(ぁ……)


 お咲が長屋に辿り着いてみると、家の前には駕籠屋と権蔵、それに手下の二人の姿があった。

 権蔵がこちらを見て、下卑た笑い顔を作る。


「……」


 お咲は嫌な予感を抱きながらも軽く頭を下げて、急いで家の障子を開いた――


「おや、いま帰りかい?」


 こちらに背中を向けて仁平の枕元に座す恰幅のいい男が、ひょいと首だけをひねり口した。

 お咲は背筋にぞくりとするものを覚えながら其の横顔を目に映すと、案の定、内田屋甚八その人だった。


「……はい。このようなむさ苦しい処へお越し頂き、誠に申し訳ございません。金子は、もう少しだけ、お待ち頂けませんでしょうか?」と、直ぐに土間で平伏して、用向きであろうことを口にする。


「おいおい、そんな処でその様な真似をするもんじゃないよ。ささ、着物が汚れちまう。早くお上がりなさい」と、そう言って、甚八は笑顔で手招きした。


「……はい」


 お咲はその笑顔に薄ら寒いものを覚えながらも、致し方なく従う。そして履物を揃え家へ上がると、甚八が自らの横を指し示した。


「今日は、お前のお父っつぁんも具合が良さそうだねえ」


「お陰様で、お父っつぁんも何とか無事でいさせて頂いております」


 恐る恐る、甚八の横へ足を折り畳み座したお咲は、出来るだけ目が合わないようにして、そう答えた。

 それに対して甚八の方はというと、そんなお咲の様子を気に留めるふうでもなく、「そうかそうか」と、受け流すように口にして、そして、「用立てたもんは、まだ、返さなくてもいいよ」と、告げて、お咲の足の先から舐め回すようにして見据える。

 

「あ、ありがとうございます……」


 お咲は、蛇が体を這うようなその視線に逃げ出したい気持ちにとなる。けれども其れを堪えて鳥肌を立てながらも深々と頭を下げて謝意を示した。


「処でねえ、お咲。私の事なんだがね。明日、家の者が出払ってしまっていて一人なんだよ。寂しく一人酒ってのも、大層味気ないものだと思わないかい? そこで、どうだろう。明日、私の酒の相手をしておくれでないかい?」


 甚八の、深く刻まれた皺が動いた。


「でも、お父っつぁんの世話が……」


「なぁに、お父っつぁんもこうして具合が良さそうだ」


 お咲は、細やかな抵抗の証として、膝の上にある手をそれとなく握り込んだ。


「それとも、何かい?  私の酒の相手は、出来ないかね?」


 甚八は目を眇めながら、その手を見据えた。


「いえ、決してそのようなことは……」


「私もねぇ、権蔵達には、きつく言い聞かせてあるんだよ。でも、彼奴らは仕事熱心でね。ついついやり過ぎてしまうんだよ……。本当に困ったものだ。次、何かやらかさなければいいんだけどもねえ」と、甚八は、そう言って太息を吐いてみせた。


 お咲はその様子に、心の臓を鷲掴みにされたような心持ちになる。昨日のお店での一件が、否が応にも蘇り、「承知いたしました……」と、胸の奥底から喉を無理やりにこじ開けて、ようやっとの返事を絞り出すより他になかった。


「おお、そうかい! じゃあ、決まりだね。明日、駕籠屋を寄越すから其れでおいで。私はをみながら呑むのが大好きなんだよ」


 甚八はそういうと立ち上がり、「なぁに、ほんの一時の話だよ」と、そう言って、お咲の肩を指の腹で軽く撫でて家を後にした。


「――どうしよう……」


 触れられたその肩を強張らせて、駕籠が去って行くのを障子越しに映る影で見届けながら、お咲は、ぽつりと呟いた。


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