肆
その夜、囚人達が寝静まった頃……
「おい、起きろ!」
鍵役人が太助を叩き起こし、それから少し遅れて牢屋医師が姿を現す。
「診療だ」
こんな時刻に如何にも面倒だというようにして、鍵役人は身を屈め牢の開錠を行う。そして医師を中へと通し、再び施錠したあと臭気から逃れるようにしてその場から離れていった。
「……ふむ」
医師は中の様子をぐるりと見回すと、出入り口付近に場所を決め、太助を呼びつけ仰向けになるよう指示を出しながら、その辺を宛がわれていた者達へ移動するよう促す。
これに眠りこけていた囚人らは大層迷惑そうにして太助をひと睨みし、それからそろそろと移動を開始した――
「……うむ。よかろう」
一通りのことを終えて医師が太助を起き上がらせる……すると、そこで太助の肩をぐいと引き寄せ耳元へ顔を近づけて、「今から面白い事が起きる。その暫しの時をどう使おうが、お主の勝手だ」と、呟いた。
「ぇ……?」
その顔が離れていく瞬間、太助は、医師が佐吉と同じ目をしていることに気が付き、ぞくりとする。
『一体、何が……』
医師は鍵役人へ大きな声で呼ばわり終えたことを告げる。すると足音で答えるようにして、先程の役人が眠た気な様子で姿を現し、牢の扉を同じようにして開く――と、
「うっ!?」
役人が胸を押さえ苦しみ出した。
「おおっ!? しっかりしなさい!」
医師は役人を抱きかかえ、その様子を診る。
「その方、誰か呼んで参れ!」
医師は太助を呼び付け、牢から出るよう強く手招きする。
「……」
太助が困惑しながらも牢から出ると、医師は役人の手から鍵束を引っ手繰るようにして受け取り、太助にそれを預けて牢の鍵を閉めさせる。そして、「早よせぬか!」と、そう言って太助を急かした。
「――へ、へい!」
先ほどの耳打ちが蘇る……
どういう腹積もりなのかは見当もつかなかったが、とにかく逃げる機会を与えてくれた事には違いないので心の内で礼を告げて、太助は、一目散に外を目指して動き出し、廊下を足早に駆けだした。
すると、「なんだ、なんだ?」という、ざわつく声がし始め、太助の姿を格子を掴んで囚人らが覗き見ようとする。
「――うるせいっ!」
太助が入っていた大牢の上座、何段にも積み重ねられた畳の上で横たわる、牢名主の一喝が響き渡り、皆、すごすごと何事もなかったかのようにして眠りに就くこととなった――
『一体、どうなってやがんだ?』
太助は、その声を遠く後ろの方で耳にしながら、医師から預かった鍵を使い、敷地内ではあったが、容易く外まで辿り着くことが出来ていた。
そしてそれまでの間、数人の牢番と出くわしたのであったが、何故か皆ぐっすりと
それを不思議に思いつつも、太助は久方振りと感じる新鮮な外の空気を吸い込み脱獄の意志を強くし己を鼓舞する。
そして裏門へと通ずる路を暗がりの中、番所に詰める見張りに見つからないよう、慎重に地べたを這い牢屋敷沿いを東の方角へと進んで行った……
『――今だ!』
蘭学者でもある
何故ならば、獄中で最も守られるべきもの、それは縦の規律に他ならない。
そしてその序列を決めるのが、どれだけの悪名をもって投獄されたのか、或いは、どれだけの
そして暗黙ではあれど、そのことを周知の事実として把握する番所の者達にとって、自浄作用のある囚人は、実際のところ見張りをする必要すらない相手である。
するとこのような遅い刻限は、上役の姿を見ることのない安息の一時となり、当然の如く無駄話にも花が咲く。
そして多分に漏れることなく、裏門近くの番所に詰める二人も談笑に熱中する余り、緊張感の欠片もない見張りとなっていた――
一方が先日声を掛けた町娘と暗がりの境内の中、覚えたての四十八手を何処まで再現できたのかを鷹揚に相手へ聞かせていると、もう一方が興奮の面持ちで「それから!? それから!?」と、話しの続きを身を乗り出し急かす。そして暫くの間そのようなやり取りを繰り返し、「厠に行ってくるから、ちっと待ってろ!」と言って、勿体つけるようにしてその場から動き出すと、もう一方が「そりゃないぜ!」と言って、結局、二人連れ立って厠へと行ってしまったが為に、地虫のようにして身を顰めていた太助に気付くことは無かった。
『……(笑)』
太助は仏様のような、ぼんくらな二人の後ろ姿を何処か愛着を持ちながら丁寧に見送り、すっくと立ち上がって小走りに裏門へと近付き、そこの潜戸を静かに開いて少しだけ通りへ顔を覗かせる……
『よし……』
通りに誰もいないことを確かめて、太助は娑婆へと体を預けて、そして音を立てぬよう気を配りながら戸を閉ざし遂に脱獄に成功した。
『――無事でいてくれよ!』
そこから全速力で、お美代が待つ我が家へと向かう――
「?」
途中、橋の袂で鞠を突いて遊ぶ童女の姿が視界の隅に飛び込んできた。
『あの童女、確か……』
通り過ぎるその光景に、先日出掛けに見た童女だということを思い出す。
『なんでこんな夜更けに?』と、気にはなったものの立ち止まっている暇はない。
気を取り直して、目一杯に腿を持ち上げ、ひた走る――
そして童女は、そんな太助の後ろ姿を鞠を抱えて見送っていた。
「……」
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