立つ女
下村りょう
立つ女
それは、茹だるような暑い夏の日の夜だった。その日、僕は友人が住んでいる賃貸マンションで宴をするべく、姿も見えない虫の音楽隊の演奏を聞きつつ、脳みそが茶碗蒸しになってしまいそうな思いをしながら近路遥々やって来ていた。
部屋に来ても友人はおらず、仕方なく電話をしてやると、どこからともなくぬるいビール缶の入ったコンビニ袋を引っ提げて現れた。
「お前汗臭くね?」
「この間も言っただろ。節約してんだよ」
「ここまでくると最早貧乏性だな」
「来月払いの家賃が楽しみだわ」
「あんまりゲームに課金するなよ」
ドアを開けると、沸騰したカレーの入った鍋の上のような蒸し暑さが僕たちを襲う。それもそうだ、ビルディングの光を部屋に招き入れている窓は閉めきっている。人が生活できる環境ではない。友人は部屋にゆっくりと入るなり、手早く電気のスイッチを付けた。
「お前、ここまでしてゲームに課金したいのかよ。死ぬぞ」
「うるせー」
とても暑かったので、友人がシャワーを浴びている間にクーラーを20度に設定する。去年は友人が僕の部屋で同じことをしていたので仕返しだ。当然、風呂から出た友人に温度を上げられた。
キンと冷えた百薬の長を嗜みつつ、同じくよく冷えた1Rの暗い箱の中で、友人と先週発売されたばかりの新作ゲームに興じる。今まで何度も行われてきた、男水入らずの秘密の宴だった。
酒のツマミがなくなった頃だろうか。つと、友人が口を開いた。「これは昨日起こった出来事です」おどろおどろしい、しかし野次馬根性が入った如何にもな口調は、彼が怖い話をするのだと僕に直感させた。
「お? 怖い話か? 小学生の時に肝試しでビビって放心してたクセに。お前も懲りてないな」
「そんな昔の話はいいわ! 暗い部屋、真夏の夜。何も起きないはずもなく……」
「だからって怪談かよ。安直すぎるだろ」
「いいだろー。こんな暑い日にツマミを買うためだけに汗だくになるのも嫌じゃね?」
確かに。と上げていた腰を再び下ろしたが、どうにも気が滅入る。僕らが小学生の時分に開催された肝試しで、僕は夜目でなければ気付くことができるほどに、ズボンを湿らせてしまったのだ。
「それもそうだな。でも、全然怖くなかったらお前だけツマミ買いにいけよ」
「おうおう、やってやろうじゃねえか」
そう言うと彼はリモコンを手に取り、中断中もなお楽しげな音楽を発するテレビの音量を、0にした。
かくして彼は語り始めた。テレビの画面からの光のみに依存した、この暗い部屋で。
俺、別に家が貧しいとかそんなんじゃなかったけど、若気の至りっつーか……まあとにかく自分の限界に挑戦してみたくなったんだわ。そんな時、俺のアパート、水道光熱費はメーター計測だったの思い出して「水道光熱費ってどんだけ削れるんだろ?」っていうのを、よりにもよってこの夏休みの最初に思い付いたんだよな。んで、始めたのはー……ちょうど2週間前だったかあ。俺にしてはよく我慢できてたと思うわ。昨日までは
昼は大学の図書室、夜は窓を開け放した部屋に扇風機っていう生活で。昨日も例に漏れずに、寝転がった顔に扇風機が当たるように調整してたら、汗だくになっちまって。風呂に入りてーけど今まで我慢したのに勿体ないし。
それまでだったらわりと我慢できたんだけど、あーもうダメだわって限界になって。あんまり我慢しててもこのご時世熱中症とかで倒れたらなんかダセェし、アイス買いに行きがてら涼みにコンビニ行くかーって立ち上がったのよ。ダイエット中の女子ってこんな感じなのかなとか、呑気に考えてたんだよ。その時まではさ。
立ってたんだよ。女が。笑っててさ。部屋のすぐ外に立ってたんだ。ちょうど、ベランダの向こうだったかな。ベランダの縁に手をかけて、ちょっとこっち側に身を乗り出してたかもしれない。
笑ってたって言ったけど、バラエティ番組が面白おかしくて笑ってるとかじゃないんだよ。目は黒目が全部見えるくらい開いてて、口は裂けてるんじゃねーのってくらいに大きく三日月みたいになってて。こんな顔、去年、お前と観たなーって。ほら、女の子に悪魔が取り憑いてイナバウアーしてたやつ。
もう、何分も目が合ってたよ、多分。そこで、正気に戻ったって言ったらおかしいんだけど、「都会って変なやついるんだなー」って感想だけ持ってそのまま外に出たんだ。それで、全速力でコンビニまで走って、息も整わない状態で漫画雑誌立ち読みして。
落ち着いた時にふと、俺の部屋、2階だったのに、あの女、どうやってベランダの外に立ってたんだろうな、って思ったんだよ。
ほら、1階だったらベランダの向こうは地面じゃん。でも2階って地面ないじゃん。
もし、あの女、ベランダを登って俺の部屋に入ろうとしてたんじゃないかって考えたらマジでちびりそうだったから、昨日はそのまま友達の部屋に泊めてもらったわ。お前との約束思い出して、急いで帰ってきたんだよ。ははっ。
友人は話を進めるにつれて、空嘔に苦しむように息を荒げていった。その顔は狂気に犯された顔そのもので、迫真な演技などではなく、与太話だと思っていた僕にその話の内容が真実なのではないかと確信させるには充分なものであった。
「俺、俺さ。暑いから窓開けてたって言っただろ。きっとさ、コンビニ行くときに閉めたんだよな。そうだよな」
友人は僕に言い聞かせるようそう言ったが、僕にそれを確かめる術などなく、イエスと答えることはついぞ叶わなかった。
「それとさ、すぐ戻って来るつもりだったから、部屋の電気は付けて出たはずなんだよ。それなのに……なんで、俺らが部屋に入ったとき、消えてたんだろうな。俺、昨日の夜は、ほんとに帰ってないんだぜ」
「やめろよ、やめろよ。どうせ冗談なんだろ」
友人の肩に手を乗せて、手加減もなく揺さぶる。冗談だと笑い飛ばすには、その話はあまりにも恟々としすぎていた。
気がつくと、友人の背後にあるクローゼットは扉が開いていた。そこから、人と思われる黒い影が膝と手を床につけたような格好で蠢いている。
テレビ画面の光に当てられて浮かび上がった姿は、口では等倍に言い表せないほど醜く、恐ろしい、恐ろしい女だった。目は黒目が見えるほど開ききっており、口は裂けているのかと見紛うくらい大きく三日月に開かれていた。近くで見ると、瞳孔も開ききっている『それ』は、顔に生えた皺などから40代程度だと推察できる。
何分も立った気がした。その短く長い時間、僕はその女と目を合わせ続けていた。
女は徐に友人の肩に、友人の肩に乗せた僕の手に、手を乗せた。その分厚い皮の張り付いた掌は、大太鼓の膜を連想させた。そこから感じる体温が人間のものであると知ったとき、今まで溜め込んだ冷や汗が全身の穴という穴から噴き出す。それは友人も同じようで、鼻の頭にはいくつもの水玉模様ができていた。
「お前、漏らしてんぞ」
冷や汗かと思われていた下腹部の生温かい不快感が、ジーパンを濃紺色に染め直しているのだと、女から目も離せないまま、友人の言葉で窺知してしまった。失禁を、よりにもよって小学校来の友人に見られてしまうなんて。クーラーで冷えた部屋は、濡れた衣服でいるには少し寒い。
しかし僕は気づいてしまった。
「お前も顔から漏らしてんじゃねーか」
友人の顔は涙と鼻水で、ぐしょりと滲んでいた。
部屋の中に、さっきまでは聞こえなかった女の笑い声だけが響いている。下腹部の不快感は、僕の恐怖を表すように膝小僧まで広がっていた。
どうか、どうか。熱中症で見る白昼夢でありますように。
立つ女 下村りょう @Higuchi_Chikage
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます