1.エレクトリック・サーカス (『世界の終わり頃』より)

 いつもと同じように終わる世界の裏側へと避難する。目の前のすべてがモノクロになって、自分と一緒に塗りつぶされるような感覚を通り抜け、原稿用紙の隙間に滑り込む。物語がまたひとつ終わる。星の輝きみたいに、消える。

 その風景は限りなくもとの世界に似ている。いつもの、日常に限りなく近い。だけど、ここは避難所なんだ。

 景色の中に色がひとつ足りないような、もとの世界に忘れてきたような、味気なさ。ぼくはこの避難所に長く居たことはないけれど、もしそうしたらきっとどこかおかしくなってしまうんじゃないか、っていう違和感が常にある感じ。

 だからぼく達はこの避難所で世界の終わりをやりすごし、一刻も早くもとの世界に戻ろうとする。

 世界が終わるのは一瞬だけど、避難所で待っているぼく達には長い時間だ。長く感じる、というんじゃなく、本当に長い。気圧が下がって頭が痛くなるような感覚で偽物の世界、原稿用紙の裏側を過ごしている。

 時々、不安になる。いつか、逃げ遅れたり、隙間に落ちてぼくも消えてしまうんじゃないか。誰か、大事な、大事だったひとがすでにそうなってしまっているんじゃないか。ぼくは誰か、何か、大事なことを忘れているんじゃないか。

 たとえば、ぼくには昔きょうだいがいて、それは年上なのか年下なのか、男女のどちらかもわからないけれど、ぼくはそのことを忘れてる、のかもしれない。幾度も世界が終わって、その度にぼく達は何かをなくして何かを得て、思い出せない、気付かないふりをしながら日々を過ごす。

 ぼく達の世界は、いつも終わってる。そして始まっていく。その狭間に、何かを落としていく。見慣れた世界と、いつもの避難所。どちらがどちらだか、いつかわからなくなってしまうのかもしれない。少なくとも、今はまだそういう風にはなっていないけど。

 避難所での暮らしは、だいたいいつもの世界と一緒だ。でもちょっと違うところもある。昔あったけど今はもうない建物が何故かしれっと建っていたりとか、これから建つ予定の、後から振り返るとあの時見かけた建物はこのタイミングで建つものだったんだ、なんてことがざらにある。

 それなのに不思議と違和感はない。未来も、過去も、今も、ごっちゃになった世界の隙間は、そんなことを気にさせないような心地よさがある。だから、怖い。未来も、過去も、どうでもよくなってしまうような、気持ち悪いぐらいの心地よさがある。

 きっと、長居してはいけない。何もかもを忘れる前に、もとの世界に戻らなきゃいけない。

 みんな、そう言ってるし、ぼくもそう思ってる。だけど、少しだけその決心が揺らぐのは、この避難所にホニャさんが住んでいるからだ。

 ホニャさんはもとの世界では本屋さんと呼ばれていたんだけど、こちらに来る時に名前が歪んでしまったんだ、って言っていた。

 年下のぼくがこんな風に言うと怒られるかもしれないけど、なんだかすごくかわいいひとで、表情も物腰も柔らかくてみんなから愛されている。この原稿用紙避難所にはお年寄りが多くて、そういう人たちはホヤさんなんて呼ぶから、もうひとひねり入ってしまって、ホニャさんもたまに苦笑いしている。

 ホニャさんは帰れないひとだ。

 ぼく達がもとの世界に帰るとき、彼女だけが避難所に残ってる。帰ろうとしない、んじゃなくて、帰れない。僕がまだ幼かったころ、ホニャさんもぼく達の世界に遊びに来たらいいのに、なんて言ってしまったことがある。今思えば残酷な話だけど、ホニャさんは大人だから、笑って「そうね、そのうちね」って言ってくれた。

 そして、ぼくは今でも、心のどこかでそれを信じてしまっている。自分でもわかっているつもりなのに。ホニャさんが帰れないこと、たとえ帰れるとしても多分彼女はそれを選択しないであろうこと、を。

 ぼくはまだ大人じゃないけど、あのころみたいに子供でもない。だから、ホニャさんがたまに見せる、何かを諦めたみたいなちょっと寂しそうな表情だって、その意味だって、少しはわかるつもりだ。

 ホニャさんは人気者だ。ぼく達がもとの世界からぞろぞろと避難してきて真っ先に挨拶に行くのは彼女のところで、そのせいでラーメン屋でもないのに行列ができたりする。彼女は少しだけ困ったように、でも嬉しそうに微笑んで、「喫茶店でも始めようかしら」なんて冗談をよく言っている。

 でもホニャさんには無理なんだ。彼女の味覚はおかしくなっていて、それがもとの世界に居たときからそうだったのか、それとも避難所に来たときからなのかぼくにはわからないけれど、舌が麻痺してるんだって言ってた。

 ほかのひと達が知らないことを教え合うぐらいには、ぼくとホニャさんは友達だ。ホニャさんは人気者だけど、あんまり友達が居ない。きっと、引っ張られたくないんだと思う。仲良くし過ぎたら、もとの世界に帰れなくなるんだって考えてるんだ。

 ぼくだって、帰れなくなるのはいやだ。だけど、ホニャさんとも仲良くしたい。父さんも母さんも、ぼくの意思を尊重してくれる。あまりいい顔はしないけど。

 ぼくとホニャさんだけの秘密。

 それがいつか、ってことは問題じゃなくて、とにかく過去だってことだけわかってればいい。とにかく、ぼくはホニャさんに連れられて、ふたりで夜の河原を散歩した。ホニャさんは魔法瓶を持っていて、ぼくに温かくて甘いカフェオレを飲ませてくれた。だだ甘くてあんまりおいしくなかったけど、特別な味だった。

 ホニャさんはぼくにまず、カラーコピーしたみたいに荒い偽物の夜空を見せて、「さん、に、いち」とカウントした。本物の世界で、信号が赤から青に変わる瞬間、父さんも同じことをしていたのを思い出した。

 ぱっ、と偽物の夜空が光った。

 少しずつ、光がずれたみたいに、壊れた液晶みたいに色を映していく。「あれは、世界が終わる光なんだよ」って、いつも通りの穏やかな顔でホニャさんは言った。

 正直、ぼくは怖かった。「ホニャさんが、やったの」って訊いた。ホニャさんは少しだけ答えに詰まるような仕草をして、「わたしも、かな」と答えた。

「わたしたちは魔女なんだ」ってホニャさんは言った。少しだけばつが悪そうで、その表情はいつも以上に子供っぽかった。

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