あれから更にどれくらいの時が流れたのだろう……

 さっきお天道様が顔を出す頃合いだったのに、もう日はとっぷりと暮れていた。


「お父っつぁん、心配してるだろうな……」


 お咲は独り残された、醜悪な残り香が漂う部屋から出て行くことにした――


 履物も履かずに、夜の江戸を彷徨う……


 頭からすっぽりと手拭いを被るものの、着物は着崩れし、首筋や腿から姿をみせる彫物は、まるで生きているかのようにして月明かりに照らされてしまい、すれ違う人々はみな、その姿に眉を顰めて通り過ぎて行く。


 お咲は、ずたずたと、何処いく当てもなく只歩く……


『真っ直ぐ帰る』、という心積もりはあるのだが、それをぼんやりとしたおつむりと気怠さが邪魔をしていて、我が家へと向かうことを遠ざけている。

そうして暫くの間、そうして歩を進めていると、川の音色が聞こえてきた。

 東本願寺が、つい今しがた見えたことからすると、どうやら大川から西の方に一本はいった辺りにいるようだ。するとこのまま下れば、両国橋が左手に見えるだろうと頭の片隅で見当をつけた。


「綺麗……」


 お咲は川岸へと近づき、腰を屈めて川面に目を遣る。

 こんなゆったりとしたときを過ごすのは、いつぶりだろうか。

 別に嫌ということではなかったのだが、仁平が倒れてからというもの、日々に追われてしまい川を見る余裕などなかった。

 今までの日々を呼び起こす。貧しくとも本当に充実していた。

 これからも、その暮らしを続けていきたい……と、只それだけを願い思っていただけなのに――

 

 川の流れが苦悶するものを清め鎮めてくれたら、どんなに楽になれるだろか。

 どうか心落ちかせてほしいと、そんな願いを込めて、顔を更に近づけてみると――、

 

「!?」


 月明かりに照らし出されてしまった自身のその面と相対し、思わず後ろへと仰け反り強か尻を打ってしまう。

 悔しさや哀しさ、そして、遣り切れなさが胸の中を掻きまわして、気が付けば枯れたはずの涙をぽろぽろと流していた。


「お父っつぁん……」


 一頻り泣いたあと、お咲はふらつきながらも立ち上がり、仁平が待つ我が家へと向かう――


「お父っつぁん、ただいま……」


 お咲は震える声で、仁平に声をかける。


「ぁぁ……」


 仁平の乾いた声を聞きながら、お咲はその枕元にぺたりとしゃがみ、どんな反応をされるのかという不安はあったものの、手拭いをはらりと落として面を晒した。


「……」


 しかし、いつものようにして、父親は汚れた低い天井を見つめたままだった。

 そしてその様子に、お咲には安堵と悲しさが、高波のようにして一気に押し寄せてきた。


 本当は知って欲しい、聞いて欲しい。

 けれど今の仁平では、それを求めることは酷である。

 何を理解していて、なんの返事をくれているのか見当つかない父……

 そのことは、よく解っている。

 判っているが――


「お父っつぁん……あたしと一緒に、良いとへこいこ。其処だったら、お父っつぁんも苦しまなくってすむからさ」


 お咲は、仁平の頬を優しく撫でて、飲み込んだ思いの後に浮かんできた言葉をするりと口にした。


「ぁぁ……」

 

 元気だった頃の、いつも一緒に遊んでくれたころの仁平を思い出す。

 転んで泣けば直ぐに頭を撫でてくれ、その太い腕で包んでくれた父。

 何はさておき、娘の事を一番に思ってくれていた父。

 走馬灯のように蘇るなか、お咲は、一人とり残してしまう仁平の為に道連れにするのではなく、自身があの世で彷徨わないようにする為に、仁平の命を求めていることを自覚し潤む瞳でその姿を映すしていると、父は何かを察するかのようにして、同じ調子でまた、声を絞り出していた――


「ごめんね、お父っつぁん……」


 お咲は仁平の目元に先程の手拭いを当てて、その皺だらけの骨ばった首筋に涙を落とし、ゆっくりと手をかけていく……

 

「ぁ……ぁ……」


 苦しいからなのか、それともお咲を不憫に思ってなのか、仁平は薄い声を浅い息と共にか細く出し仕切ると、お咲の零れ落ちた涙を自分の涙とするようにして、そのまま動かなくなってしまった――


「お父っつぁん、あたしもいま、逝くからね……」


 お咲ははりに紺色の打ち紐を括りつけて、それを輪っかにして首に巻いた部分を手で確かめたあと、「ぁ」という返事さえしなくなった仁平を見下ろしながら声を掛け、足場とする水甕みずがめをこつんと蹴飛ばす。


「……」


 ぎぎぎっ! という軋む音と一緒に、その首筋がきつく締め上げられいく。

 お咲の手足は次第に痺れていき、そして気が遠くなっていくのを感じた――


『――誰かいる!?』


 気配が、お咲のことを辛うじてこの世に留めた。

 なんとも冷たく昏い気配。けれど縋りつきたくなるような、そんな気配だった。


「……」


 お咲は霞んでいく目をぐっと凝らし、正体を探る……すると、ここ最近よく長屋の入り口で見掛けていた、あの童女が鞠を抱えてこちらを見上げて佇んでいた。


「う、うっ!?」


 首にきっちりと巻き付けたひもが邪魔をして、上手く言葉を発することができない。それどころか、口元を動かそうとすればするほど、頑丈なその紐が食い込んでしまい、頭をぼぉっとさせる。


「恨み、晴らしてやろか?」


 童女が深くくらく澄んだ黒い瞳で、いま、まさに逝こうとしているお咲に静かに尋ねた。


「――!? うーーっ!!」


 気を失いかけるさなか、忌まわしい出来事が鮮明に蘇り、お咲は童女の問い掛けに対して、涙や鼻汁を顔に滴らせながらも必死で声にならない声を絞り出し、体を揺らして童女へ訴え掛けた。


「哀、わかったよ…」


 童女は静かにきゅっと、鮮やかな赤い毬を抱きしめる。


「――」


 童女のその言葉と仕草が、お咲に届いたのかどうか、お咲は指先までをだらりと垂らし首を前へと傾けて、紐の揺れに身を任せていた。


「……」


 その姿を見届けた童女は、いつの間にやら後ろに控える深編み笠の浪人へ振り返り、言葉をつづった。


「行こう、おとっつぁん――」

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