『……なんで、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならねぇんだっ!?』


 意識が遠退く。

 太助は、両手両足を縛りつけられ、ふんどし一枚の恰好で吊るされていた。


「さっさと吐かぬか!」


「――ぐあっ!」


 幾度目だろう。また、太助の背中に鞭が飛ぶ。


「お……おらぁ、何もやっちゃいません……」


 同じ台詞を繰り返す。


「お主の他に、誰もおらんではないか!」


「ぐわっ!」


 繰り返す――


「じゃ、行って来るぜ」


 太助は蕎麦の夜屋台を商いにしながら、お美代と仲睦まじく暮らしていた。


「あんた、気を付けてね。あんまり無理するんじゃないよ」


「なに言ってやがんだ。いちんちでも早く店を持って、長屋の暮らしともおさらばするのが俺たちの夢じゃねぇか」


「別に、あたしは今でじゅうぶん幸せだよ」


「……おめぇは、ほんと欲がねぇなぁ。だから俺んとこに嫁に来てくれたわけだけどもよぉ」


 そこでお美代は顔を赤らめ「ばか」と、小声で太助の胸元をぽんと小突く。

 そして、「あのね……」と、何かを言い澱んだ。


「どうしたい?」


「ううん、帰って来てから話すよ」


 お美代はそう言って俯き、前掛けで手遊びしながら太助を送り出そうとする。


「……おう!」


 お美代の物言いは気になったのだが、先を越されて商い場所を取られては不味いと思い、いつも通り太助は力強く長屋を後にすることにした。


「――おっと!? ごめんよ!」


 処々脆くなっている木戸を出た曲がり角、危うく鞠を突いて遊んでいる童女にぶつかりそうになる。


「……?」


 太助は直ぐに向きなおり足早に向かおうとしたものの、何やら心に留まるものを感じて、担いでいる物を一旦その場に置き、その童女を立ち止まり振り返って目に収めてみた。


『ずいぶんと、大人びてんなぁ……』


 二人静ふたりしずかの色の着物が、童女を更に映えさせていた。

 哀しさと儚さを併せ持ったような童女……。


『あんな年の頃でも、人生を感じさせるもんなんだな』


 そんなふうに思いながら、急いでたことをはたと思いだして、太助は天秤棒を肩に乗せ直し風鈴を鳴らしながら、また足早に動き出した。


「……」


 そして童女は、そんな太助のことを鞠を抱えて、そっと見送る――


 最近、客入りが上々の両国橋近くの広小路へと向かいながら、太助は嫁いできて間もない若妻の顔を思い出し、『お美代のやつ、やけに嬉しそうにしてやがったな……』と、つい先ほどの記憶を遡らせていた。と、其処へ


「太助ではないか」

 

 人にぶつからない程度の気配りだけをしながら、夕暮れ時の空を上目遣いに眺めていると、声を掛けられた。


「磯貝様!」


 声のした方へ目を落としてみると、そこには臨時廻り同心の磯貝秀長いそがいひでながの姿があった。


「仕事の方はどうだ?  順調か?」


 磯貝は目を細め顔にたくさんの皺をこしらえて、嬉しそうに尋ねる。


「へい、お陰様で!」


 太助は笑顔で答える。子供の時分には、この磯貝に随分と世話を焼かせていたもので、本来であれば処罰されてもおかしくないことを散々遣って退けていたのであったが、この磯貝の蔭で、度々の長い説教だけで済まされていた。


「――お前は、立派な大人になれる」


 出会ったばかりの頃は耳障りな事をいう役人だと疎ましく思っていたのであったが、事あるごとにそう諭され自身を見つめ直す機会を与えられ救われるような思いになっていった。そして次第にその心ある説教にほだされ慕うようになっていき、磯貝の勧めで手に職を付けて真面目人間へと生まれ変わらせてくれた、大恩人であった。


「……」


 今でこそすっかり深く刻まれた磯貝のその顔の皺と臨時廻り同心というお役目に、時の流れを感じさせられる。


「して、お美代殿は息災か?」


「へい。それもこれも磯貝様のお蔭でございます」


「何を申す。儂は何もしてはおらんぞ(笑)」


『いえ、貴方がいなかったら、俺ぁお美代と出会うこともなく、その辺で野垂れ死んでいやしたよ』

 

 太助は心底そう思いながら言葉の代わりにかぶりを振り、深々と頭を下げた。


 ――そしてそこで、ふと、出かけのお美代の様子をまた思い出す。


「如何した?」


「いえ、大した話じゃねえんですが、実は出掛けにお美代のやつ、随分と嬉しそうに何か言いかけてたんです。でも帰ってきてから話すってんで、ずっと気になってやして……」


 磯貝は、つと思案してから、「そうか。 儂も家内にそのような言い回しをされたことを思い出したわ」と言って、ははと笑った。そして「本日は楽しみが出来て良かったの。後日、儂にも報せてくれよ」と言って、磯貝は後ろ手にゆっくりと立ち去って行く。


「はぁ……」

 

 太助は曖昧な返事をしながらも、その後ろ姿を情の念で見送り、その場を後にした。

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