ふらつく足を無理やりに前へ前へと押し出しながら、やっとの思いで長屋へと辿り着く。

 辻番や大木戸は、今でもきっちりとその役目を果たしているのであったが、こと自身番や木戸番などは形骸化が進み、拍子木の音が煩いという住人からの苦情が年々激しさを増した所為もあって、今では夜でも木戸は開け放たれていて、番所に詰める連中も下の用を足す以外は表へ顔を出すことはなかった。


 そしてそれを心得ている太助は、多少遠回りはしたものの、頭の中で地図を描いて無事に帰ってくることができていた。

 だが、自身が暮らす長屋の木戸は、分かっていたことではあったが生一本で閉じている。けれど月の番が隣二軒の喜八のお蔭で覗くまでもなく番所の中から酒の臭いといびきが開け放たれた障子から外へと伝わってきていて、そこへ修繕費を出し渋った大家の度量の狭さが追い風となって難なく忍び足で入っていくことができた――


「――お美代!」


 厠の前を通り過ぎて、中で薄っすらともっているものを拠り所に、力強く障子を開く。


「?」


 灯りがあったので当然に起きているのだろうと思っていたのだが、見れば部屋の真ん中には見慣れた薄っぺらな布団が敷かれており、掛けてあるものが膨らみを帯びていた。


「……お美代?」


 太助は一刻も早くその姿を確かめたいと、血が滲む足裏をそのままに上がり込んで、両の膝を突き上の物を静かに捲っていった――


「なっ!?」


 目を見張った太助に映ったものは、口の中に手拭いを突っ込まれ素っ裸で手足を縄で縛られ、ぐったりとしている姿であった。


「い、いまほどいてやるからな!」


 体を震わし憔悴しきった様子の女房は、目の前にいるのが自分の亭主だと知ると声にならない声を上げて目を剥き出し何かを訴えかける。

 そして太助は其れに微笑みと頷きで返しながら、硬く結ばれた縄に焦る気持ちと駆けっこするようにして指を動かしていた……すると、


「動くなよぉ」


 いつの間にやら何者かが忍び寄って来ていたようで、太助の背後から腕を回し、その首元に、ひやりとする物を当ててきた。

 感触からして、それが刃物であろうことは、直ぐにわかった。


「……誰でぃ」


「おいおい。さんざ一緒に悪さした仲じゃねぇかよぉ」


「佐吉か……この野郎……」


「おお、直ぐに思い出してくえて、嬉しいやなぁ」


 太助は僅かに身じろいだ。


「動くなって言っただろぉ……それとも何かい? このままぶすりとられてぇのかい?」


 佐吉が握った物に力を込める。

 

「……」


 太助は、喉元が仄かに熱くなったのを感じた。


「さ、手ぇ後ろに回してもらおうかぁ」


「……くそがっ!」


 太助は体の力を抜き其れに従う。


 ……自分のこと、それだけならいい。


 後さき考えずに取っ組み合うのも上等。

 だが目の前には、お美代がいる。

 それに腹の中の大切な命も、危険な目に遭わせるわけにはいかない。

 それを考えれば、太助は云う事を聞くしかなかった――


「守るもんがあると、辛いやねぇ。同じ穴の貉なのによぉ」


「てめえと一緒にするんじゃねえ!」


「……そうかい」


 粘つくような声と陰湿な語尾を伴い、佐吉は素早く太助を縛り上げて、そこから目隠し、更にはお美代と同じようにして両足をきつく結び、手拭いをせ返るほどに喉の奥へと押し込んだ。


「ちっと、その辺に転がってなぁ」


 そう言うとしたたか太助の腹に蹴りを見舞う。


「う"っ!?」


 その衝撃に太助の胃の腑が空っぽながらも反応して、逆流する感覚に嘔吐しそうになった。

 思うように声も出せず体をくの字にして倒れ込み、そのまま苦しみ悶えて、そして、気を失ってしまった――


「へへっ」


 その姿を愉しげに眺めた佐吉は、興奮気味に無遠慮に、人様の女房のもとへ足を伸ばす――


『……なんだ?』


 太助が、意識を取り戻した。


『?』


 何やら古びれた畳が擦れる様な音と、男の荒い息遣いが聞こえてきた。

 それに聞いたことのあるような、微かに喘ぐ女の声も入り混じっているような気がする……太助は、自分が今、何処にいるのかを思い出そうとした。


『――佐吉!』


 先程までの出来事を思い出し、太助は縛られているものを解こうと足掻いた。


「お!? やっとお目覚めかい? いやぁ、ぴくりとも動かねえから、死んじまったのかと思って心配してたんだぜぇ」


 人の感情を逆なでする声が、太助の耳を汚す。


「折角だから、いいもん拝ませてやるよぉ」


 佐吉はそう言うと、太助の目隠しを無造作に解いた。


「―――!? んーーーー!」


 信じられない光景を目の当たりに、太助は絶叫する!


「どうでぃ。興奮するだろぉ?」


 其処には、お美代を後ろ手に縛りあげ仰向けにして、その脚を大きく開かせ己の着物の前をはだいて不浄な一物を己が女房の陰部へと押し込んでいる佐吉の姿があった――


「……」


 お美代が『見ないで……』と、泣きながらに太助に向けて首を振っている。


「おめぇの女房かみさん、中々の締まり具合だぜぇ」


 欠けた前歯を太助に見せて、佐吉は醜悪な表情の笑い顔を浮かべて腰を動かし続ける……


「ん"ーーーー!(やめろーーーー!)」


 お美代から佐吉を引き離そうと、太助は転がるようにして擦り寄った。


「……そこで見てろって」


 興醒めだとばかりに眉間に皺を寄せて舌打ちすると、佐吉は手にしている刃物を太助の左の肩口へ、ずいと押し込んだ。


「――ぐぅっ!」


 激痛に跳ね上がるような声を出すと、こちらを見ていたお美代も一緒になって同じような声を張る。


「おめえら騒々しい夫婦だなぁ。まるで細貝の旦那みてぇだ」


 太助は顔を歪めながらも、その言葉に佐吉を睨み付けた。


「? ……そうか、お前ぇ旦那には随分と可愛がられてたもんなぁ。けつでも貸してやってたのか?」といって、けたけたと笑いだし、「旦那のなには、どうだった?」と、付け足しまた笑う。


「 それにしても、あの旦那。俺が見回りしてる店から袖の下貰ったり、女中に手ぇ出したりしてんのが気に入らねってんで、ことあるごとに、ぐたぐたとまぁ小言ばっかり並べやがってよぉ。そりゃ、たまぁにっちまうこともあったわ。だからつって童じゃあるめえし、隠居同然の爺に説教される筋合いなんか無ぇってんだよ……なぁ、お前ぇもそう思うだろぉ?」


 お美代の乳房を千切れんばかりに佐吉は鷲掴む。


「あんまりうるせぇから、旦那には大人しくなってもらったってぇわけさぁ」


 体を前へと倒し、吸う。


「あんとき、お前ぇさえ来なけりゃ、もっとじっくり旦那を殺る愉しみがあったってのによぉ」と、如何にも残念そうにして呟き、「 お前ぇが悪いんだぜ? 人の楽しみ奪っちまうから。だからそのぶん、お前ぇの女房でそれなりの迷惑料を返してもらってるとこなんだよ……でもなぁ、連日おんなじ女とやっても、ちぃとも面白くねぇんだよなぁ、これが。だから今さっきお前ぇの姿、厠で見かけた時にゃあ、泣くほど嬉しかったんだぜぇ。なにせ亭主を前にしてやるなんざぁ、中々洒落てるじゃねぇかぁ」


 佐吉は涎を垂らし、けたけたと笑う。すると其れが乳頭へ、どろりと落ちていった。


『佐吉ーーーーっ!』


 目を剝いて太助が吠える。

 頭に浮かぶのものは『殺してやる』ただ其れだけ。

 だが、その様子が返って佐吉に愉しみを与えてしまうようであった――


「脱獄囚は無駄に元気があっていいやなぁ。やっぱり、お前ぇは俺と同じだぁ。女房やられてるの見て、興奮してやがんだからよぉ」


「?」


 太助は、佐吉が何を言っているのか解らなかった。

 けれど佐吉の視線の先に答えがあるような気がして、其処へ意識を集中してみた……すると、


っていやがる――』


 太助は自身の事にも係らず、唖然としてしまう。


「がきの頃、俺がるの見て愉しんでたの、覚えてんだぜぇ」


「……」


 不意に、あの頃を思い出す――


 太助は佐吉の所業に怯え、そして実のところ憬れてもいた。

 あれほど残忍なことが、出来るものなのだろうか。

 あれほど己の立場を誇示し、圧倒的な立場を見せつける幸せがあるのだろうか。

 佐吉がるところを、もっともっと見ていたい。

 もっともっと残忍な方法を知りたい。

 そして叶うものならば、己がそれをって退けてみたい……そんなふうに思っていた。


 ――けれど、磯貝の言葉や仲間内からの冷たい視線で、後戻りした。


『貉……』


 先程の言葉が蘇り、全身の力が抜けていく。

 そうか。

 確かに、俺の中には佐吉がいる。

 それを今の今まで、まるで無かったかのようにしていた。

 すると今の光景は、果たして本当に望まぬものなのだろうか。

 その証拠がしもの硬さだ。

 こんな話が、あっていいもんか。

 

 『俺らぁ、佐吉なのかもしれねえ……』


 そんなことが頭の中を占めてしまうと、もはや何処から何を考えればいいのかも、わからなくなってしまった。


「……」 


 そしてそんな様子を見た佐吉は、太助のことを憐んでいるかのようにして目に映し、お美代の顔へ自身の顔を近づけて、「お前ぇさん、腹の中に赤ん坊がいるんだったっけなぁ」と、そう言って、その頬を軽く叩いた。


「〈――お腹の子だけは! どうか堪忍してください!〉 ……って、泣きながら嬉しそうに俺のしゃぶってたんだぜぇ!」


 顔を背けて涙を流すお美代を尻目に、ゆっくりと体を起こすと、放心状態となっている太助に刺さったままの刃物を力任せに引き抜いた。


「――っ!」


 太助が痛みから肩を竦める。

 其処からは、とくとくと血が溢れ出す……


「どぉれ……御開帳ぉ!」


 佐吉は両手で柄を強く握り込むと高々と振り翳し、命が新しく芽生えた下腹部へ向けて無情にも力一杯それを突き立てた――


「ぎゅわーーーーっ!?」


 お美代は深々と突き立った物を見て、体を震わせ泣き叫ぶ。

 痛みよりも何よりも、「――赤ん坊が!」という思いで叫ぶ。


「ぁ……ぁ……」


 太助は、その光景に目を剝いた。

 そして無力な己を呪うようにして、気が狂いそうになりながら頭を畳へ何度も打ちつけた。


「ひゃっ、はっーーーー!」


 佐吉が愉悦の表情で、お美代の腹を眺めながら、また、腰を動かし始めた……


「んーーーーっ!」


 振動がする度どくどくと腹から血が溢れ出していき、次第にその目は虚ろとなって、終いには崩れ落ちるかのようにして、だらりと動かなくなってしまう……


「ぬ"ーーーーっ!? (お美代ーーーーっ!?)」


 太助は泣き叫ぶ。


 助けてやれなかった。

 何も出来なかった。

 こんな状況にも係わらず、興奮してしまった。

 佐吉と俺は一緒だ。 

 同じ穴の貉だ。

 亭主、それに一端いっぱしの親になる資格なんか無かった。

 俺は人じゃねえ。人なんかじゃ……

 そんなことが心の奥底から浮かび上がってきた。


「おいおい、もう死んじまったのかい? ちと早くねぇかぁ?」


 佐吉は如何にも詰まらなそうにしてぼやき、「ま、仏さんとやるのも一興だぁ」と激しく腰を振り始め、そこから更に息遣いを荒くして天井を見あげた……


 そうして、「――うっ!」という、汚辱を与える一声を発し、果てる――


『……』


 太助は、はらはらと、涙を流していた。


 己が見えなくなってしまった。

 己が分からなくなってしまった。

 本当の己を知ってしまったような気がした。

 こんなことならば、お美代と祝言なんか上げるんじゃなかった。

 こんなことならば、独り好き勝手やって死んでいけばよかった。

 後悔の荒波に呑み込まれる。

 縋るものなど何処にもない。

 今までの俺は一体なんだったのか。

 答えの出ない問に息が出来なくなっていく――


 そうして佐吉はというと一物を仕舞い立ち上がり、辺りをぐるりと眺めて物思いに耽り、そして、「後始末だなぁ」と、口にした。

 その姿はまるで、子供が夢中になって玩具で遊んだ後に母親から片付けるよう咎められたような、そんな童のような姿であった。


「面倒臭ぇ……」


 お美代を踏んづけながら突き立てたものを無造作に引っこ抜き、そして太助の方へと向き直り屈み込む。


「そこそこ愉しかったぜ。殺ったのは全部……お前ぇだ」と言って、太助の振り乱乱れた髪を鷲掴みにして持ち上げると、するりと小慣れた手付きで喉を掻き切った――


『!?』


 ぱっくりと割れた処から、血飛沫が舞い上がる――


『ぉ……俺ぁ、このまま、死んじまうの……か?』


 太助が目を遣ると、脚を大きく開いたままの、お美代の姿があった……

 最愛の女の腹からは、まだ、血が止まらずに流れ出ている――


『お美代……赤ん坊……』


 出血の為か、涙の所為か、太助は次第に目の前が見えなくなっていった――


『……?』


 音のない、真っ暗闇の中にいた。

 どうやら目は開いているようなので、瞼の裏を見ている訳ではなさそうだ。

 とても不思議な空間。

 生きているのか死んでいるのかさえも分からない。

 例えていうなら、そう、逝く寸前の躊躇い処。

 そんな感じがした。


『ぁ……』


 するとそんな中、童女の姿が目の前に浮かぶようにして、くっきりと現れた。

 僅かに光っているだろうか。

 己の逝く先を教えてくれる遣いだろうか。

 この状況に何処か腑に落ちるものがあり、取り立てて心が乱れるようなことはなかった。

 

『お前さん、どこの子だい?』


 その童女は、先ほど帰って来る途中でも見かけた、あの童女だった。

 手元には鮮やかな鞠もある。


『こんな処にいるのは、良くねぇよ……』


 魂の灯火が潰える時か、次第に薄れゆく意識の中、太助は、童女の心配をした。


 ――すると、


「恨み、晴らしてやろか?」


 童女の言葉が、すうっと太助の心へ響き届く。

 太助は、何がなんだか解らなかったが、目の前のこの童女が、間違いなく己の無念を晴らしてくれるという事だけは判った。


 ……だが、果たしてそんなことを願ってもいいのだろうか。


 一つ何かが違えていれば、己が佐吉となっていた筈。

 そんな自分が、望んでもいいのだろうか。


〈お前は、立派な大人になれる――〉


『!?』


 磯貝の、あの言葉が何処からともなく聞こえてきた。

 事あるごとに諭され伝えられた、あの言葉が。


「……」


 太助は気づく。

 

『そうか。誰の心にも、佐吉みてえなもんはきっとあるんだろうな。でもそれが大きくならねえように、周りの支えだったり、てめえの心の持ちようと進む先が確かなら、そんなの気にするほどのことでもねえやな』


 目も霞んでいき意識も失いかける太助ではあったが、童女へ思いを伝えた。


『すまねえが、頼まれてくれるかい?』 


 腹ん中の子は、きっと女の子だったに違いねえ。

 そんなことが過ぎった。そうして、


「哀、わかったよ…」


 命の灯火が消えていこうとする、刹那、童女の言葉が太助を掠めていった――

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