伍
その夜、お咲は言われた通りに駕籠屋が来るのをじっと待っていた。
(なにか、手違いでも起こってくんないかな……)
そんなことを寄る辺なく何度も願ってみたのであったが、期待とは裏腹に、約束通りに駕籠屋が控えめな掛け声を伴い迎えにやって来て、障子越しに声を掛けてきた。
お咲は仁平に気付かれることのないよう溜息を吐いたあと、「お父っつあん、ちょっと出かけてくるね」と、明るく振る舞い、家をあとにした――。
駕籠に揺られている間、喜兵衛や番頭の言葉が蘇る。
〈選りにも選って、あの甚八とはねぇ……〉
〈十分に気を付けるんだよ〉
〈……最悪だ〉
「お父っつぁん……」
出がけの様子も良さそうだった仁平の顔を拠り所として、お咲は、吊り紐を握る手に力を込めた――。
「……ぇ?」
ゆさりと駕籠が止まり、かさっと垂が上がった。
お咲が目を遣ると、そこは、茶屋の前だった。
「――さっさと入ぇんな」
駕籠を降りかけた足が、すっと後ずさったのであったが、冷たく蹴飛ばされるような声に慌てて降りて振り向いてみると、権蔵達の姿が其処にはあった。
「は……はい」
お咲は権蔵の目力に、押し込まれるようにして中へと入る。すると店の者であろう年配の女が控えていて、腰を低く伏し目がちに「こちらへ」と、一言だけを発して、音も立てずに歩き出す……。
そしてその様子に、お咲は呆気に取られていたのであったが、はたと我に返り、急いで履き物を脱ぎ揃え上がると、その後を追いかけて二階へと続く階段に足を掛けていって、やがて一番奥の部屋へと辿り着く。
「――ごゆっくり」
女は、お咲が中へ足を踏み入れると、ぴしゃりと障子を閉めてしまった。
「……」
その影に頭を下げたお咲は、その後、部屋の中をぐるりと見渡してみた……薄明りのその部屋は、今まで目にしたことのない、艶やかな色合いの装飾が施されていた。
床の間には、男と女が絡み合う掛け軸。
むやみやたらに頭の大きい亀の置物。
淫靡な柄の座布団。
一式用意された盃。
そして、隣にも部屋があるのだろう。襖で仕切られてあった。
お咲は、そっと、そこを開けてみることにした。すると薄明りが、その部屋をひっそりと映し出して、一組の真っ赤な柄の布団が目に飛び込んできた。
(――帰らなきゃ)
お咲は急いで襖を閉めて、くるりと向きを変えて、障子に手を伸ばした――
「おや、何処へ行くつもりだい?」
お咲が手を掛けるよりも先に、すいと障子が横へとずれた。すると、愛想笑いを浮かべた甚八が、通せんぼするようにして其処に立っていた。
「あの、これは一体……」
お咲は、しどろもどろになりながら甚八へ尋ねる。
「安心おし。私は、綺麗なものを見ながら酒が呑みたいだけなのだからさ」
そう言うと、つと甚八は中へと入り、座布団に胡座をかいて座る。
そして、酌をするよう、お咲に盃を差し向けた。
「……」
お咲は致し方なく、甚八の隣に座することにした――。
「ん~、今夜の酒は、格別だね!」
甚八は上機嫌にいう。
「あの、そろそろ……」
「ほれ、お前も飲みなさい」
「いえ……あたし、お酒を頂いたことがありませんので……」
「では今日が初だね。さぁ、ぐいっとやりなさい」
甚八に盃を持たされ、その中になみなみと注ぎ込まれてしまう。
「……」
(飲み干したら、帰してもらおう)と、お咲は一息に喉の奥へと其れを流し込んだ。
「お~、いい飲みっぷりだ。 さ、もう一杯」
そう言って、甚八は
お咲は断りながらも、結局、甚八に飲まされ続け朦朧となってきてしまっていた。
(そろそろかね)
お咲の酔い具合を目を細め確かめた甚八は、するりと懐から薬包紙を取り出すと、それを残り少ない酒の中に混ぜて、お咲に進める。
すると程なくして、お咲の体は右へ左へと大きく揺れ出し、終いには倒れこむようにして突っ伏してしまう。そうして気が付けば、寝息を立て始めていた――。
「おい」
「……へい」
からりと障子が開いて、権蔵と手下の二人、そしてもう一人、道具箱を脇に抱えた総髪の男が入って来た。
「始めておくんなさい」
甚八は、その男に向けてそう口にする……と、権蔵達は襖を無造作に開いて、お咲を抱え上げて、隣の布団へと運び込び込むと、小慣れた手付きで着物を脱がしに掛かった。
男達の目の前で、お咲の細い肩の線や、きめ細かい肌が露わとなっていく。
そして、総髪の男が一糸纏わぬ娘の身体を隈なく確かめるようにしていき、その柔肌に手を宛がい滑らせていって、道具箱へ手を掛けていった――。
(……?)
――頭が、ぼーっとする。
焦点が……合わない。
(だれ?)
お咲は目の前の総髪の男に、そう言った気がした。
けれども上手く呂律が回った気がしない。
すると男が振り返り、何やら誰かに伝えているようだった。
(権蔵……)
近づく権蔵の存在に居場所が思い当たらないでいると、頭を持ち上げられて、水と一緒に何かを流し込まれた。
すると、また、意識が遠退いていった――。
「ん……」
どれくらいの
外は暗いようだった。
「痛っ!」
身体じゅうに感じる痺れと、ひりひりとする熱さに驚いた。
(あたし……そうだ。お酒を頂いたんだわ)
そうして酒というものが、こんなにも全身に痛みを感じるものなのかと、お咲は初めて体に取り入れたものに驚く。またその痛みは、まるで火の粉でも被ったようなもので、顔に強く其れを感じていた。
「おー、お咲。目が覚めたかい?」
其処には、たいそう機嫌のいい甚八の姿があった。
「……ぇ?」
よく見ると、甚八との距離がおかしい。
さっきまで、自分は、あそこに居たはず。
なのに、今はどうだろう。
少なくとも、畳ふたっつ分くらいは離れている。
「?」
今更ながらに気が付けば、自分の体には、布団が掛けられてあった。
それは、さっき見た卑猥なものだ。
そしてその中に、包まわれている……。
「お咲、まる三日も眠りこけた後の気分は、どうだい?」
「!」
甚八は、くいっと酒を煽った。
「それにしても、お前はいい女だねぇ。いや、実にうっとりしたよ」
恍惚とした表情で、甚八は言う。
「――!」
お咲は布団をぎゅっと体に引き寄せ、知りたくもない事の経緯を否が応にも想像してしまう……すると、ひとりでに涙が次から次へと溢れ出てきてしまった。
「おいおい、泣くもんじゃないよ。あたしは、お前に指一本ふれてやいないんだからね」
「……え?」
お咲は、何がなんだか分からなくなってしまった。この状況は、どう考えてもそういうことだろう。だが、どういう訳か、甚八の言葉には説得力がある。
全く理解が及ばない……すると甚八が、言葉を続けた。
「だから、もっとお前の体を、よく見せておくれよ。正体あるお前も拝んでおきたいんだよ」
(――この人の目の中には、鬼が棲んでる)
お咲には、そう映った。
「……」
恐ろしさの余り体を震わせながらも、お咲は自身に何が起こったのかを確かめる為、やがてゆっくりと、布団の中の体を覗き見てみることにした――。
束の間、
そして――、
「ぎゃーーーーっ!」
お咲は半狂乱となる!
自分の胸、腹、腕、腿に、彫物がしてあるじゃないか!
胸には男と女が絡みあった絵が。
腹には観音様が、
腕には錫杖や刀が……、
腿には風神・雷神が――。
甚八がいるのも忘れて、お咲は飛び起き、背、尻も首をひん曲げてその目に映す。
「おお! 美しいねぇ……。背から尻にかけての地獄絵図なんかは、この世の物とは思えないねえ」
甚八は、呆けたような顔つきで其れを眺めている。
「ど、どういうことで……ございますか……」
お咲は遅れてやってきた感情を表すように、涙、鼻水を垂れ流しながら甚八に問う。
「いやね。いつまで経ってもお前が借りた物を返してくれないからさ、体で返してもらうことにしたんだよ」
「だ、だからって……」
お咲は、自分が素っ裸だということにも気が回らないほどに、甚八の所業が理解できないでいた。
「仕方ないんだよ、お咲。返せないならさっさと他の方法を考えるのが一番だ。それにしても、そんな泣き顔もまた乙なもんだねえ。どれ、自分でも、とくと拝んでみるといい」
そう言って、甚八は、お咲へ柄鏡を投げて寄越した。
お咲は恐る恐る其れを拾い上げて、自身の顔を映してみた……
「あ″ーーーーっ!」
更なる絶叫が響き渡る。
そこに映っていたものは、役者さながらの
「そんな、そんな……」
お咲は慌てて手の平や甲を使って其れを落とそうとする。
けれどその化粧は、一向に落ちる様子をみせない。
「無駄だよ。なにせ彫物なんだからさ」
甚八は鼻で笑いながら立ち上がり、「これが、お前の為なんだよ」と、口元を引き攣らせながらいう。そして、「そうそう、利息のぶんは、先生と権蔵達に払ってやっておくれ。いいもん見せてくれてありがとうよ。また近々、拝ませてもらうよ」と、そう言って出て行く。
直後、太い足音をさせながら権蔵達がやってきて、お咲を貪る為、着物を脱ぎ散らかしながら近づいてきた。
「ぃ……いや……」
その儚い声は、呆気なく踏み躙られる。そしてその後、お咲は、身も心も失っていった――。
そしてその頃、格子から見える道端では、夜陰に紛れているのか、将又、夜陰を紛らせているのか、あの童女が同じ調子で鞠を突いていた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます