「いらっしゃい、宗太さん!」


 往来の人混みの中、それを軽やかに避けて上手い具合に入って来た客を見て、お絹は直様じきさま声の調子を上げて満面の笑みで迎え入れる。


「お絹ちゃん、なんか適当に見繕ってもらえるかい?」


「うん! 直ぐに用意するね」


 宗太と呼ばれた若い男は、笑みを絶やすことなく縁台に腰掛け、お絹にそう告げた。


「おいおい、お絹ちゃん! いくら相手が男前だからって、贔屓ひいきするってぇのは、ぜんたいどうなんだい!?」


「そうだよ、俺ら常連様だぜ!?」


 軽快に履き物を奏で板場へと向かっていた足を止めて、「宗太さんだって、いっつも来てくれてるわ!」と、お絹は常連の二人へ言葉を送り寄越して御納戸おなんど茶色の暖簾をくぐる。


「へいへい、悪ぅござんした!」


「おいら達は、どうせ味噌っかすでさぁ!」


 常連の二人は、まるで駄々っ子のようにして天井へ向けて言葉を飛ばす。


「そんなひがみ根性なら、もうなんにも出してあげませんよ!?」


 暖簾をひょいと持ち上げ、そこから顔だけを覗かせたお絹が、顎を軽く尖らせ二人へ向けて言葉を張った。

 すると常連二人は、びくりと肩を持ち上げ驚きの表情と共に旗色の悪さを悟り「お絹さま、勘弁してくれよぉ!」と、機嫌を損ねさせたら一大事とばかりに言葉を散らかし泣きを入れ、それを見届けたお絹は、満足そうに白い歯を零しすっと顔を引っ込めたのであった。


「――どうも、すいません」


 宗太はそんなやり取りを面白可笑しく眺めていたのだが、二人の視線の矛先が自分へと向けられていることに気が付き、軽く頭を下げた。


「兄さん、何処の奉公人だい?」


「そこの、斜向かいの醤油問屋でございます」


「へ~!? こりゃまた立派なとこじゃねーか!」


「縁あって、ご奉公させて頂いております」


「いつからだい?」


「三ヶ月ほど前からでございます」


「んじゃ、ここ顔出し始めた頃からだな!」


「他の店には、行かねぇのかい?」


「ここの煮物は、美味しいですから」


 宗太は矢継ぎ早の入れ替わりの質問に、てきぱきと答えていく。


「ほらほら、毒気が伝染うつったら大変だから、あんまり宗太さんには近寄らないでね!」


 今日の煮しめの中で、一番出来が良さそうなものをそれぞれ見繕ったお絹は、三人の会話に用心棒のようにして割って入る。


「お絹ちゃん、そりゃないぜ!?」


「そうだよ! オイラ達は毒気なんかじゃなくて旨味しかねぇのによ!」


「そんな人達が他のお店を薦めるようなこと、言うわけありません!」


「あちゃ~、確かに……」


ちげぇねぇわ……」


 苦笑する常連二人を尻目に、「はい」と真心込めて、お絹は盆に乗っけて運んできた器を一つずつ宗太に手渡す。


「ありがとう」


 宗太は綺麗に盛り付けされた煮しめや熱々の豆腐汁、それから古漬けと湯気立つ白米を受け取り、お絹へ笑顔を寄越した。


「……笑」


 お絹は、宗太のその微笑みに、頬を赤く染める――


 ここ煮売り屋【彦】は、日本橋のほど近くにある小さな店である。

 通りには瀬戸物屋、革屋などが立ち並び、橋を渡れば呉服問屋などが軒を連ねており、そんな中で【彦】は、周辺の者達や評判を聞き付けやって来た者達などからも長きに亘り愛される、親しみある店であった。


 二代目である今の主人、彦六は末っ子にしてこの店を継いでいるのであるが、何故、上のが後を継がなかったかというと、それは長男三男は流行病で子供の時分に亡くなっており、次男は残念ながらも死産であって、そして四番目に生まれたのが女ということで、父親である彦兵衛ひこべえは彦六に煮売りのいろはを叩き込み、そしてそんな父親の期待に応える形で彦六は家業を継いでいた。

 

 長女はというと、十六の時に良い縁談が転がり込んできてくれたお蔭で、本小田原町の方にある魚商へと嫁ぎ、仲睦まじく亭主と共に商いに精を出していたのだが、元々心の臓が弱かった所為もあり、三年前に他界している。

 

 そんな身の上の彦六は、幸いなことに父親譲りの料理の才に恵まれ、先代の頃に慣れ親しんだ馴染みの客達も今だに足繁く通ってくれており、何故、自身の名に六の一文字が入っているのかを噺の種とする時には、「もう一人ぐらい、連れ去られちまうかもしらんから、死神に気取られないよう逝っちまったことにしといたんだ」という、彦兵衛の苦みがありそうな気難しい顔を真似てみせて、甘い煮豆を美味しそうに頬張る童達に聞かせたりもしていた。

 

 その甲斐あってか、数年前から持病の如く時たま患う腰の痛み以外は、幼少の頃から然して体を壊すこともなく元気に育ち、気付けば六十を過ぎた今でも、三つ年の下の妻、加代と共に元気にこの店を切り盛りしている。


 そして仲の良いこの夫婦は、必ず話し合いで何事をも決める。

 だから本来、煮売りだけを専門に商いをしていた【彦】だが、客の期待に応えようと、先ほどお絹が宗太に出したような汁物や漬物、それに白米なども一善飯屋のようにして出すようになっていた。


 そしてそんな彦六や加代から孫娘のようにして可愛がられているお絹は、ここに住み込みで働いており、お絹も二人の事をとても大切に思い好いていた。


『これからもずっと、こんな暮らしが続いてくれたら……』


 そんなふうに、お絹は考えている――


「お絹ちゃん、今日もとても美味しいよ」


 宗太が上品な箸捌きでゆっくりと味わいながら、お絹に柔らかく伝える。


「ありがとう。旦那様と奥様に伝えておくね」


 宗太が顔を出すようになったのが、先ほどの話にあったように三ヶ月ほど前であった。お絹は当初、宗太が奉公人だとは思わなかった。

 何故ならば、結構な頻度で頻繁にふらりと出歩ける姿を見掛けており、奉公人という雰囲気もまるで感じなかったからだ。


『ずいぶんと、ご理解のあるお店なのね』


 そう思っていた。

 しかし、醤油問屋の主人、大野屋亀吉おおのやかめきちは、数ヶ月前から重い病を患い床に臥せっているらしい。

 

 この大野屋亀吉という人物は、実直に若いときから必死になって働き信頼を得て、今の身代を一代で築き上げた人だそうだ。

 それがやっと仕事も落ち着き、息子夫婦に任せて悠々自適な隠居生活でもと考えていたその矢先、なんと女遊びに夢中になってしまい、その折、今の妻であるひとにすっかり入れあげ、なんと長年苦楽を共にしてきた妻に離縁状を突きつけ、息子夫婦のことも暖簾分けという形で呈よく追い出し女を後妻として迎え入れた……という話しであり、これを聞いたお絹は、『年いってからの火遊びって、江戸の大火と変わらりゃしないわね』と思い嘆息したものであった。


 ――そして今、その後妻がお店を切り盛りしているということなのだが、残念なことにすこぶる評判が悪い。


 古株の奉公人達が、「お店は、もう終いだ」と云って、一人、また一人と当てを見つけては消えて行く有様で、商いの方も直ぐに傾き始め、彦六もずっと丸日屋の醤油を使っていたにも係らず、「すっかり味が落ちてしまった」と、今では他の店のものを使っており、どうやら他も同じようで、すっかり丸日屋は閑古鳥が鳴く始末であった。


 そしてそんな状況を知ってか知らずか、宗太がここへ顔を出すようになり、来る度に一言二言、お絹と話すようになっていった。

 根っからの明るい性分であるお絹と、物腰柔らかな宗太は、年が近そうなこともあってすっかり打ち解けた間柄となり、お絹は、この青年の事を気が付けば憎からず思うようになっていた。

 それに多分、宗太も、そう思っていてくれているに違いないと、お絹は心密かに期待を寄せていた――


「ごちそう様」


 宗太が皿をお絹に手渡す。


『ぁ……』


 宗太の手が、そっと、お絹の指先に触れた。


「ありがとうございました……」


 お絹は自分の頬が熱くなるのを感じて、宗太の目を見る事ができなくなる。

 いつからだったか、気付けばそうして、いつも宗太の手が触れるようになった。

 そして、お絹もそれを心待ちにしていた――


「お絹ちゃん、こっちはまだかい!?」


「腹へっちまったよ~!」


「はぁい!」


 お絹は束の間の至福の時を堪能して、でっかい雛鳥ひなどりのような常連さま二人の鳴き声を背に、三番目くらいに出来の良さそうな物を取り分けるため、板場へと軽やかに戻っていった――


「おい、聞いたかい? なんでも大野屋の主人、相当容態が悪いらしいぜ。噂によると、後妻に毒でも盛られてんじゃねぇかって話だぜ?」


「おお!? 俺もその話し聞いたよ! 後妻が来て少ししてからだろ? 調子崩したっての……」


 宗太の姿が見えなくなったのを確かめつつ、二人が噂話を持ち出す。


「いやぁ、女ってぇのは、本当おっかねぇよなぁ……」


「そもそも、何処で知り合った女なんだろうなぁ……」


「吉原から身請けしたんじゃねぇかって話だぜ?」


「はは! おいら達にゃあ、逆立ちしたって出来そうにねぇ話しだな! いづれにしても、障らぬ神に祟り無しってぇことだなぁ」


「まったくだ」


「……」


 二人の会話が板場まで届く。

 実の処、お絹もその噂を耳にしていた。

 けれど会ったこともない相手の事をあれこれと言う気にはなれないし、お絹としては、只、宗太の身を案じるのみであった。

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