お天道様の明かりが、薄っすらと江戸の町に朝の訪れを告げるころ、お咲は早々と薄っぺらな寝床を畳んで、長屋の井戸水を汲んでいる処であった。


(あら、あの子……)


 通りで鞠を突く童女が、昨日も居たことを思い出す。

 どこの家の子だろう? と、頭を働かせてみたが、とんと思い当たる家がない。


(どこかの家にでも、預けられたのかしら?)と、早々はやばやとそんなふうに答えを出すことにした。


 お店へ奉公に上がる前に、お咲は、やれることをやっておかなければならない。

 母親のこうは、物心つく前に亡くなってしまっていて、父親の仁平にへいは、四年前から病を患い、寝たきりとなってしまっている。

 それまでの仁平は、仕事一筋の威勢のいい男であり、また、常日頃から娘のお咲へ心配こころくばりする、良い父親でもあった。


 そしてそんな仁平に育てられたお咲は、当然の如く父親思いの優しい娘へと育っていた。


 お咲は取り立てて美人というわけではなかったが、愛嬌ある顔立ちと清楚な雰囲気が仲立ちを務めようとする差配などに大変受けがよく、仁平が倒れる直前には、何件か良い縁談も舞い込んで来ていた。けれど残念なことに、そういった話も今では無くなってしまっていた。


「お父っつぁん。今日は、いい天気になりそうよ」


 汲んできた水を使い古した水瓶に移し終えると、お咲は、てきぱきと仁平に重湯を飲ませる。


「ぁ、ぁ……」  


 仁平は話すこともままならないが、いつも看病しているお咲には、今日は具合が良さそうだということが直ぐにわかった。


「あら、お父っつぁん。端から零れてる」 


 力こぶのあった頃の逞しい仁平の姿を思い出しながらも、お咲は今まで通り、親子二人三脚で互いに寄り添って暮らしていけたらそれでいいと考えていた。

 

(弱っちまっても、大切な大切な、お父っつぁん……)


 そんな思いを抱きながら、お咲は仁平の下の世話などを済ませ、「じゃあ、いってくるからね」と、声を掛けてから、お店へと向かった――。


 ここ大野屋では、お咲は目の回るような忙しさで立ち働いていた。初めの頃は、通いの下女として奉公に上がっていたのだが、お店の躾けの厳しさから、直ぐに故郷へと帰って行く丁稚が多い為に、少しずつではあったものの、呉服屋としての用事も言付かるようになっていた。そしてそんのことを繰り返すうちに、すっかり店の者として勘定に入れられてしまい、四年目ともなった今では、気が付けば重宝がられるようになってしまっていた。けれども(お暇を出されるわけにはいかない)という思いから、とにもかくにも、お咲は遮二無二、気忙しく働ていた。


(どしたんだろ?)


 客足が落ち着こうかという昼過ぎ、なにやら店の方が騒がしくなっていた。

 内蔵の中、初夏の陽気に汗ばみながら、お咲は新たな役目を仰せつかり、手代からその手順を習っているところであった――。


「お、お咲!?」


 番頭が血相を変えて姿を現した。

 線の細い気難しいこの男は、常に何かに怯えているような、そんな雰囲気である。


「はい!」


「お前、内田屋から金子を用立ててもらった覚えはあるかい!?」


 お咲は、(ぁ……)と、心の中で声が漏れ、次いで、想像したくないことがとうとう起きてしまったと身を強張らせる。


「……はい」


「なんと、まぁ……。今、お店の方に荒くれた遣いの者達が来ている。とにかくお客様のご迷惑にならないように、彼奴らをなんとかして連れ出しなさい!」


 番頭は怒りと憐みの表情で、お咲に急ぐよう伝えた。


「はい、ただいま!」


 お咲は番頭と手代に頭を下げて、直ぐにお店の方へと向かった――。


「お咲。いつになったら借金返すんだ?」


 内田屋の権蔵が、手下を二人従えて太い声を張る。一見すると粗暴に映るこの男は、実の処、妙な冷静さを感じさせる人物であった。


「相済みません。まずは、こちらへ……」


 そう言って、お咲は表の通りへと連れ出そうとした。


「話ならここでいいんだよ。まぁ、返せねぇっていうんなら、他の誰かに肩代わりしてもらったって構いやしなんだけどな……」


 そういうと権蔵は、ぐるりと店にいる者達を睨め付けた。

 幸い、既に反物を手に取り、吟味を重ねるような客達の姿はなく、数人の店の者達だけが其処にいて、関わり合いにならなぬようにと、野分が通り過ぎるのを耐え忍ぶがごとく静まり返り目を伏せていた。

 

「なんとかしますんで、もう少しだけ、もう少しだけお待ちください……」


 お咲は頭を低く低く下げて、消え入りそうな声で恐れながらに告げる。しかし、何よりこのことが、お店に知れてしまったことに深く怯えた。

 

「……まぁいい。今日のところは、只の顔見せだ」


 必要ならまたくるぜ、と、捨て台詞を吐いて権蔵達は立ち去って行ったのであった。

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