「そうか! できたのか!」


 得心がいって、ぽんと一つ手を叩く。

 太助は商いの間中も、お美代の物言いをずっと考えていた。

 お美代と磯貝が交互に浮かんでは消えを繰り返していたのだが、注文された蕎麦を茹でているのをじっと眺めていたら、はたと気が付いた。


「まだじゃねぇか?」


 不思議そうに其れを見ていた客が、蕎麦を覗き見る。


「あ!? ……すいやせん」


 謝りつつも太助の表情から笑みが失われることはなく、また一つ賜った幸せを噛み締めるばかりであった。


『――今日は早く店を畳んで、さっさとけぇろう』


 本腰を入れる秋口までは、そこまで客足も見込めないだろうと誰に対するものでもない言い訳をつけて、人通りがいい具合に切れてくれたところで片づけを始めた。


「?」


 すると、こんな刻限に磯貝が小道の裏手へと入って行くのが目の端に映った。


『どうしたんだろう……』


 明らかにいつもと様子の違う磯貝に、太助は妙な胸騒ぎを覚える。


『ちっとだけ、様子見てみるか』


 今日こんにちの幸せを与えてくれた恩人に対して、見て見ぬ振りなど太助に出来る筈もない。


『何もなければ、そのままそっと立ち去ればいいだけのことだしな』


 太助はそう心に留めて、そうと近づいて行った――


 小道の一つ目の角を曲がり、二つ目の曲がり角の奥、行き止まりになっている処を影から少し顔を出して様子を伺う……


「!?」


 すると、こちらに仰向けに足を投げ出し、胸の辺りから何かが飛び出しているような人の姿が目に飛び込んできて、其れが誰であるかは疑うまでもなかった――


「磯貝様!」


 太助が慌てふためき駆け寄る。


「ぁ……ぁ……」


 見れば磯貝のその胸には、深々と短刀が突き刺さっている。

 

「しっかりしておくんなさい! 今、直ぐにお医者様をお呼びしますんで!」


 突き刺さった所から、止め処なく溢れるようにして流れ出る血に焦りを覚えて、太助けは直ぐに通りへ出ようと身を切り返そうとした。けれど磯貝がその襟元をぐいと掴み引き寄せた。


「さ、さき……」


 磯貝が、何かを訴えかけようとしている。

 太助は、耳を近づけて聞き漏らさないよう懸命に努めた。


「さき!? さきが、なんです!?」


 最期になってしまうかもしれないと心の何処かで感じ取る太助は、必死でその言葉を預かろうとする。


 しかし――、


 「っ!?」


 太助は後頭部に強い衝撃を覚える。

 そして直ぐに目の前が真っ暗となって、意識がすうっと、遠退いてしまった――


 「……」


 そうして次に目を覚ましてみれば、其処は、小伝馬町にある牢屋敷の大牢だった。中は途轍もなく不衛生で、しかもつるを持たずに放り込まれた太助は、身動き一つ出来ないつめの神様(べんじょ)の真横を宛がわれていた。

 糞尿の臭いが、容赦無く目や鼻を刺激する。


『大変なことになっちまった……』


 太助は突如、地獄のような処へ放り込まれてしまった。

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