第8話 ポケットの中の声



「……そこに誰かいるのですか?」


 日本語で紡がれるとても耳触りの良い声が再び聞こえてくる。


 なんて綺麗な声なんだ……


 その声の美しさに、オレはキノコを咥えたまま、つい聞き惚れてしまった。


 …………ハッ!


 だが、オレの頭にある魔物のことがよぎり、たちどころに正気に戻った。


 まさかこれは……?


 美しい歌声で魅了して、近寄ってきた人間を海に引き摺りこむという魔物。

 もしかしたらあそこにいるのはその類なのかもしれない。

 

 気づかれたか……?

 どうするか……

 逃げるか……


 オレはキノコを飲み込みながら、この後どう行動すべきか思案していると──


「……この身は龍神様のものです。命を奪えば龍神様の怒りに触れることになります」


 さらに声が聞こえてきた。


 龍神様……?

 命を奪う……?

 怒り……?


 魔物の声かもしれないが、貴重な情報だ。

 今度は魅了されることがないように警戒しながら、その言葉の意味を考える。


「この森に踏み入るということは帝国の方だと思いますが、どうか少しでも遠くへお逃げください──」


 帝国……?

 逃げろ?

 

「──間もなく龍神りゅうがみ様がおいでになります」


 ちょっと待てっ!

 な、なにがおいでになるって!?

 龍神!?

 龍?

 ってことは……


 ドラゴンがここに来るってのかっ!?


 それは不味い!!


 やっとの思いであいつから逃げてきたってのに、ここでまた捕まったら今度こそ……


 逃げよう。

 今すぐここから逃げよう。


 人間に化けた魔物が嘘の警告を発している可能性もあるが──


 信じよう。

 その言葉を信じて今すぐここから逃げよう。


 この後の行動を瞬時に決めたオレは、台の上の人物から目を離さないよう、腹這いのまま後退を開始した。

 

 急がないと!


 台の上の人影は動く様子がない。

 それをいいことに、来たときとは比較にならないほど雑に後退する。

 だが、そのとき──


「うが!」


 何者かに股間を攻撃され、堪らずに叫び声を上げてしまった。


 仲間がいたのか!


 慌てて仰向けになって敵の姿を確認するが、誰もいない。

 痛む股間を我慢して前後左右、上空を見回すが、敵の姿はどこにもない。


 だ、誰だ……?

 どこから攻撃してきた……?


 座った姿勢のまま槍と盾を構え、バッ、バッ、と素早く首を振って、必死で敵の姿を捉えようとした。

 だが、あまりにも股間が痛むので、先にいったん傷を確認しようと視線を落とすと──なんと股間に枝が突き刺さっていた。


 どわ! な、なんだこりゃぁ!!

 

 驚いて枝を引き抜く。


「っが! い、いてぇっ!!」


 か、あまりの痛さにまた大声を上げる。


 く、くそ!

 仕方ない!


「い、痛いの痛いの飛んでけっ!」


 自制していた回復魔法をかけると、あっという間に痛みが引いていく。

 体験したことのない痛みから解放されて一安心したオレは、周囲に警戒を払いながらどんな武器かと突き刺さっていた枝を見た。


 マジか……


 枝の先端は鋭く尖り、オレの血がぬらりと付着している。


「そのへんに落ちてる枝じゃねぇか!」


 だが、それは人工的なものではなく『ただ先の尖った枝』だった。


 つまり──急いで後退するあまり、地面に落ちていた枝に気づかなかった。

 その枝に自分から刺さりにいって勝手に大騒ぎしていた、というわけだ。

 

 木から落ちた枝が、ちょうどいい具合に地面に刺さっていたのだろう。


 は、恥ずかしい……


 慣れないことをするからだ。

 今後は二度と"匍匐後退”はしないと誓った。


 敵じゃなくて良かったよ……


 悪意のある攻撃ではなかったことに胸を撫で下ろしたそのとき、誰かに見られているような視線に気がつき──


 やべっ!


 大慌てで台座の方へ目を向けると──


 憐れんだような目でオレのことを見る金髪の女の人と目が合った。

 

 女性は首だけを少し持ち上げてオレのことをじっと見ている。


 その目を見て『魔物かもしれない』という疑念や恐怖の感情は胸の奥へと追いやられていった。

 そのかわり『あの美女に今のオレの情けない姿をすべて見られてしまった』──という、うさぎもどきのときにはまったく感じなかった羞恥心が胸の底から込み上げてきた。


 これは……恥ずかしい……


 いままでこそこそと覗き見していたことも恥ずかしいし、『ひとりパニック状態』を全部見られていたことも恥ずかしい。


 オレはそんな心の裡を顔に出さないようおもむろに立ち上がると、スーツについた土や落ち葉を払い、


「ちょ、ちょっと迷子になってしまったみたいだな……」


 偶然通りかかっただけなんです、という感じでひとりごとを呟いた。

 女の人の表情をチラッと窺うとえらく驚いた顔をしている。


 いよいよ魔物には見えないのだが……


 よし。

 頑張って話しかけてみるか。

 言葉が通じるといいんだけど……


「オレはいちの……オレはトモキと申します。ええと、失礼ですがあなたは人間ですか?」


 異世界で交わす初めての会話は、なんとも不躾な質問だった。







「帝国の方ではないのですか……? いったいどうやってここに……」


 ん?

 言葉通じてるのかな……

 でも優しそうな人で良かった……


「あの、すみま──」


「来てはいけません!」


 オレが数歩前に出ると、女の人はものすごい剣幕で怒鳴る。

 上半身を起こせないのか、首だけを持ち上げた女の人は、美しく整った顔を歪めてオレのことを睨んだ。

 オレはその迫力に押され、ピタリと足を止めた。


「今は儀式のさ中! 龍神様の結界に足を踏み入れてはなりません! どなたか存じませんがいますぐこの地より立ち去り、二度と──」


 儀式……?

 結界……?


「ああ! りゅ、龍神様がお怒りに!」


 女の人の悲痛な叫びとともに、オレの足元が発光したかと思うと──


「な、なんだこれ!?」


 台座を中心として地面に巨大な魔法陣が出現した。

 それがゆっくりと、水平に浮かび上がる。

 ルミのマンションで見たものとよく似た魔法陣だが、大きさが全然違う。

 今浮かび上がっているものは、あのときの何倍も大きい。


 で、でかい!

 これはやばいヤツだ!


「は、早く逃げてください! 早く!」


 瞬間的に危機を察知したオレは、女の人の助言に従ってこの場から脱出しようとした。


 しかし──


 そ、そこからでてくんのかよ!!


 巨大な魔法陣から何日か前に見たドラゴンが姿を顕したことによって、完全に退路を断たれてしまった。

 背を向けて逃げようにも、あのブレスを浴びたら即死だ。

 ドラゴンは今にも口を開く勢いでオレのことを睨んでいる。

   

 ぱっと見、右手に槍、左手に盾を持ってドラゴンと対峙しているオレは歴代の勇者にも見えることだろう。


 だが、実際はこっちにきて三日目のサラリーマンだ。

 四日前は満員電車に揺られていた。

 なにをどうしたらこんなおっかないものと向き合えるというのか。


 ドラゴンの後ろで女の人が大声で叫んでいるが、オレの耳には一切入ってこなかった。


 全身の力が抜ける。

 すべてを超越した圧倒的な存在を前に、今にも気を失ってしまいそうだった。

 いや、むしろこの場合、気を失ってしまった方が楽なのかもしれない。

 灼熱の焔に全身を焼かれる苦痛を味あわなくて済むのだから。


 ──無念だが仕方がない。

 早く逃げ出さなかったオレが悪い。


 目が覚めたら家のベッドの上、ということを期待しよう。


『──フェイオ。さがりなさい』


 そのとき、どこからか不思議な声が聞こえてきた。

 さっきの女の人とは違う、空間から直接聞こえてくるような声だ。


『二千年の守護、御苦労さま。祠に戻って疲れを癒しなさい。私の封印はもう少しで解けるから、それまでいい子にしているのよ』


 子をあやすようなとても優しい声だった。


 するとドラゴンは耳をつんざく咆哮を一つ上げて、魔法陣の中へと戻っていき──ややあって魔法陣も消失してしまった。


 周囲に静寂が戻る。


 な、なんだ……!?


 怒涛のファンタジーラッシュにオレの頭はパンクしそうだった。

 なにが起きているのかついていけていない。

 だが、目の前からドラゴンがいなくなったことだけは事実だ。


 もう何度目だろう。オレは地面にへなへなとへたり込んだ。


『驚かせたわね。トモキ。あの子は私の使い魔。怖がることはないわ』


 え?

 だ、誰?


 たしかにオレの名を呼ばれたことに、きょろきょろと周囲を見渡した。

 台の上の女の人は、ドラゴンが出現したことにか、それとも消えたことにか、魔法陣があった場所を見たまま呆けている。

 やはりあの人が喋っているわけではなさそうだ。


『ここよ。トモキのポケットの中。ほら、手にとって』


 え? ポケット?

 スマホ……はうさぎに食われちゃったし……

 なんでポケットの中から声が?

  

 オレは声の出どころを確認しようと、ポケットの中のものをすべて地面に出した。

 中になにがあるっていうのか。

 金貨や宝石、キノコや定期入れ。

 がちゃがちゃといろいろなものが出てくる。

 

 そんな中、一つのものが目についた。

 それはあのとき過ってオレの鼻血を浴びせてしまった魔法陣──。

 それが姿を変えた小さなビー玉だった。

 あのときはただのガラス玉だったのだが、よく見るとガラス玉の中でなにかが浮遊している。


 オレの血……?


 ふよふよとたゆたっているのはオレの血っぽかった。

 それが時折小さな人の姿のように変化する。

 

 な、なんだよこれ……


 正直言って気味悪い。


 こんな気持ち悪いもの持ち歩いてたのかよ……


 これは早く捨ててしまおう──と別のものを手にしようとしたとき


『ようやく話ができるまでになったわ。ありがとう。トモキ』


「う、うわぁ!!」


 いきなりビー玉が喋りだしたので、オレは思わずそれを森の奥へ放り投げてしまった。


『え、ちょ、──ひゃぁぁああ!』


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