其の七

「沼田様。先日の件は、牢番数名の者の咎を以て内々に処理した模様です」


 そう説明したのは、沼田の懐刀と呼ばれる同心、定岩勘三郎さだいわかんざぶろうである。


 定岩の得た情報では、囚人の一人が体調の急変した役人の鍵を奪い、牢屋医者を気絶させ首尾よく脱獄。そして妻を伴い逃亡を企てたところ、岡っ引きとかち合い此れを殺害。既に追手が迫っていると悟り、妻を道連れに自害し果てる……というものであった。


 けれどもこれは飽くまで噂の域を出ない。かといって事の真相を探ろうにも小伝馬町の役人どもは皆、一様にして固く口を閉ざしてしまっている。

 そもそも脱獄などという不祥事は起きていないというのが石出帯刀以下、牢屋敷詰めの連中の言い分であって、自身らの処分に関わることであるからして口を割ることは決してなかった。


「……そうか。石出も事が公にならずに済んで、一安心であろうの」


 年番方与力である沼田宗脇ぬまたそうすけは、然して興味がない話だとでも云うように鼻先で笑いつつ、顎の下の肉をはみ出させながら筆を滑らせ執務をこなす。


「この間は、甚八が不審死だったか……立て続けに嫌なことが起きるものだのう」


 定岩が同意を表すようにして頭を下げる。


「……ん? 古傷が痛むか?」


「これは失礼をつかまつりました」


 定岩は、自分でも気づかぬうちに首元へと手を遣っていた。

 其処には、以前に付けられた刀傷が首から胸にかけて袈裟掛けにのこっている。

 死ななかったのが不思議なほどの傷であったのだが、その事よりも討ち果たした相手の死様が、今でも忘れられずに脳裏の奥深くにこびりつ付いており、それが醒めやらぬ悪夢のようにして定岩の表情を時折こうして濁させる。


「将軍様のお膝元とはいえ、江戸の町は欲深く物騒なものよのう」

 

 その様子を目の端に収めながら、沼田は、溜息を零した。

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