幸せですか

旅人

幸せですか ver. 25 (submitted 4)

 気がつくとぼくはベッドに寝かされていた。白い壁、白い天井。ここはきっと病院。傍らには、心配顔で泣き出しそうなひかる。ぼくの手をしっかり握ったその手から、柔らかい熱が流れ込んで、ぼくの体を温めた。……信じられなかった。この温もりをもう一度感じることがあるなんて。命よりも、人生よりも大事な君を、もう一度この目で見ることがあるなんて。ぼくたちはあの日、あの夢を見た日から、ずっとここまでやってきた。ぼくたちは生きているんだ。






 私たち、馬鹿みたいね。埃っぽい廊下の奥で肩を並べて座ったまま、彼女はぼくにそう囁いた。ひびの入った窓ガラスからは、色あせた太陽の光が幸せだった頃の名残を振りまいている。廊下の床に窓枠が落とす影をなぞって埃の上に線を描きながら、彼女は長い髪のかげで、寂しげにそっと微笑んだ。君は、とぼくは言いかけて、少しためらった。彼女が髪をかきあげて不思議そうにぼくを見つめる。君は、怖くはないのかい?




   一 全体性と無限



 人間のこの悲惨――さまざまな事情と悪意とが人間にふるいうる支配――、この動物性については、疑う余地がない。けれども人間であるとは、ことの消息がそのようであるのを知ることである。さらに、知り、意識を持つとは、非人間性が到来する瞬間を回避し、それに先んずるために時間を有していることである。


レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳



 その日、その夢を見た日、ぼくはひかると会うために神保町まで三田線に乗って出かけた。このところの首都改造計画で、駅は大規模工事の最中だった。ぼくは西片の交差点に近いいつもの出口から春日駅に入った。その出口の辺りからは文京区役所が少し見える。巨大な旭日旗が掛かったその建物が鼻について、ぼくはいつもそっちを見ないようにしている。階段を何続きか降りて、工事中の札がついた通路を抜け、改札に着いた時、ぼくは何かが変だと思った。ホームの方から怒鳴り声が聞こえる。改札の窓口にいるはずの駅員が見当たらない。全体的に空気がぴりぴりしていて、ぼくの頭の中で赤信号が灯った。改札機の少し手前で素知らぬふりをして、ズボンのポケットをまさぐる。この動作に意味はない。ただ、そうやって自然に時間を稼ぎながら、ぼくは横目で状況を把握しようとした。五年前なら、こんなことはせずにすぐに改札を通って見に行っただろう。だが、四年間の圧政は人々を用心深い野生動物のようにしてしまった。ぼくはぎりぎりまでズボンを探って、内務警察の制服を着た男がいないこと、騒いでいるのはサラリーマン一人で、普通の警察官と駅員が取り囲んでいるだけであることを見て取った。行っても大丈夫そうだ。

 ホームを足早に歩きながら、最小限の注意だけを彼らに払う。手提げ鞄を持ったサラリーマンは、駅員に向かって何かまくしたてている。その横には、裕福な身なりの若い男が立って腕組みをしている。瞬間、ぼくは何が起きたのか悟った。不敬罪の現行犯逮捕だ。ぼくは耳を塞ぎたくなった。でも、どんなに無視しても、サラリーマンの切実な訴えが耳に入ってくる。自分には臨月の妻がいて、娘はまだ九歳だ、自分は何もやっていない、証拠もないだろう、家族のところへ帰してくれ。そう繰り返すサラリーマンに、若い男が近づいて、居丈高な言葉を浴びせる。私は軍属だ、二流市民の証言など信用できるか、私は被害者なのだよ、私に不敬を働く方が悪いとは思わんのかね、そもそも証拠がないだって、反証もできないくせに。

 ぼくは急いでやってきた電車に乗り込んだ。今見た風景を記憶から消そうと、荒い息をしながら目を瞑ってドアのガラス窓に額をつける。あのサラリーマンは、きっとこのまま連行され、勾留期限まで警察署に置かれ、家族にも会えず、家族も彼の助けを得られずに、最悪彼の懲役刑が確定して……。考えるな、ぼくはそう自分に言い聞かせた。不幸にあふれたこの街が辛かった。いつ自分がやられるかという恐怖と、今までに捕まった人々への同情。それは悪意ある警察、無能な為政者に対するやり場のない怒りになって、ぼくの体を震わせた。軍人や軍属に不敬な言動があれば、現行犯で逮捕できるこの罪名は、刑法にすでに明記されている。なぜ、こんな立法を止められなかったのか。議会はまだあるのに。国民は、何故怒らないのか。声をまだ失っていないのに。

 神保町に着くまで、ぼくの拳は怒りに震えて、止まらなかった。


 ***


 ねぇ、聞いてる? 学士会館のカフェで、ひかるがやや不満そうにこっちを見つめている。ごめん、とぼくは謝って、少しためらった後、さっき駅で見た事件の話をした。ひかるはショックを受けたように目を潤ませてぼくの話をじっと聞いていた。ぼくが話し終わると、優しい顔立ちに似合わない痛切なため息がその口から漏れた。どうしてそんなことができるのかしら……? 証拠もないのに、いいえ、あったところでなんでもないわ。軍属だからって、どうして……? そう呟いて、彼女はテーブルの上でぼくの手を求めた。ぼくたちは手をしっかり繋いで、この不条理に黙って耐えた。彼女の小さな手は、小刻みに震えている。ご家族は、どうなるのかしら? そう訊ねるひかるの目には、涙の粒があった。

 ぼくたちはそれから黙って食事を済ました。食後のデザートになって、ようやくデートらしい気分が戻ってきた。ひかるは小さなパフェを食べて子供のような笑顔になった。やっぱり、彼女は笑顔が一番だ。ぼくは紅茶を飲みながら、カフェの中を見渡した。重厚な作りの学士会館は古き良き時代の香りがして、ぼくたちのお気に入りだった。革命前に比べて人が多いように感じるのは、同じことを考える人が多いからか、あるいは気のせいなのだろうか。そんなことを思いながら窓の外を見やる。レースのカーテン越しに、九月下旬の陽の光がさんさんと降り注いで午後の幸せを縁取っている。ぼくはその美しい窓辺をひかるにも見せたくて、彼女の方を振り向いた。……彼女は一心不乱にパフェを食べていて、頬にはクリームが付いている。ぼくはカーテンのことも忘れて不覚にも笑ってしまった。

「ひかる、ほっぺにクリームが付いてるよ」

「え? どこ?」

 見当外れな場所をこするひかるの手を取って、そのなめらかな頰からクリームを拭う。

「えへへ、ありがとう……あっ」

 そのまま指先のクリームを舐めとったぼくを見て、ひかるが声をあげた。こういうのって、やっぱり人前ではよくなかったのだろうか?

「私のクリームがぁ……」

 ……そっちかよ。

 ぼくはわざと意地悪な顔をして、大げさな身振りでぼくの指先のクリームがきれいになくなっていることをひかるに見せた。本気で悔しがる彼女がたまらなく愛しく思えて、幸せだなあ、とぼくは心から思った。にっこり笑って彼女を見つめる。長い髪は天使の輪っかができるくらいつやつやした黒で、肩よりも少し下まで伸ばしている。先週の雨から少し涼しくなったので、服装は若草色の薄いセーターと紺のスカートだ。首元にはこのあいだの誕生日にぼくがあげた細い金色のネックレスが見える。鎖骨のところでネックレスの鎖が少し引っかかっているのがとても良い。くるくるとよく動く目は、パフェとぼくを往復して何か言いたげだ。口元が少し尖って、何か呟いている。

「パフェが七百円。クリームの値段がその十分の一で、その五パーセントを取られたから……三十五円」

 ぼくの真似をしているのは分かるが、相変わらず算数がダメだ。苦笑するぼくを見て、彼女もつられて笑い出した。この輝く笑顔を守りたい、でも、どうしてもそれが叶わないときは。不意に不安に襲われたぼくは、半ば自分に言い聞かせるようにこんな話をした。


 人間はいつ、どんな目に遭うかわからない。ひどい目に遭うこともあるだろう。人間らしい感情や思考が、いつでもどこでも可能だと考えるのは間違っている。人間らしさを失うような試練も、きっとあるからだ。でも、いつかそういう破局が起きるとしても、それを知って、人間らしさが失われるまでの時間を少しでも延長しようと努力すること、それが人間であるということなのだ。だから、幸せな時間を、その幸せが少しでも長く続くように祈りながら、精一杯生きるしかないんだ。


 きっと、さっき家で読んでいたレヴィナスの一節が、心に残っていたのだろう。ひかるは神妙な顔で聞いていたが、興味を持ったようで、レヴィナスってどんな人? と聞いてきた。

「フランスの哲学者でね、ユダヤ人なんだけど、親戚の大半を第二次大戦中に亡くしている。本人も捕まったけれど、奇跡的に生きびて、戦後は大学で哲学の先生をしていた」

「その人は、でも……いいえ、だからこそ、希望を持ちたかったのね?」

 ぼくはうなずいた。彼女は少し考え込んだ。

「じゃあ、もしもね、もしも、私たちがひどい目にあったら、私に『今まで幸せだった?』って聞いてみて。そうすれば、私はあなたといて幸せだった時間を思い出して、その後も生きていけるもの」

 ぼくは、その言葉を一生忘れないだろう、と思った。

 

***


 二〇二〇年のクーデターで軍事政権に変わってもう四年か。そう思いながらぼくはさっきから行進歌を流しているテレビの方を見やった。ひかると遅めの昼食をとったから、大学で食べる夕食は軽めのものだ。食堂の天井近くに据えられた画面の中では中嶋国防大臣がフィールドに整列した無数の兵士たちを直立不動で睨んでいるところだ。黒い軍服の将校たちがその周りにずらりと立ち並び、巨大な旭日旗が彼らの後ろではためいている。《日本共和国国防軍創立記念日 本日午後(新国立競技場)》、とテロップが流れる国営放送の番組は、勇ましいだけで鼻につくアナウンサーの口調が嫌いでいつも苦手だ。あいにく食堂には他にも客がいる。その中に画面を熱心に眺める準軍服の内務警察官を見つけて、ぼくは軽くため息をついた。

 突然テレビが静まり返った。独特の勇壮なメロディーが流れ始め、新国立競技場の演台に西村首相が姿を現した。戦闘機が上空を滑空して煙幕で青空を切り裂く中、首相は胸に手を当てて国歌を歌い出した。満場の兵士がそれに唱和し、観客席でも忠良なる国民がそのメロディーに参加している。短い時間だった。共和国国歌の標準演奏時間が三分半であると定められていることなど、四歳の幼児でも知っている。

 演奏が終わって画面の中で皆が着席すると、首相がマイクに歩み寄って演説を始めた。首相の後ろには軍服姿の陸海空軍将校がずらりと並んでいる。既視感のあるその光景は、とても二十一世紀のものとは思えなかった……。




   二



 数日後の昼下がり、ぼくは大学の研究室で、先日駒場祭で買った文芸同人誌をぱらぱらとめくっていた。色とりどりの表紙にひかれて買ったその本の中ほどに、『光』という短編を見つけてぼくは読み始めた。




   光


安心院(あじむ)



 それは虫歯のように痛んでぼくを狂わせる。ある時は鈍痛で、ある時は鋭い痛みで。でも、ぼくはその病んだ痛みの中心を体から抜き取ることができない。眠れない夜を過ごしてわずかな時間まどろんだ後、ふと目が覚める朝。また同じ体に戻ってきた魂が、痛みに悶えて血を流す一日を予期して戦慄する。なぜぼくの精神は毎朝同じ身体に戻ってくるのか。この身体、この偶然性さえ脱ぎ捨てて風のような自由を手に入れられたら、それはきっと素晴らしいことだろう。

 ぼくは日記を書き始めた。一九八四年、四月四日。一時期心酔したディストピア小説の主人公に自らをなぞらえて、戯れに書いた日付を二重線で消す。柄にもなく熱中して友人に薦めたりしたその本も、今は埃をかぶって書棚の奥に斃れているだろう。二〇一八年、十二月二十三日。あの日、平成最後の天皇誕生日は日曜日で、つい先日書き上げた小説のラストが六年後に迫っているのに、ぼくはただぼんやりと読書で時間を潰していた。幸福な人々が心待ちにする季節はすぐそこまできているのに、肝心の幸福がぼくには欠けていた。思えばここ十年間、心から幸福を感じたことなどなかった。いつも、どんなに笑っていても、心のどこかで冷めた自分が自分の笑顔の偽善的な見栄を監視して、冷笑していたように思う。ぼくはこの心の棘を何度抜き取ろうとして自分の体に傷をつけ血を流しただろう。

 ぼくはそもそもの始まりを見出せず、便宜的にこの日付を日記の最初の頁に据える。その怠惰が許せなくて、ぼくは筆を急いだ。

 

【二〇一八年十二月二十三日】今日は某所で女を買った。ここ数ヶ月その気にならなかったので、三ヶ月ぶりの女だ。すでに馴染みのその女は源氏名を〇〇と言い、夜の女にしては珍しく……


 珍しくなんだと言うのか。修士課程の時に覚えた女遊びは一時期度が過ぎたせいもあって、三十人からの女を経巡っていた。その中でこの女を何度も指名するに至った理由はなんだったのだろう。女の性技の巧拙は厳として存在する。身体的特徴も、身長や胸囲を含め様々だ。女の豊かな胸は確かに魅力的で、身体の感触も反応も悪くない。しかし、親に黙って百万円以上の借金を作った上にまだこの女に数万単位の金をかけて夜のひと時を過ごす意味は何だろうか。


 ……珍しく、まっすぐな目をしていた。やや乾燥気味の手入れの悪い黒髪と、少しくたびれた瞼の奥から、その目は淫靡な雰囲気を微塵も感じさせずに、一糸まとわぬ体でいる時も、街角で友人に会った時のような自然さでぼくを見つめた。その瞳は人生を語らなかった。語らぬが故にその深みは隠され、澄明にして明快であった。女は昼の仕事のことを話すのを好んだ。

 今日も女は厚着をして現れた。寒い気候を好まないその体質は、すでに知悉している。暖房を効かせた部屋でぼくは女に金を払い、ソファで女を抱いた。ぼくとさほど変わらぬ身長の女は、ぼくの膝に乗るとやや目線が上にくる。その視線を下げて女はキスをした。その唇が、その滑らかな舌が、ぼくを発情させる。

 昼間は服を着て仕事に出かけ、十人並みの容姿ながらまだ若い身体を男たちの視線から守っている女が、自分の前でその服を脱いでしどけない姿を晒し嬌声を上げることが、ぼくの歪んだ自尊心を刺激した。女は従順で、ぼくは際限なき征服欲に燃えていた。ぼくはその瞳を覗きながら女を犯した。

 その瞳はお座なりな欲情の陰に揺れて、肝心なことを何一つ言わない。


 ぼくは吐き気を感じた。自分の行為が、性欲の収まった今では極めて卑猥で不潔な行為に思えた。いっそ、この場で日記を投げ出して今から自分の手で快楽を貪る方が、その不快感を拭いされるようにも、思えた。

 馴染みの鈍痛が、ぼくを覚醒させた。ぼくはすっかり萎えた欲情を横に置いて、鈍痛と対峙した。女を買った。自分は、金で女を買わないと生きていけない人間なのだ。努力しなかったわけではない。純潔を見下しているわけでもない。ただ、何度も女性に好かれようとし、その度に傷を負い、自尊心を抉られ、血の涙を流してここまで流されてきた。ぼくは、友人たちが女性を手に入れて幸福になっていくのを見て、自分にはそのような結構なことが起きないのに歯噛みした。なぜ自分だけ孤独なのかを何度も自問した。自分は人並みよりは賢く、気配りができて優しい人間だと思った。そう思うが故に、自明な答えを見逃して苦しんでいた。

 ある日ぼくは気づいた。全ての答えはそこに、目の前にあったのだと。その日ぼくは大学のエレベータでふと鏡を見た。荷物用も兼ねたそのエレベータには、背後を確認できるように大きな鏡が貼ってあった。ぼくは自分の姿を鏡に映したことがなかった。自分が、こんなにも醜悪でこんなにも惨めな存在であると、知らなかった。ぼくは呆然としてそこに映る中背の、肥満した中年男を見つめた。髪は乱れ放題で、眼鏡の奥から覗く眼は不安に揺れている。長年の不摂生で形を崩した胴体は、どこから見ても無様で、不快を催すに足るものだった。

 ぼくはエレベータから出て、俯き加減に歩き出した。廊下の中程まで来た時に、向こうから若い男がやってくるのが見えた。青年らしい、引き締まった体のその男は、この世に悩むに足る事などないかのように晴れ晴れした表情で、弾むように歩いてくる。ついさっきまで自分をこの男と同じ種族に数えていたその無知を呪いながら、虫けらのぼくは廊下の隅を歩いた。もしも自分が健康だったら。もしも自分が美しければ。そうすれば、人生はたやすく、影のない笑みを浮かべて、研究室に山積する仕事に白々しいため息をつく人生が、すなわち、愛し、愛され、働き、休む人生が、待っていたことだろう。

 ぼくは再度日記に向き合った。


【二〇一八年十二月二十六日】先日女を抱いてから体が軽い。研究室の忘年会があったが、欠席した。誰もいない下宿に戻って、一人食事を取り、遅ればせの後悔をして自分をいたぶる。しかし、場の空気に馴染めず、かといって自分の世界を構築することも、自分だけの女を持つこともかなわないぼくに、何ができただろう。


 問題はいつも女なのだ。女としての女は貨幣であり、自分にはその対価がない。全ての男は画一化された市場に売り出されており、無限に比較対象があるその市場で、精神を病んだ醜い失敗作は議論の俎上に登ることもなく、ただ朽ち果てて死んでゆく。無意味な問いが繰り返され、その度に自答が死刑宣告を下してきた。一般価値への跳躍に失敗した商品は、淘汰されて消えてゆくのだ、と。

 淘汰。すなわち、弱者の排除を通じて強者の遺伝的・後天的素質を選別継承する過程。自分は生き残る側だと、初めは皆が思う。人間の一定数は、無意味に死ぬ運命にあるとも知らずに。

 死。女の対極にあるもの。その深い瞳は、肝心なことを何も言わない。

 日記を置いた時には、すでに冬の太陽が昇っていた。窓から差し込む清冽な光に、ぼくの心は打ち震えた。自分の無価値がはっきりと眼前に宣言され、その不潔が余すところなく開陳されたこの朝に、ぼくはようやく自己との決着を見た。この日記が今の自分に追いついたら自殺しよう。朝の大気は淀んだ脳を清涼剤のように覚醒させ、ぼくは鞄を持って家を出た。もはや痛みは消えていた。

 朝の光の中で、ぼくはとても、とても幸せだと感じた。



 ひどく陰鬱なその短編は、ぼくを考え込ませた。文中に出てくる小説というのはオーウェルの『一九八四年』だろう。研究室の先輩に薦められて読んだことがあったな。だが、オーウェルに負けず劣らず暗いこの小説を読んでも、自分に絶望して死を選ぶ事など、想像すらできないように思えた。その時、不意に、ひかるがいなければ自分もこうなっていたかもしれない、という考えが浮かんで背筋が寒くなった。身近に自分を肯定して、愛してくれる人がいないことの痛みを忘れかけている自分は、きっと幸せすぎるのだろう。ひかるを大事にしないといけないな、とぼくは思った。




   三 存在と無


 われわれは不安である。


サルトル『存在と無』松浪信三郎訳




 その小説が頭に残っていたからだろう、数日後、ぼくは大学の食堂で夕食をとりながら、自分もふと小説を書き始めた。『認知的虚構』と題されたそれは、こんな文章だった。



   認知的虚構



 この不快な密閉空間の中で、外で、あるいはその境界で、同時生起的に人生は進行しているのに、この空間に閉じ込められた私は高々収束列の極限として境界に達するのみでその向こうへ、物たちの住まう世界へ超越できず、孤独な主観性の悪夢の中で一切のすべきことを欠いた自由そのものとして腐敗していく。その腐臭そのものすらも、充満した空間の中から炸裂することなくただ滞留し、認識不可能な環世界として私の認識を条件づける土台となる。

 

 しかし人間の専一的な世界概念は生物から見た世界の多様な環世界によってその特権を剥奪され、諸々の主体と世界の交換様式に向かって墜落する。


 交換様式は国家の収奪・再分配が唯一の社会的様態であることを主張しない。それは却ってその多様なありようにおいて社会の現在ある姿を越える自由を夢想する。かくて正義を専一的に所有すると自称する収奪・再分配機構=国家すらをも相対化する社会的様態が実現の可能性を獲得する。

 

 自由において対自存在は不安であり、その不安は以下のように説明される。すなわち、自己を意識する対自的な存在様態は自己の後ろからその意志決定の現場を取り押さえ、その自己欺瞞的な誠実さを暴き(その存在にとってその存在においてその存在に対して別のある種の存在が問題になるときに当のその存在が問いただされるようなひとつの存在……)、存在するというその事実によってすでに特権的である存在であり、その特権の意識的な行使が当の行使そのものを脅かすことへの意識が、不安なのだ、と。


 しかし自由であるとは自由が危機に瀕していることを知ることである。自由が全体性に脅かされていることを知り、その自由の終わりを繰り延べ、その危機を回避することである。


 私は社会の不条理に震えるこの手でも、食事を消化しようと悶える胃腸でも、自由を謳歌しながらその自由に怯えるこの脳髄でもない。私はこの全き自由であり、この不安そのものである。

 

 不安はいつもふいにやってくる。私は今食卓につき食事を終えてほぼ安全な状態にある。この安全に対して安住を許さない私の自由は私をひとつの試練へと投げ込む。


「窓外を流れる風景。時刻は朝の九時過ぎ。私を乗せた満員電車は四ツ谷駅に差し掛かるところ。ぼくは今日の論文審査に相応しくスーツを着て手提げ鞄を持っている。もう一度腕時計を見る、九時十四分、十三時の発表まで時間はまだじゅうぶんある」


 左手を下ろした時彼は窓の外に気を取られていたと供述している。ごく小さな確率が重なったに違いない。畢竟主体や自由、愛には絶対に越えられない現実制約があるのだ。


「ぼくが左手を下ろした瞬間、隣の女が声をあげた。『シ・エス・フィスティーユ!』そう言って私を指差す女はのっぺらぼうで、髪は異常に長く、口すらない顔のどこからかその声を発していた。『シ・エス・フィスティーユ!』あたりの男たちが唱和する。『シ・エス・フィスティーユ!』のっぺらぼうの男たちが、ぼくを捻り上げ、電車から引っ張り出す」


 彼の自由の危機に当たって彼は無力であった。彼はなすすべもなくその自由の犯しがたい高貴が現実の醜悪な客観性に侵犯されるのを、不安の暗示する災厄の実現するのを、座視するより他になかった。


「ぼくは不自由だった、ぼくのすべての意志は鉄の壁に跳ね返され、その冷酷な現実(これは冗語であるとぼくは気づいた)のもとで無残に四散した。その『かつて自由だったもの』を見つめてぼくは苦しんだ」


 支配的な交換様式としての国家の収奪は畢竟熱力学的極限における最大収率を志向するものであり、個々の微視的・顕微鏡的な幸福は議論の埒外にある。国家は奪うだろう、君を殺すだろう。君の愛を陳腐化し、君の理想を砕き、君の至高の望みすらも欲望の淫らな姿に変えてしまうだろう。全ては全体性の枠内で進行し、その戦争状態という名の秩序は世界帝国によってローマの平和を宣言する。ユダヤとカルタゴの血潮の上で。


「ぼくは抗弁した、顔のない男たちに向かって自己の潔白を訴えた。ぼくの特権的な世界概念は、しかし、彼らの眼差しのもとで一個の環世界に堕した。ぼくは自己の利益のために主張するエージェントとしてこのゲームに参加しているだけなのだと、のっぺらぼうが言った。ぼくは窓のない箱に閉じ込められた」

 

 この不快な密閉空間の中で、外で、あるいはその境界で、同時生起的に人生は進行しているのに、この空間に閉じ込められた私は高々収束列の極限として境界に達するのみでその向こうへ、物たちの住まう世界へ超越できず、孤独な主観性の悪夢の中で一切のすべきことを欠いた自由そのものとして腐敗していく。その腐臭そのものすらも、充満した空間の中から炸裂することなくただ滞留し、認識不可能な環世界として私の認識を条件づける土台となる。


 ぼくはため息をついてスマホを置いた。インデントを使うことで階層を下げてゆき、深みに至った後は浮上して最後に最初と同じ文章に行き着くアイデアはなかなかのものだが、緊迫感が伝わる文章になっているかどうか、不安だった。不安か。この掌編のテーマと同じだな、と気づいて、ぼくはつくづく不安というものが好きなのだな、と自己分析的な感想を抱いた。




   四



 ぼくたちは御茶ノ水のひかるのアパートにいた。学士会館でのお茶から一週間後の夕方のことだった。彼女はいつになく落ち込んで見えた。外は雨であったが、小さなアパートはオレンジ色の照明のおかげでとても暖かい感じがした。食事の後、まだ就寝には早いのに歯を磨いた彼女を見て、ぼくも黙って歯を磨いた。この暗黙の符丁に興奮したぼくがその形のいい顔にそっと手を添えてキスを求めると、彼女は伏し目をつと上げて、ぼくを覗き込んだ。眠れないの。そう呟く彼女の唇を奪い、ベッドに押し倒す。ぼくもだよ。そう言って、彼女の頬を撫でる。長い黒髪が白いシーツの上で妖艶に光っている。その生え際のたっぷりした光沢がオレンジ色の蛍光灯を照り返しているのを見て、ぼくの心は予感に打ち震えた。それは何の予感だったろうか? 欲望への渇望。愛欲への愛。あるいは、人生への、システムの全体性への抗議? 丈長のワンピースに包まれた柔らかな肢体をベッドに委ねて、なすすべもなくぼくを見つめて放心するひかるを愛撫しながら、ぼくは自分に言い聞かせるように言った。人生はきっと、いつか終わりの来ることを知っていても生きて、前を向くしかない場所なんだ。ぼくたちは死ぬだろう。内務警察に逮捕されるだろう……他ならぬ自由が、人間性が、高貴が、不自由に、非人間性に、卑属に、その可能性において侵食されている。そういった可能性があることそのものが、その大きさに関係なく、人生を台無しにしているのだ。

 そう言いながら、ぼくはひかるの背中に手を回してワンピースのボタンに手をかけた。自然、彼女の体が首と腰を支点に浮き上がり、その形のいい胸の膨らみが、落ち着いた藍色の布地越しにぼくに向かってせり上がった。ぼくはボタンを外したその手でその愛すべき膨らみを優しく揉んだ。彼女の身体の一番柔らかくて温かい部分を、この手でそっと包み込んだ。二人だけが知っているリズムで、彼女の乳房を優しく愛撫する。ひかるは潤んだ目でぼくを見つめて、荒い息をしていた。細身の長いワンピースから投げ出された二本の脚も、あらわになった二の腕も、羞恥に紅く染まった頬も、この先に待ち受ける快感の予兆に打ち震えている。

 ぼくは彼女をそっと起こして正座させると、そのワンピースを彼女の頭の方から引っ張って脱がせた。太ももの白い肌があらわになって、白い薄手の下着に覆われた上半身がぼくの方に倒れ込む。ぼくを下から覗き込む形になった彼女の体を、優しく抱きとめて、ベッドの上に押し倒しながら、ひかるの髪の甘い匂いに顔を埋めた。ぼくたちはいつか死ぬのだと、その時、ぼくははっきりと悟った。

 これから何が行われるか知悉している男女の対として、ぼくたちは拭いがたい背徳感のうちに、死との対比による新しい快感を覚えた。男女の営みは、自分がいつか死ぬこと、死んで一度きりの人生を終え、非存在に帰ることへの抗議である。この自己意識が、この半透明なドームが、この世界全体と対峙し、その重みを支えるアトラスが、水辺の葦のように無残に死んでいくことへの異議申し立てである。それ故にその行為の至高の快感は、死の将来的な存在から引き出される。

 生の若さにあふれたひかるの身体をその薄い下着越しに見つめながら、程遠く思える死を担保に、この女体の美を借り受けること、ぼくは熱した頭でその罪と贖罪を思った。彼女の豊かな胸が苦しそうに上下してぼくを呼ぶ。その熱した目がぼくを見つめて揺れている。きっと仕方ないんだ。思わず声に出たその言葉に彼女は不思議そうな目をした。きっと、侵された現実のまどろみこそが現実で、いつか訪れる不条理な終わりを、別れを、冷厳なのに理性を欠いた裁きに自由を奪われることを、知っていながら今を生きるしかないんだ。あのサラリーマンのように、ぼくらもきっといつかは、そうやって幸せから切り離されるんだね。そんな不吉な言葉の残酷さに身震いして、ぼくは彼女の唇を求めた。溶け合う口を離した時、ひかるが口を開いた。いつか離れ離れになるとしても、将来の別れを気に病んで今の幸せをを無にするのは、きっとよくないわ。そう言って彼女はベッドから身を起こすとぼくの唇を求めた。そうして口づけたまま、彼女はぼくの背中をぎこちなくさすった。長いキスを終え、唇を離して彼女を見つめた時、ぼくは彼女の白い下着の肩紐が外れて、胸の優しい膨らみが覗いているのを見た。その柔らかな曲線を、その白い肌を、煌々とした明かりのもとで目の当たりにした。ぼくはひかるの何か訴えるような目を見た。その目は、このまま続けることを欲する熱に潤んでいる。

 ひかるは事の最中にも明かりを消さない女だ。ぼくは今まで気にもとめなかったその事実が、実は世にも稀な僥倖なのではないかと思った。彼女を横抱きにしながらその震える胸に触れ……ぼくは理性の矩を越えた。

 外では雨がしとしとと降っていた。


 ***


 翌朝目が覚めると、ひかるはぼくの傍ですやすやと眠っていた。事が済んだ後の物憂い満足の中で、ぼくの腕に頭を預けて微笑む彼女の髪を撫でながら、ぼくは頭の中でエルガーの交響曲第一番第三楽章がそっと流れるのを感じた。それは誰にも愛でられることがないと知りながらも精一杯に天空を目指す草花の芽吹きのように、ぼくの心を満たしていった。幸せとはこういうものなのだろう。心地よい布団の重み。隣で寝息を立てるひかる。昨日の雨が嘘のように、窓からカーテン越しに満面の笑顔を見せる太陽……。

 ぼくが朝食を作っていると、いつのまにかピンクの薄い部屋着に着替えたひかるが寝ぼけ眼のままキッチンへやって来た。あくび混じりの声でおはようと言うのは、彼女なりの照れ隠しだ。そんな彼女が愛おしくて、ぼくはわざと気づかないふりをする。眠そうだね。ぼくはそう言いながらフライパンのベーコンをかき混ぜた。清顕(きよあき)が寝かせてくれないんだもん。そう言って少し口を尖らせる彼女に、五回目は君がねだったんだよ、とリマインドしてあげると、彼女は首筋まで赤くなってぼくの背中をぽかぽか叩いた。いいじゃないか、一晩に五回もできる男なんて、この歳ではそうそういないよ。そう言ってさらに煽ると、彼女はばか、もう知らない、と言って向こうを向いてしまった。ぼくは素知らぬふりをして食事をよそうと、赤い顔をして下を向いているひかるに、早く座らないと全部食べちゃうぞ、声をかけて宥めた。彼女はいつものようにすぐ機嫌を直して、美味しい美味しいと言いながらぼくの作った朝食を食べた。




   五



 平穏な日々はそのまま数週間続き、ぼくとひかるは逢瀬を重ねながらそれぞれの大学に通って勉学に励んだ。いや、ぼくはそう思っていた。そして、ひかるの異変に気づけなかった。ベッドでぼくを求めるその激しさに、いつも眠そうなくせにこだわりが増えたところに。彼女はぼくにはいつも通りに見えたのだ。

 だから、十月のある日、病院から電話がかかってきたときには心底驚いた。ひかるが川で溺れて搬送された、という医師の言葉にぼくは危うく電話を落としかけた。病院へ駆けつけるぼくの脳裏に、自殺未遂ではないか、という考えが浮かんだのは、後から考えればある意味不幸中の幸いだった。

 江東区にあるその病院で、ひかるはベッドに寝かされたまま弱々しく微笑んでぼくを迎えた。ぼくは努めて平静を装おって、いやあ、びっくりしたよ、ドジだなあ、と快活に言った。その言葉が白々しく聞こえるくらい静かな病室で、彼女がうふふと笑う。少し時間が流れて……ぼくはどう切り出したものか途方にくれた。この相互欺瞞を抜け出して、彼女の魂に語りかけるべきだった。ぼくは手汗をズボンで拭いながら、しかし、暑いね、とありきたりの言葉しか言えなかった。

 ごめんね、私、自分で飛び込んだの。そう言って二人を隔てる殻を破ったのはひかるだった。ぼくは自分の顔から表情が消えていくのを感じた。うん、そうだと思った。ぼくはそう言って、布団の上でいつのまにか組み合わされた彼女の手を取った。とても冷たい。ぼくはそのとき初めて部屋が初秋の寒さに包まれていることを知った。言葉の海がピタリと凪いで、言うべきことを失ったぼくはただただ彼女の手を握って泣いた。

 彼女は、統合失調症だった。


 ***


 がらんとした病院の総合受付で、ぼくはひかるの手を握ったまま、泣き続けた。そんなぼくを見かねたのだろう、ひかるが何か言うのが聞こえた。はじめその言葉は焦点を結ばず、ぼくの前頭葉を無意味に漂っていた。ワタシタチワカレマショウ……ぼくの脳がそれを適切に変換するのと、ぼくが叫ぶのは同時だった。嫌だ、と。あたりにいる人がこっちを見て眉をひそめている。ぼくは彼女を睨んだ。君がどうなってしまったのか、なぜ自分を傷つけるのか、ぼくは知らない。でも、ぼくは君を守る。それが厄介でも、嫌でも、ぼくはあの世の果てまで追いかけてでも君を守る。それを聞いて彼女は曖昧に微笑んだまま、向こうを向いた。ぼくはそのまま彼女が消えてしまいそうに思えて、必死に手を握った。彼女は振り向かなかった。ぼくの口から、歔欷の声が漏れた。許してくれ、すまない、ぼくが悪かった、そう繰り返しながら、ぼくは自分より小さい、傷ついた彼女に泣きすがった。

 気がつくと、彼女がぼくの頭に手を置いてそっと撫でている。ぼくは目を上げ……彼女の目から溢れる涙を目の当たりにした。初夜にも見せなかったその涙は、彼女が耐えてきたすべてを物語っていた。ぼくはそのすらりとした体をかき抱き、その流れるような長い髪を、何度も何度も撫でた。病院でシャワーを使ってきた彼女は、いつもと違う香りがした。その香りが突きつける不穏な現実の中に、常変わらぬものを見出そうとしてぼくは彼女を強く抱いた。離さないから。もう離さないから。そう繰り返しながら、ぼくは冷え切った彼女に自分の体温を与え続けた。本当は自分がその小さな消えかけの温もりに依存していることを、誰よりも知っていたから。




   六 



 ぼくたちはすぐに大きな壁にぶつかった。軍事政権下で、精神病患者への医療行為は三十年分近く後退していた。それだけではない。この時代、精神病と診断されることは直ちに社会的地位の喪失を意味した。最悪の場合、優生保護法の規定で強制手術になる。幸い医師は理解のある人で、ひかるの診断結果をぼくたちだけに伝えて、焼却処分にしてくれた。問題は薬だった。裏ルートで出回っている抗精神病薬は危険すぎたし、だいいち高すぎた。ぼくは医師の紹介で革命前からの在庫がある三鷹の薬局に行き、身分を偽って抗精神病薬を購入した。レキサルティというその錠剤は、革命前の価格で一ミリグラム二百円以上したが、今はその五倍の価格だった。当然ながら公的保険は効かない。ぼくは在庫がなくなるのを怖れたが、とりあえず四週間分だけ買った。

 三鷹からの帰り道、ぼくは彼女と一緒に中央線の特別快速に乗って窓の外を眺めていた。暮れかけの空は西の方が紅く染まって、まるで大気が燃えているように見えた。ひかるの方を見ると、彼女は子供のように座席に正座して窓に額をつけ、夕日の方をじっと目で追っている。あの日からひかるは子供っぽい仕草や話し方を頻繁にするようになった。錠剤の値段は、彼女には言っていない。この様子だと、言っても危機感を共有できたかどうか。そのことに思い至ってぼくは急に心細くなった。彼女の幼い表情を見つめる。その澄んだ瞳に夕日が映っているのを見たとき、何故だろう、ぼくは自分が今までいかにひかるに頼りっきりだったかに、やっと気がついた。夜の営みや朝ごはんを作ること、金銭的に彼女を支えていることに驕って、彼女に依存している現状から目を背けていた自分が、急に恥ずかしくなった。大丈夫だよ、ぼくがいるから。口を突いて出たその言葉に、ひかるは不思議そうな顔をして、少し笑った。


 ***


 幸いひかるの症状にレキサルティはよく適合したので、ぼくは一年分買う決意をした。在庫は取り決め通り、秘密の合言葉を書いた手紙で予約した。三日後、予約の準備ができた旨電話が入ると、ぼくは札束を持って三鷹へ向かった。今度は一人で行った。ひかるは家で待ってるよ、大丈夫、と言った。連れていけない理由は札束を見せたくない以外にもいくつかあったが、言わないでおいた。家を出て銀行で預金をありったけ下ろしたあたりから、ぼくはすでに不安になっていた。三鷹に着いて、約束通りひかるにメッセージを送る。返事はすぐに返ってきた。ひとまず安心だ。ぼくは薬局に行って、レキサルティ一ミリグラム八百錠を百万円以上で買った。軽くなった財布と重くなった鞄を抱えて三鷹駅まで帰るバスの車内で、ぼくは二回目のメッセージを送った。返事は返ってこなかった。

 ぼくは焦って、三鷹駅に着くとすぐ電話をした。着信音が鳴るばかりで、何も起きない。ぼくは何度も電話をかけたが、結果は同じだった。特別快速に乗ってひかるのもとに急ぎながらも、ぼくは不安で胸がつぶれそうだった。新宿を過ぎると電車はとても混み始めた。ぼくはスマホを取り出そうとポケットに手をやり……隣にいた軍属の脇を肘で突きそうになった。軍属がぼくの腕を捻りあげるのと、ぼくがしまったと思うのは同時だった。

 その後のことはあまり覚えていない。駅員が来てホームに連れ出されたこと、まだ二十才くらいに見えるその軍属が何か言ってぼくを指さした動作、警察官が来るまでの耳がじんじんいうほど長い時間。ぼくは鞄の中身を待ちわびるひかるのことを考えて、自分の絶体絶命に思い至った。こんな大量の抗精神病薬を持っているのがばれれば、もう家には帰れないだろう。幸い、身分証の類は持っていなかったから、スマホを処分すればひかるに累が及ぶことはない。でも、薬もぼくの助けもなしに彼女が生きていけるだろうか。そんなことを考えていると、ぼくの目の前に別の中年の軍属が現れた。この人、何もしていないよ。その男はぶっきらぼうに警察官に言った。

 ぼくははじめ、何が起きたのか理解できなかった。そして、天佑のようなその言葉が、ぼくを自由にして初めて、ぼくはその意味を知った。ぼくはぶつぶつ言っている若い軍属と、それをなだめる警察官たちに背を向ける気になれず、そっちを横目で伺ったまま中年の軍属に礼を言った。その男は気をつけて帰りなよ、と言ってぼくの背中を叩いた。

 御茶ノ水の彼女のアパートについた時には日は沈んでいた。ぼくは走ってアパートの前まで来て、息を飲んだ。ひかるが、心配顔でアパートの前に立っている。その時ぼくは自分がスマホを確認していなかったことに気づいた。ごめんなさい、私うとうとしちゃって。そう言って涙目になる彼女を抱きしめながら、ぼくは精一杯の笑顔を作ると、こっちこそごめん、駅で事故があってね、でも大丈夫、と言った。

 冬の大気がひかるを押し包んで凍えさせる前に、ぼくたちはひかるのアパートに入った。そこだけは平和で、暖かくて、ひかるの準備した夕食を食べながら、二人で幸せな気分に浸った。あたりにひしひしと押し寄せる暗い現実の影を、見ないように気をつけながら。




   七



 それから数日は何も起きずに過ぎた。ぼくはひかるを家に置いて大学へ行っても大丈夫だろうと思った。ひかるはおとなしく言うことを聞いて、家で待ってる、何かあったら電話する、一人で家から出ない、と約束した。

 自転車で久しぶりに大学の研究室に向かう道すがら、ぼくはひょっとするとこの先もこうやって生きていけるかもしれない、思ったほど悲観する必要はないかもしれない、などと考えていた。二十一年の学生反革闘争、通称赤門事件で焼け落ち、ようやく再建されたばかりの赤門をくぐって、キャンパス内に入る。午前十時を回った大学の構内はいつものように静かで、気分が落ち着いた。冬に入りつつある空はまだ秋の名残を残して高く、金色の落ち葉が褪せた青空を舞っている。

 ぼくの研究室は工学部の六号館にある。第二次大戦の前からあるこの建物は、苔むした煉瓦造りの正面を広場に向けている。背後には現代的な造りの二号館が聳えていたらしいが、赤門事件の引き金となった同時多発テロ事件で破壊されて、後に解体された。ぼくが駒場から本郷へ来た頃には、あらかた撤去されていたので記憶はほとんどない。跡地では今でも、直径一メートルはある巨大な丸い鉄パイプが宙に向かって斜めに突き出しているが、元からあんなに傾いていたのだろうか。

 そんなことを思いながら六号館に入り、二階の研究室に向かう。結城教授室、と書かれた部屋の向かい、建物中央の中庭に面して学生部屋がある。ここには車田研究室と山城研究室の学生もいるので、全部で五人の学生がいる。その中の一人、安斎という博士三年の先輩がぼくを見てちょっと顔を上げた。他の学生はまだ来ていないようだ。

「ああ、小川くんか」

「おはようございます」

「結城先生が心配していたよ、小川くんが最近元気ない、って」

 そう言う安斎さんも心配そうだ。やや太った彼は夏になるといつも汗をかいていて辛そうだが、冬は冬で寒そうで、足温器をつけている。ふと、ぼくは安斎さんが昔何かの薬を飲んでいたことを思い出した。

「安斎さんって、何か薬を飲んでいましたっけ」

 安斎さんの呑気そうな顔にはっきりと恐怖の表情が浮かぶのを見て、ぼくは後悔した。

「誰に聞いた?」

「いえ、たまたま見てしまって……すみません」

「いいよ」

 そういうと、安斎さんは廊下を伺って聞き耳を立てた。そのまま立ち上がってドアを閉めると、ぼくに向き直って呟くように言った。

「ぼくは統合失調症なのさ」

 ぼくは驚いた。目の前の安斎さんはいつものように薄いベージュのスラックスを履いて、青っぽいカッターシャツの上に紺のセーターを着ている。眼鏡の奥で揺れる目は不安そうで、大阪訛りの大声で話す普段の姿とは対照的だった。

「ぼくの……ぼくの彼女もそうなんです」

「そうだったのか。薬は?」

「レキサルティです。一ミリグラムを二回」

「ぼくと同じだな」

 それから安斎さんはひかるの症状を詳しく聞きだした。詳しく、と言っても、ぼくにはひかるがいつも眠そうだということ、子供っぽい言動が増えたことしかわかっていなかった。

「君には想像できないかもしれないけれど、君の彼女はすごく不安だと思う」

 大丈夫ですよ、毎日ちゃんと見てますから。そう言うぼくに、安斎さんは悲しげな目を向けた。

「君がいなくなること、君が彼女を好きじゃなくなること、君が彼女のせいで傷付くこと。そんなことはありそうにもない。でもね、精神病患者にとってそれらは現実の脅威なんだよ」

 ぼくは何も言えずに黙っていた。

「そもそも、彼女はなぜ発症したのか、考えたことはあるかい?」

 ぼくもずっと同じことを考えていた。でも……。

「考えましたが、わからずじまいです」

「機会があったら聞いてあげなさい。相手の言うことに意見を差し挟まずに、手を握ってひたすら聞いてあげるんだよ、いいね」

 それから安斎さんは怒ったように付け加えた。

「君は何があっても彼女を守るんだ。彼女がぼくのようになる前に」

 どういう意味か聞きあぐねて曖昧に微笑むぼくに、安斎さんはちょっと躊躇ってから訊ねた。

「君が読んでいたあの文芸誌に、『光』という短編があっただろう、君は読んだかな?」

 ぼくは、読みました、内容もはっきり覚えています、と言った。

「あれはね、ぼくが書いたのさ。安心院はぼくだ」

 その言葉を聞きながら、ぼくは気が遠くなるのを感じた。いつの日だったか、自殺を遠い世界の話だと思ったことがあった。そんな自分が、ひどく悲しかった。




   八



 家に帰るころにはぼくは不安になっていた。ひかるの身に何かが起きようとしている気がした。ぼくは電話をかけるのをやめにして、その分早めに研究を切り上げて自転車で家に向かった。本郷のぼくのアパートはもうすぐ引き上げるので、ほとんど空っぽだ。つまりぼくは計画より少し早くひかると同棲しているわけだ。御茶ノ水のアパートに着いて、自転車を駐輪場に置く。階段を上がって三階に着く直前に、同じ階の住人とすれ違った。確か御園と言ったか、いつも帽子を目深にかぶって俯いて歩くその男には、どことなく不吉な雰囲気があった。一度、ひかると手を繋いでアパートの前を歩いていると、血走った目で睨まれたことがある。ぼくは考えすぎだと自分に言い聞かせながら、はやる気持ちを抑えてドアを開け、ただいまと言った。返事は、なかった。


 ***


 ぼくは慌てて靴を脱ぐと、部屋に駆け込んだ。小さな廊下の左側つまり建物の北側にはトイレと風呂、キッチンがある。右側は二人の寝室と居間。ぼくはまず居間を覗き、それからキッチンを覗き、最後に寝室を開けた。寝室の床に布団が置いてあって、その下に何かが潜って震えていた。ひかるだ。

「ひかる! 大丈夫!?」

 ぼくは驚かさないように布団をそっとめくった。ひかるは泣き濡れた目でぼくを見上げて、一瞬息を止めた。今気がついたが、彼女の周りにはコピー用紙を千切ったものが山のように積み上がっている。紙切れに半分埋もれて、ぼくが駒場で使っていた統計学の教科書が置いてあった。

「どうしたの? 怖い夢でも見たの?」

 そう言いながら彼女の手をとって立たせる。

「……あなたが、きよあきがしんじゃうの」

 安斎さんの言葉を思い出さなかったら、その幼い言葉を言下に否定したと思う。ぼくは彼女を立たせて服についた紙切れを払うと、

「お姫様抱っこしようか?」

 と提案してみた。ひかるは返事の代わりにぼくの首に手を回して、頭をもたせかけた。長い髪はいつもの匂いがして、不思議と気分が落ち着いた。ぼくは彼女を抱き上げて、ゆっくり体を揺らしてあやしながら、キッチンに連れて行った。そのまま椅子に座る。よっこいしょ、と掛け声をかけるぼくに、いつものように口を尖らせない彼女は、きっとすごく疲れて不安なのだ。そのことに思い至って、ぼくは彼女をぎゅっと抱きしめた。

「ひかるちゃんはいい子、いい子、ぼくの大事なお嫁さん、きっと幸せにするよ」

 昔戯れに作った子守唄を歌うと、彼女はぼくの手をぎゅっと握ってぼくを覗き込んだ。その目が涙に濡れて揺れているのを見て、ぼくは何が起きてもひかるを守ると改めて心に決めた。

「続きは?」

 ひかるがねだる。ぼくは即興で続きを歌った。

「ひかるちゃんはいい子、いい子、ぼくの大事な奥さん、ずっと一緒にいるよ」

 そうやって彼女をあやしながら、ぼくはその顔にかかる髪をそっとかきあげて、その涙を拭った。

「ほら、きれいになった」

 ひかるは子供のように微笑んだ。落ち着いた表情を見せた彼女をそっと撫でながら、ぼくはためらいがちに切り出した。

「今日は怖いことがあったんだね? 話してくれる?」

 ひかるの身体が硬く強張るのがわかった。涙が再び溢れて、ひかるの頬を伝った。

「あのね、わたし、清顕が捕まるのが怖くてたまらないの。この間みたいに。それでね、清顕が電車で捕まる可能性を計算してたの」

 なるほど、それで統計の教科書か。でも、ひかるは国文学科だし、大学も違うから、そもそも統計なんて勉強したことがあるのだろうか? そこまで考えて、ひかるはそれほどまでに不安だったのだ、と気づいた。不得手な数学の本を引っ張り出してぼくがいなくなる確率を計算するほど、怖かったのだ。ぼくは自分の膝の上で小鳥のように震えるひかるを今一度ぎゅっと抱きしめて、その耳元に囁いた。

「ありがとう、大好きだよ」




   九



 ぼくはそれから数日、大学を休んで家で過ごした。ひかるはだんだん落ち着いてきて、よく眠れるようになった。三日目の昼下がりにぼくはひかるを長めの散歩に連れ出した。電車が空いている時間を見計らって地下鉄で日比谷公園まで行き、二人で公園の中を歩き回って最後にベンチで日向ぼっこをした。十一月とはいえ、晴れた日の昼は暖かくて気持ちよかった。ひかるは、あの日ぼくがベッドで脱がせたお気に入りのワンピースを着ている。その藍色の生地を見ていると、なんだか気分が高揚した。家に帰ったら、ひかるをぎゅっと抱きしめてキスをしよう……。

 十一月の日暮れは早い。つるべ落としの太陽に負けないようにぼくたちは帰途についた。近所のスーパーで買い物して帰るぼくたちの横を、御園が相変わらず帽子を目深にかぶってすれ違った。何かぶつぶつ独り言を言っているようだ。ひかるが怯えてぼくの腕をぎゅっと抱く。ぼくは御園が不恰好に歩きながら遠ざかっていくのを横目で見ていた。と、アパートの角から竹田さんが出てきた。おしゃべりで気のいいおばさんで、同じアパートの二階に家族で住んでいる。

「あら、清顕くんとひかるちゃん、こんにちは。いい天気ね」

「こんにちは、竹田さん」

 ひかるが笑顔になる。

「あら、御園さん、また独り言言ってるわね」

 そう言うと、竹田さんは声を低めて言った。

「御園さんもね、東大生だったのよ」

 ぼくはひどく驚いた。竹田さんは構わず続ける。

「昔は明るい、爽やかな方でねえ。いつも挨拶してくれたわ。でも赤門事件の摘発で恋人を亡くされて。すっかり変わってしまったのよ。彼女さんもきれいな方だった」

 竹田さんは珍しく意気消沈してため息をついた。気まずくなった空気を察して、竹田さんは話頭を転じた。

「ごめんなさいね、湿っぽい話で。今日の晩ご飯は何にするつもり?」

 カレーです、ぼくが当番なので、大したものは作れないんですが。そう言って頭を掻くぼくを見て、竹田さんは、幸せにしてあげなよ、と言った。




   十 アシェンデン



「用心しておくに越したことはないからな」と、彼は言った。


モーム『アシェンデン』中島賢二・岡田久雄訳



 ……つまり、カント以降の相関主義は超越論的主体の誕生以前の現象に関する科学的言明と矛盾する、というのがメイヤスーの立場です。彼はその著書『有限性の後で』の中で……

 ぼくははっとして顔を上げた。教壇では文学部の八重洲崎先生が一字一句はっきり入ってくる独特の調子で現代西洋哲学の講義を進めている。まだ三十代後半の先生は文学部最年少の教授で、東京大学全体でもかなり若い方だった。くしゃくしゃのくせ毛を雑に撫で付けた先生は、一息置くと眼鏡の奥のきらめく眼で教室を眺めた。一瞬、その目がぼくをじっと見たように思えた。先生は内務警察に目をつけられているという噂だったが、その目はそういう些事を超越しているようにも見えた。

 工学系研究科で物性物理の研究をするぼくが文学部の授業を取るなんて酔狂を起こしたのは、八重洲崎先生の著書を読んだからだ。先生には訳書が数冊と著書が三冊あったが、そのうちの一冊、新書の『現代哲学の射程』を読んだぼくはその壮大な体型知に打ちのめされたのだ。いつもは集中して聞いているこの講義にも、しかし、今日は全く身が入らなかった。

 不意に八重洲崎先生が講義の終わりを宣言した。ぼくは慌てて先生の方を見た。先生はぼくを見ていた。今度は間違いない。ぼくは何か言おうとした。先生は少し微笑んで、ぼくの方に歩み寄ると、何か悩み事かな、と訊いた。恋人が病気で、すみません、あまり集中できなくて。ぼくは言いながら自分でも驚いた。先生の目には、本音を言ってもいい、この人になら事実を言っても大丈夫だ、と思わせるだけの何かがあった。先生はそっと頷くと、それには触れずに、君のレポートを読んだよ、とだけ言った。少し話したいから、ついて来なさい。


 ***


 八重洲崎先生の研究室は、法文館の二階にあった。ドアを開けてぼくを招き入れると、先生は即座にコーヒーメーカーをつけた。豆を挽く大きな音がして、十畳少しの部屋に充満した。部屋は三面書棚で覆われていた。先生はそのうち一つに歩み寄ると、本を一冊出してぼくに渡した。岩波文庫の『アシェンデン』モーム作。先生はその八十五ページを開いて、ぼくに見せた。三行目に鉛筆で傍線が引いてある。


「用心しておくに越したことはないからな」


 その文を読んで、ぼくは噂が本当だったことを知った。


 ***


 八重洲崎先生は、私はコーヒーは飲まないのだが、君は飲むかね、と訊いた。私も飲みません、というぼくに、そうだよなあ、と言いながら先生はコーヒーを淹れて、自分の分もカップを持ってきて、机に置いた。飲まなくていいよ、という先生に、頂きます、と言って形だけ口をつける。先生はぼくのレポートを持って来て、赤字で書いたコメントをいちいち見せながら、ここはこう、これはこれでいい、などと声だけ聞いても意味の通じないことを言った。合間合間に、筆談で要所を聞いてくる。それはレポートに書いた、社会の不正を糾弾する内容についてだった。

「君は、こんなことを書くべきではない」

 ぼくも筆談で返す。

「なぜですか?」

「君の恋人のためだ」

 ぼくは唸った。先生が畳み掛ける。

「彼女は病気なんだろう? 君がいなくなったらどうするのかね」

「先生は、でも、戦っているじゃないですか」

「私が?」

 先生は意外そうにぼくを見つめた。その目には一点の皮肉もなかった。

「私には、君のような勇気はない。私は臆病だ。君にもいつかわかるだろう」

 そう書きながら、先生は悲しげに窓の外を見やった。ぼくもつられて外を見る。銀杏並木が色づいて、落ち葉が数枚舞っている。

 先生は、君の恋人にあげなさい、と言って蜜柑を出して包んでくれた。ぼくは礼を言って、先生の部屋を出た。




   十一



 ひかるのアパートに帰ると、様子がおかしかった。電気が消えたまま、スマホも机の上に置いたままだ。ひかるは大学を休学していたから、行くあてもないはずなのに。ぼくは家の中を探し回った。ぼくが今のアパートを引き払ったら二人で住むために借りたアパートとは言え、そんなに広くはない。ぼくは途方にくれた。そのとき、彼女の行きそうな場所が二ヶ所だけ頭に浮かんだ。ひかるの親友の千賀子の所か、いとこの栗原のところだ。ひかるは栗原とはそんなに仲が良い訳ではないが、ひかるの両親はすでに亡くなっているので、親戚の栗原家を頼った、ということは十分に考えられた。ひとまずぼくは千賀子に電話した。はじめ電話は留守電になった。ぼくは即座に切って、もう一度かけた。今度は通じてほっとしたぼくは、もしもしも言わずに、千賀子……真栄(しんえい)さん、小川です、清顕です、ひかるを見ていない? と尋ねた。千賀子が息を飲むのが聞こえた。小川くん? ひかるは見てないわよ。どうしたの? もう一ヶ月も学校に来てないし、休学したって一昨日言ってたから、心配してたのよ……ぼくは気落ちして、ひかるは病気で休んでいる、今目を離したら書き置きも無しでいなくなった、もし連絡があったら教えてほしい、と言った。

 ぼくは気が沈んで、栗原に電話する気になかなかなれなかった。やっと気力を振り絞ってかけた電話は、手の中で小刻みに震えた。電話はすぐに通じた。栗原さん? ぼくの問いかけに、栗原は思わせぶりな間をおいて、小川くん、久しぶりね、と言った。別れてもう三年なのね。寂しかったわ。ぼくは息苦しい思い出に喉がからからになった。栗原さん、すまない、君のいとこが行方不明なんだ。いとこ、ね。栗原はゆっくり間をおいた。一条さんなら居るわよ、ここに。ぼくは驚きのあまり声を上げた。ひかると替わってくれ、元気なのか、なぜそこに? 矢継ぎ早にいうぼくに、栗原はのんびり言った。話したくないって。小川くんがここへ来なさいよ。ぼくは、ここで争っても意味がないと思って、今から行く、と言うと電話を切った。


 ***


 栗原は豊島区に親と住んでいる。ぼくは三年ぶりにその門をくぐって、チャイムを鳴らした。栗原はすぐに出て来て、どうぞ、親はいないわ、と言った。ひかるを探してきょろきょろするぼくをじっと見つめる栗原は、どこか怒っているように見えた。ひかるはどこ? ぼくがそう聞くと、栗原はふんと鼻を鳴らした。いるわけないでしょ、小川くん、あなたは振られたのよ、相変わらず馬鹿なんだから。ぼくは呆然と立ち尽くした。騙したのか、そう問うぼくに、栗原の怒気を含んだ目が迫って来て……栗原はぼくにキスをした。ぼくは呆然としたまま、三年ぶりに交わすキスに無意識に応えていた。ねえ、小川くん、私ともう一回やり直さない? そう言いながら、栗原はぼくの手を取って自分の胸に当てた。ぼくはなすすべもなく、されるがままだった。最後に一条さんと寝たのはいつ? そう聞きながら、栗原は熱っぽい目でぼくを見た。ぼくは何も言えずに、栗原を見つめ返した。その目には熱い欲情がたぎっている。その欲情が栗原の両目に映るぼくのものだと気づいた時、ぼくの中で何かが弾けた。ぼくは栗原をソファに押し倒して、その唇を貪る自分を、自己の眼前にありありと見た。その影を追うことを躊躇するうちに栗原がぼくの腰に腕を回してきた。その淫らな誘惑に、その燃える吐息に、その背徳の香りに頭がくらくらする。このまま進みたい欲求と逃げ出したい思いの狭間で身動きできないぼくの背後で、突然、ドアが開いた。

 傷ついた顔のひかるがそこにいた。


 ***


 待ってくれ、そう叫ぶぼくを睨んで、ひかるは部屋を飛び出した。追いかけようとするぼくを栗原が掴んで離さない。裕美、何をする、離せ、ぼくは喚いた。栗原は薄く笑って、やっと名前で呼んでくれた、と言った。呆然として見つめるぼくの前で、栗原は勝ち誇った笑みを浮かべた。私を振ってあんな女と付き合うからよ、罰だわ。何よ、理想のカップルみたいな振りして、反吐がでる。でもいいわ、せいせいした。一条の顔見た? もうあんたたちも終りね……。

 ぼくは床に膝をついて手で顔を覆った。惨めだった。


 ***


 大塚駅へ向かう道すがら、ぼくはひかるは今どこで泣いているだろう、とぼんやり思った。自分には彼女の横にいてなぐさめる資格も権利もない。そう思うと、涙で目が霞んだ。ぼくは妙に冷めた頭で千賀子に、ひかるは見つかった、詳しい話は後で、と送って天を仰いだ。

 駅に着いて北口からコンコースに入ると、地図の前に手持ちぶさたな様子のひかるがいた。ぼくは我が目を疑った。ひかるはぼくに気づくと、ちょっとためらった後、ちょこちょこと走って寄ってきて、ぼくを見上げた。言いにくそうにしている彼女を見ていると、資格とか権利とか、どうでもよく思えた。ぼくは、やっぱり君がいいんだ。そう言ってぼくは彼女をおずおずと抱き寄せた。ばか。彼女はそう言って、ぼくの背中を拳でぽかぽか叩いた。あたしのばか。彼女はそう言うと、ぼくから身を離して、じっとぼくの目を覗き込んだ。ごめんなさい、私のせいなの。彼女は驚くぼくの目の前で、訥々と話しはじめた。私ね、ずっと不安だったの、清顕がずっと私のこと好きでいてくれるか。本当は私なんかいない方がいいんじゃないかって、ずっと怖かった。それで試したの、私がいなくなったら、すぐに探しに来てくれるか。でも、あんな事になるなんて。いつのまにか涙に濡れた目を必死に見開いて、彼女は、あなたを裏切ったのは私なの、と言った。

 さめざめと泣く彼女を抱きしめてその頭を撫でながら、ぼくは、君は悪くない、怖い思いをさせてごめんね、と繰り返した。そうやってぼくは、ひかるが目に見えない何かと必死に戦っている間、ずっとその小さな震える体に自分の体温を与え続けた。

 愛とは不思議なものだ。肌を重ねるのはきっと、愛にとってほんの些細なことで、相手のために傷つき悩むことが愛なのだと、ぼくはその時ようやく気づいた。蜜柑。え? と言う彼女に、手に持ったままの蜜柑の袋を差し出す。帰って食べよ。

 彼女はこの日一番の笑顔で、にっこり笑った。




   十二



 ぼくが栗原と付き合っていたのはたった四ヶ月だったが、ぼくにとって初めての女だった。栗原は豊満な体をした今風の女で、ぼくはすぐにそのカールした薄茶色の長い髪や露出の多い服装に夢中になった。ぼくと同じ大学の女性はほとんどが地味で、おとなしいか中性的かのどちらかだったから、目白の女子大に通う彼女は新鮮で、眩しかった。栗原は万事割り切った恋多き女で、地味なぼくには興味などない様子だった。この時点でぼくの頭の中には赤信号が灯った。自分の平穏な生活や観想的な性格にそぐわない危険な女だと、ぼくの理性は告げていた。これは実際正しかったのだが……。ぼくは彼女に告白して、あっさり了解を得た。ぼくはそこでおかしいと気づくべきだったのに、初めてできた恋人に舞い上がって、理性を失っていた。ぼくは数日もしないうちに自分の初めてを彼女に捧げ……数週間以内には財布の中身をあらかた捧げていた。ぼくは自分が破滅への道を歩んでいることを知っていた。でも、きっといつかは栗原も改心するだろう、わかってくれるだろう、だってこんなに美しい女性が悪人である訳がない、ぼくはそう思って愚かにも自分をそのくびきにつないだまま、苦しみ続けた。

 そんな時、ぼくはひかるに出会った。彼女はいとこの栗原とは正反対で、地味で不器用なほどに親切だった。ぼくたちはぼくが当時住んでいた大学の寮のパーティで初めて顔を合わせた。栗原は自分に寄ってくる男子学生たちを適当にいなしながら、女友達と笑い合っていた。その目には、自分の容姿に対する自信があふれていた。ぼくは栗原が自分を恋人として紹介しないことに苛立ちながら、パーティの隅でお茶を飲んでいた。本当なら、自分はこの場で一番の美女を手に入れた男として賞賛を浴びているはずなのに。栗原に馴致されたぼくは、もはや愛を見失ってそんなことを考えていた。

 そこへ、ひかるがやって来て話しかけた。こんにちは、小川くんですよね、私一条です、栗原さんのいとこなの。ぼくは栗原を見つめたまま、適当にそれらしい返事をした。一人になりたかった訳ではない。ただ、自分が栗原に男としての誠意を示すことで、栗原から等量の誠意を引き出せると信じていたのだ。ひかるは少しためらって、ぼくに尋ねた。栗原さんとは、うまくいってますか? ぼくはそれに答えようとして初めてひかるをまっすぐ見た。長い黒髪にはカールもかけず、高校生のように肩に垂らしている。優しい目鼻立ちは少し緊張したようにこわばっていた。白い膝までのスカートに、桃色の薄いセーターを着ていて、襟元からは白い襟付きのシャツが見える。胸は大きい方で、不思議な安心感があった。顔、脚、胸、と見てまた顔に目を戻したぼくは、その目がとても優しいことに気がついた。少し潤んだ大きな目は、何か問いかけるようにぼくを見上げている。ぼくは、大丈夫、うまくいってるよ、と言おうとして声が出ないことに気づいた。涙がふたすじ目から溢れて、ぼくは不意に自分に戻った。狭まっていた視野が急に広がって、目前に迫る世界の広さにぼくは息を飲んだ。ぼくは自由だった。

 それからぼくは二週間かけて栗原と別れた。その戦いが終わる頃には、ぼくはひかるが好きになりはじめていた。

 その後も、ぼくたちはよく一緒に出かけた。孤独に過ごした二十年余も、栗原に振り回されその冷酷さに泣いた四ヶ月間も、ひかると一緒にいれば不思議と笑い話にできた。ひかるとぼくはどこか似ている、とぼくは思った。早くに母を亡くしたぼくには、高校生の時に両親を亡くしたひかるの気持ちがよく分かった。ひかるはその後親戚の栗原家に引き取られたが、どうも新しい家族とうまくいっていないようだった。その時は、家族の不和がそこまで深刻なものだとは気づかなかったが、今思えばそれが統合失調症の病因だったに違いない。

 彼女は驚くほどぼくに懐いた。きっと、二人で孤独の傷を癒しあっていたのだろう。ぼくはたくさんの初めてを彼女に教えてもらった。女の子に優しく気遣われる気恥ずかしさ。一緒に歩くときのそわそわした感じ。それぞれの家でベッドに入って夜が更けるまでの長電話。素敵だ、とぼくは思った。

 五ヶ月後、ぼくはひかるに告白した。その時のことは一生忘れないだろう。不器用に、遠回しに自分の愛を語り出したぼくの手を、ひかるはそっと包んで、ぼくを優しく見上げた。彼女は全てを知っていて、知った上でぼくを待っていたのだと、その時ぼくは悟った。


 ***


 そんな回想から現実世界へ戻ってくると、テーブルに両ひじを乗せて頬杖をついたひかるがにっこり笑ってぼくを見つめていた。ね、何考えてたの? そう訊ねる彼女に、ひかると出会った頃のことを考えてたんだ、と答えながら、ぼくは蜜柑を一つ取った。一昨日八重洲崎先生にもらったその蜜柑は、とてもみずみずしく皮が薄くて美味しかった。ふうん、うれしそうな顔してたから、えっちなこと考えてたのかと思った。そう言ってけらけら笑うひかるを見て、ぼくもつられて笑った。そんなこと言ったら寝込みを襲うよ? そう言うぼくの顔を見て、ひかるは急に立ち上がると、意味不明なポーズをとって、寝込みと言わず今でもよい、受けて立つ、と時代劇の口上じみたことを言った。

 その後どうなったかは言うまでもない。




   十三



 次の日、ぼくは八重洲崎先生の研究室を訪ねた。先生はまた自分は飲みもしないコーヒーを二人分淹れて、ぼくの向かいに座った。昨日の夜ひかると夜更けまで楽しんだぼくは寝不足気味だったので、ありがたく頂いた。先生はそんなぼくをちょっと驚いたように見たが、何も言わなかった。

 締め切った窓からは散ってゆく銀杏の葉が見える。ぼくは蜜柑の礼を言った。先生は筆談用の紙を広げる手をふと止めて、ぼくの顔をじっと覗き込んだ。君の恋人は蜜柑を喜んでくれましたか。ぼくはひかるがぼくの倍以上食べて満足したことを報告した。先生は優しげな笑みを浮かべて、そうですか、よかった、と呟いた。私の母が送って来たのだよ、子供の頃家には蜜柑と柿の木があってね、とても楽しみだった、今の下宿にはないので残念だ、と言った。ぼくは下宿という言葉に引っかかった。先生は単身赴任ですか? そう訊いて、ぼくはしまったと思った。先生は悲しげに頭を振って、私には家族はいないのだよ、好きな女性もいない、と言った。ぼくは何も言えず、急に静まり返った部屋の中でエアコンがたてる微かな低音を聴いていた。先生の方を見るのが、気恥ずかしかった。

 少しして、先生が沈黙を破った。君は、絶対に幸せになる方法があればどうしますか。そう訊ねる先生は、いつもと同じ表情をしていた。ぼくは、幸せの定義によります、と言った。先生は頷くと、こんな話をした。

 よく知られているように、量子力学的な観測を行う前には、観測したい量の期待値しか分からず、様々な値に実現の可能性がある。ところが観測を実際に行なうと、ある値が得られて他の可能性は消える。これを別の見方から見て、他の可能性は消えるのではなく、未確定だった値が確定する際に生まれた並行宇宙に逃げるのだという人がいる。もしそうならば、不幸な事実が起きるたびに宇宙を破壊することで、生き残った宇宙はあらゆる意味で幸せな宇宙になる。不幸な宇宙の自死、アポトーシスのおかげで、生き残った可能性は必ず幸福になるのだ。

 先生は、でも、これはただの言葉遊びだけどね、と言って微笑んだ。もしそうなら、先生は宇宙を破壊したいですか、とぼくは訊いた。宇宙を壊すのは無理だからそうしたいとは思わないけれど、自分を消したいと思うことはあるね。先生はそう言って悲しげに笑った。




   十四



 その日は土曜日で、外では雨が降っていた。ひかるは寝室で大人しく絵を描いて遊んでいる。ぼくはキッチンのひかるから見えるところで研究関連の作業をしていた。

 三十分ほど作業した後、コンピュータから目をあげて伸びをしながらひかるを見たら、彼女は画用紙を抱えて眠っていた。その無邪気な姿が愛おしくて、休学中とはいえ大学四年生には見えないな、とぼくは考えながら微笑した。ぼくはひかるを起こさないようにそっと近づいて布団をかけてあげた。その優しげな顔には、しかし、苦痛の表情が浮かんでいた。口元が苦しげに歪んで、苦悩に満ちたうめき声が漏れた。

「やめて、おばさん、裕美さん、もうやめて……」

 うなされている彼女を放って置けなくて、ぼくはひかるの肩を揺すった。

「ひかる、どうしたの」

 彼女は寝ぼけた顔のまま、ぼくを焦点の合わない目で見つめた。

「きよあき……怖かった」

 彼女はぼくにしがみつくと声をあげて泣き出した。ぼくは彼女を抱きしめてその背中をさすった。

 そうやって抱きしめてあやしていると、ひかるは徐々に落ち着き始めた。健気にも自分で涙を拭ってぼくを見上げる。しゃっくりあげながら、彼女は話し始めた。

「私ね、おばさんたちの家で、ずっと辛かった。毎日、あんたなんていない方が良かった、お金の無駄だ、って言われて。何度も死んでしまおうと思った」

 ぼくは彼女の手をしっかり握った。

「死ななくて良かったよ。よく頑張ったね」

「死なずに済んだのは、あなたがいたからなの。私はあなたを裕美さんから助けているふりをして、あなたに助けられていたわ。人生に光が差した。この人といれば、きっと生きていけるって。今まで辛かったことも、笑って済まされるって」

 そう言って、涙に濡れた目で彼女はぼくをじっと見上げた。

「愛してるわ、一緒にいてくれて、抱きしめてくれて、本当にありがとう。大好きよ」




   十五 優生保護法



第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。


優生保護法〔法律第百五十六号(昭二三・七・一三)〕



 その日ぼくは大学を早めに切り上げて家に戻った。本郷のぼくのアパートは引き上げたので、今では名実ともにひかるのいる場所がぼくの家だ。御茶ノ水まで自転車で帰る道すがら、ぼくはアポトーシスのことを考えていた。世界を壊さなくても、自分を殺せば同じことになるのだろうか?

 そんなことを考えていたからだろう、ぼくはアパートに着く直前まで異変に気づかなかった。そしてぼくが気付いた時、全てはもう手遅れだった。アパートの三階にあるぼくらの部屋には大きな窓が二つある。どちらも南に面しているが、その窓をふと見上げたぼくは、そこに複数の制服警官がいるのを見て凍りついた。一瞬、何かの間違いか、自分が見ているのは隣の部屋ではないか、と思った。その希望が偽りであると気付いた時には、ぼくは自転車を捨てて駆け出していた。

 階段を駆け上がる。三階について息を整える間も惜しんで玄関へ。ドアノブに手をかけた瞬間、後ろから大きな力で掴まれる。こちら第二班、小川を確保。無線で会話する声を背後に聴きながら、ぼくは終わりを悟った。


 ***


「ひかるに会わせてくれ」

 何度目かしれない懇願を無視して、内務警官はぼくの目の前に透明な袋を置いた。中に、黄色い錠剤の入ったプラスチックのシートが五十枚ほど入っている。ひかるの薬だ。

「これが何か分かるか」

 冷え切ったコンクリートの床から冷気が這い上がって来てぼくの体を震わせた。取調室は窓のない殺風景な部屋で、設計した人間の無個性的な個性が際立っているように、ぼくには思えた。

「知らない」

 ぼくの言葉に内務警官は薄く笑った。

「では不用品だ、捨ててしまおう」

 警官はそう言って無造作に袋を手に取ると、ドアの方に歩き始めた。

「待ってくれ、それはひかるの……」

「彼女のなんなのかな?」

 ぼくは必死に考えた。ぼくは逮捕されてもいい。でも、ひかるにはあの薬が必要だ。もう買い直すお金もない……。

「ひかるの薬だ。返してくれ」

 警官は薬をぼくに向かって放ると、一気に距離を詰めてぼくに向き合った。

「君の彼女を助ける方法がある、君がその気なら、協力しよう。私はこの件で逮捕者を出せとは言われたが、実のところ二人もいらんのだよ」

「なぜ薬のことを?」

「近隣住民が通報したのだよ。見慣れない錠剤のシートをゴミ袋の中に見つけた、とね」

 そう言いながら警官は調書を取り出して、私に見せた。サインしろということらしい。

「サインしたらひかるに会えるのか? ひかるは自由になるのか?」

「もちろんだとも、私が罪に問いたいのは君であって一条ひかるではないのだからね」


 ***


 半日ぶりに見るひかるは、見るに耐えないほど憔悴していた。調書にサインしてから四時間も待たされた理由は聞いていない。ただ、今はひかるのことしか頭になかった。ぼくは彼女に駆け寄ると、その震える体を抱きしめた。彼女はぼくにすがりついて激しく泣きはじめた。もう大丈夫、怖いことはもう終わった、大丈夫だよ。そう言い聞かせて、ぼくは彼女を落ち着かせようとした。内務警官が入ってきて、座るように言った。ぼくはひかるを宥めてぼくの横に座らせた。警官の後から検事が入ってきて、直立不動の内務警官を背にして椅子に座った。彼は手短に、例の件は約束通り履行する、調書にサインをしなさい、と言った。ぼくたちは黙って調書を読むと、そこにサインをした。検事は調書を書類入れにしまって、内務警官に頷いてみせた。警官はぼくに外に出るように言った。ぼくはこれを最後と心に決めてひかるを抱きしめると、

「じゃ、元気で」

 と声をかけた。彼女は涙をいっぱいにためた目で頷いた。ぼくは部屋を出た。鉄格子の隙間から不安で震えるひかるが見える。内務警官がひかるに向き直るのが見える。ひかるが緊張して、ぼくの方を盗み見た。そのさみしげな目を見た時、ぼくは全てを悟った。内務警官が発する言葉が、その悟りを追って廊下まで響くのを、ぼくはなすすべもなく聞いていた。

「優生保護法の規定により、一条ひかるを拘束する」


 ***


「待ってくれ!」

 ぼくは叫んだ。別の警官がぼくを後ろから掴んで制止する。

「ひかる、逃げろ」

 ひかるは全てを諦めた顔で、ぼくを悲しげに見やった。

「清顕、わたしね、一緒に居られて……」

「逃げるんだ、ひかる! 絶対助けるから、絶対助けるから!」

 涙に滲む視界の隅で、ひかるは小さく微笑んで、見えなくなった。

 その後どうやって家に帰ったか覚えていない。




   十六



 三日後、ぼくは官報の告示でひかるの死を知った。死因は移送中の事故、とだけあった。ぼくはその告示を区役所の前で読んだ。その文字を目にした瞬間、世界から一切の音が消えた。手指の先で、耳朶で、血液が不快な音を立てて流れるのが、唯一ぼくの聴覚を刺激した。不思議と、ぼくは取り乱さなかった。ただ、自分の周りを無関心に歩く灰色の群衆を見て、自分たちの同胞が、何の罪もない小さな存在が、家畜のように殺されていくのを座視するその無関心を憎んだ。ぼくは雑踏の只中に立ち、その中で陳腐な悲劇を演じるピエロだった。愛する女を不条理に奪われて途方に暮れる男。人類の始まりから何度も何億回も繰り返され手垢のついたこのモチーフに、もはや振り向くものとてない。

 灰色の空から雨が降り出した。ぼくは呆然としたままそこに立ち尽くした。自分の腕が異様に長くて、どう扱えばいいか分からない代物のように思えた。今ここにひかるがいれば、そのしなやかな体にぼくの腕を回して愛を語るのに。いや、今でなくても良い、家に帰ってからでいい。きっと温かいご飯を準備してぼくを待っているだろう。傘を持ってこなかったことを叱られるに違いない、どうしよう……そこまで考えて、ひかるはもういないのだと気付いた。ぼくはひかるがいなくなってから初めて泣いた。

 帰る道すがら、雑踏に逆らって歩きながら、ぼくはこの巨大な無関心を湛えた人波に、この消極的な人殺しどもに、骨の髄まで溶けるような怒りを感じた。自分の恋人が殺されても、同じ顔をするのだろうか? ぼくはこの体制を、この馴致された群衆を憎んだ。今ここで、ぼくがナイフをとり出して人々を刺してまわったら、きっと皆は悲鳴をあげて逃げ惑うだろう。ところが、国家が正義の名の下に誰かを、ぼくの恋人を殺しても、誰も何も言わない。自分ではなくてよかった、と思いながら、日々の仕事を続け、その無関心が間接的にひかるを殺しても、自分の手は潔白だと信じているのだ。怨嗟に歪んだぼくの心は革命を、流血を欲した。

 その時、ふと、あの駅のサラリーマンを思い出した。ぼくは、彼を弁護しただろうか……? ぼくは、何もしなかった。ぼくは群衆に溶け込み、彼を避け、逃げ出したのだ。ぼくも同罪だ、ひかるを殺したのは群衆であり、群衆に溶け込んで目を覆ったまま保身に走ったぼく自身だった。結局社会はいつも同じ。抑圧するものはごく少数で、そのわずかな強者が作った世界の枠組みを支える大多数の弱者が、この不条理を、この生きづらさを、この悲劇を生んできた。革命は無意味なのだ。軍事政権になる前のこの国でも、何万人もの人が貧困、差別、冤罪、暴力の下に死んでいった。ぼくたちは十分に豊かで、あとは仲良く富を分け合う方法さえあればいいのに、その答えが見つからない……。

 ぼくはひどく抽象的な疲れを覚えた。

 とぼとぼと歩いて、誰もいないアパートに帰った。真っ暗な廊下、真っ暗な部屋。つい三日前までひかるがいたのに、今は何もないこの洞窟のような部屋で、ぼくは絶望に串刺しにされて、心から血を流しながら呆然と立ち尽くした。まるで、自分が立ったまま垂直に倒れているように感じた。

 しばらくして寝室に向かったぼくは、彼女の衣装箪笥をそっと開いてその中身を見た。いつかの夜にぼくが脱がせた、落ち着いた藍色のワンピースが目に留まった。一緒に日比谷公園に行ったあの日も、彼女はこのお気に入りの上にコートを着てぼくの横を歩いていたっけ。ぼくはその生地を優しく手にとって、そっと顔を埋めた。……ひかるの匂いがした。彼女の声が、彼女の体温が、その仕草が、その眼差しが、いちどきに蘇って、ぼくは、ただ、身も世もなく泣き叫んだ。

 どのくらい泣いただろう。よろめきながら起き上がると、棚に置いてある『全体性と無限』が目に入った。老学究が妻と一緒に自宅で写っている白黒写真が印刷されたその表紙は、涙に濡れた目でもなぜかはっきりと見えた。自分も、いつかこんな風に歳を重ねたひかると一緒に写真を撮ることもあったのだろうか、と泣き疲れた頭でぼくは考えた。震える手でその本を開き、はじめの方のページを開いた。あの日、学士会館でのお茶の日に読んでいたページが目に留まった。


 人間のこの悲惨――さまざまな事情と悪意とが人間にふるいうる支配――、この動物性については、疑う余地がない。けれども人間であるとは、ことの消息がそのようであるのを知ることである。さらに、知り、意識を持つとは、非人間性が到来する瞬間を回避し、それに先んずるために時間を有していることである。


 心臓がきゅっと縮んで、ぼくは喘ぎながらそのページを見つめた。レヴィナス、ぼくはあなたのようにはなれなかった。ぼくは自分の人間性が手の中から砂のようにこぼれ落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。時間がなかった。ぼくは知っていたけれど、その知は十分ではなかった。忌むべき非人間性が到来したのだ。ぼくは、ぼくは……。

 ぼくはもはや、人間ではない。

 その悟りはぼくを冷静にした。ぼくは引き出しから彼女の薬の残りを取り出した。全部で五シート、五十錠ほどある。その薬を全部飲んで、ぼくはひかるの香りの残るベッドに身を横たえた。腕に抱いたワンピースにぎゅっと力を込める。恐怖は感じなかった。ただ、ぼくは寂しかった。ひかるがいないことが、ひどく、ひどくこたえた。すぐに、脳に薬剤が染み渡っていくような感覚があった。ひかるは、こんなものを毎日毎日飲まされて、それでも笑っていたのに。ぼくは。涙が溢れて、薄れゆく世界の中、ぼくは死に近づいている自分を感じた。自死。つまりは、アポトーシス。……そうか、ぼくは世界を壊したんだ。その悟りが、ふわりと脳裏に浮かんで、その言葉の軽やかな響きが消え失せる前に、ぼくは意識を失った。






 気がつくとぼくはひかるの横にいた。そこは大きな建物の廊下の端で、辺りにはぼくたちの他には誰もいなかった。ひかるは最後に見たときと同じ服を着て、微笑みながら鼻歌を歌っている。

 私たち、馬鹿みたいね。埃っぽい廊下の奥で肩を並べて座ったまま、彼女はぼくにそう囁いた。ひびの入った窓ガラスからは、色あせた太陽の光が幸せだった頃の名残を振りまいている。廊下の床に窓枠が落とす影をなぞって埃の上に線を描きながら、彼女は長い髪のかげで、寂しげにそっと微笑んだ。君は、とぼくは言いかけて、少しためらった。彼女が髪をかきあげて不思議そうにぼくを見つめる。君は、怖くはないのかい?

 私はね、もう怖くはないのよ。微笑んだままのひかるは少し自慢げに言った。だって私、もう……彼女の口からその言葉を言って欲しくなくて、ぼくは慌てて遮った。出鱈目に喋ったはずの口は、しかし、核心を突いた言葉を紡いだ。

 君は、幸せだった?





*作者注:本文中の引用文献は以下の通り。


一、 レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳(岩波文庫、二〇〇五年)

二、 ジャン=ポール・サルトル『存在と無』松浪信三郎訳(ちくま学芸文庫、二〇〇七年)

三、 モーム『アシェンデン 英国情報部員のファイル』中島賢二・岡田久雄訳(岩波文庫、二〇〇八年)


*その他に、以下を参考にした。


四、 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳(人文書院、二〇一六年)

五、 柄谷行人『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書、二〇〇六年)


以上

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