「痛たっ!」


「あんた、大丈夫かい!?」


 体をくの字に曲げて悶え苦しむ彦六の腰を、加代が摩る。


「おやっさん! あんまり無理しちゃ駄目だぜ!?」


「そうそう、ここ無くなっちまったら、俺ら行くとこねぇんだからさ!」


 相変わらずの常連二人が、板場の主人に声だけを寄越す。


「あたしが運びます!」


 表で注文を取っていたお絹であったが、彦六の声と同時にすっ飛ぶようにして駆け付け、ずっしりとした鍋を火の上へと移動させた。


「いやぁ、お絹ちゃん済まないね」


「何言ってるんですか。気にせず遠慮なく仰ってください」


 老夫婦は、にこにことお絹に笑顔を寄越す――


 そんな、ある晩。

 板場の隅にある階段を上って、彦六達が寝起きする二階。


「お絹ちゃん、ちょっといいかい?」


 加代が部屋に来て欲しいと障子越しに声を掛けてきた。


「――失礼します」


 お絹は廊下を挟んだ向かいの部屋へと直ぐに足を運び、その障子をからりと開いて彦六と加代がくつろぐ狭い部屋へと入った。すると彦六と加代が隣同士、膝を折り畳んで並んで座しており、お絹が障子を閉め終るのを待っていた。


 そうして彦六が言葉を選ぶようにして話し始める――


「お絹ちゃん。私達、ずいぶん前から話し合っていたんだがね、この店をいづれは、お絹ちゃんにお願いしたいと考えているんだよ。いや、私達もいい年だ。体だって、だいぶんとがたがきている。いつまた今日みたいに私の腰の具合が悪くなるかも分からんしね」と、切り出した。


「え!? そんな、なに仰ってるんですか!?」


 お絹は、お天道様がひっくり返るようなその話に面食らってしまった。


「びっくりさせてごめんね。でも、私達には、子も孫もいないものでねぇ……

 」と、加代は申し訳なさそうに彦六をちらりと見る。

 彦六はというと、そんな加代に優しく微笑みかけ首を横へと振り、「でも、こうしてお絹ちゃんが私達の傍にいてくれる……。本当に有り難く思っているんだよ。私達にとっちゃ、お絹ちゃんが娘であり、孫みたいなもんだからさ」と言った。


 彦六の優しさに溢れるその言葉と、その隣で愛情を持って自分のことを見てくれる加代の思いに、お絹は自然と目からぽろぽろと涙を零す。


「もちろん無理にとは言わないよ。お絹ちゃんも年頃だ。好いた人のもとへ、いつ嫁ぐかも分からないしね」と彦六が付け足し、「でも、その人と一緒にここを商ってくれたら、それが一番、私達には幸せなことなんだけどねぇ」と、加代はそれが夢だとでもいうようにして語り、彦六もその話に笑顔を絶やさなかった。


「……」


 お絹は突然の申し出に、どう心の中で折り合いを付けたらいいものか、まったく分からなかった。

 勿論、彦六と加代には、いつまでも元気にお店を切り盛りしていて欲しいし、それがお絹の一番の願いだ。

 しかし、考えたくはないのだが、いずれはその時間にも終わりが来る。その時のことを思えば、今の話は信じられないくらいに有り難いことである。

 ここでこのまま働かせてもらえれば、彦六や加代が動けなくなった時に世話だってなんだって出来る。それはお絹にとって願ったり叶ったりであった。


『だからだったんだ……』


 考えてみれば、以前から煮物のこつなんかを懇切丁寧に教えてくれたり、彦六達の蓄えの保管場所なんかも教えられたりしていたのには、少々引っ掛かるものがあった。

 只、『何かの時に、指図しやすいようにと思ってのことだろう』と、それきり深く考えることはしなかった。

 けれど今にして思えば、お絹を身内同然のようにして扱ってくれていたからこそだったんだと、いま更ながらに痛み入る。


「……」


 実を云うと、お絹は人手が欲しいと酒造を商いとする店の主人から、お絹の両親が請われ佐原の方から出てきた身であった。

 貧しい家の両親からすれば口減らしになるばかりか、上手くいけば多少の仕送りだって見込めるこの話しに諸手を挙げて喜んだものだが、長女のお絹からすれば、仲の良い兄弟姉妹達を急に置いて行かなければならないことに対する寂しさと、江戸で一人で暮らさなければならない不安が募るなか、それでも真冬の江戸へと直ぐに向かわされ、とぼとぼやってきていた。

 そうして着いたその日の晩、早速と云っていいのか、主人に寝込みを襲われそうになり、お絹は仰天の余り思いきり蹴飛ばし、ものの見事に気絶させてしまった所為で、次の日には暇を出され路頭に迷う破目になってしまった。


『どうしよう……』


 そしてそんな捨犬のような自分を拾ってくれたのが、彦六と加代だった。


「こんなとこにいちゃあ、凍えて死んでしまうよ」


「大した物はないが、煮物ならたんとあるから、家に来ておあがりなさい」


 雪のちらつく中、家にも帰るに帰れず道端の木に体を預けるようにしてしゃがみ込み、がたがたと震えながら唇を紫にして途方に暮れていたところへ声を掛けてくれた。


「……」


 その二人の笑顔は、お絹にとってなんとも心地のいいものだった。

 寒いはずなのに、胸の中がじんわりと温まるのも判った。

 今でも、あの時の恩義を忘れたことは一度もない。

 お蔭でお絹は、かっぱらいをする事も、夜鷹に身を堕す事も、その辺で野垂れ死ぬ事もなく、こうして幸せを噛みしめながら生きることが出来ていた。


『もっともっと、恩返ししなくちゃ……』


 「考えといておくれ」と彦六から声を掛けられ部屋に戻ったお絹は、布団の上で正座を崩すことなく、今宵一段と輝く立待月に誓いを立てた。

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