第2話 一難去って……ヤツは来た。



 どこまでも続く青い空に緑の草原。

 

「ちょ、ちょっと待て。えっと……オレはたしかルミのマンションにいたはず……」


 後ろを振り返るが、ドアどころかマンションそのものがない。

 前方と同じ光景が延々と広がっているだけだ。


 どこだここ。

 こんな公園近くにあったか?

 いや、高い建物がまったくないから……

 え? 日本じゃないのか……?


 夢……?


 しかし、足からは大地を踏みしめている感覚が伝わってくる。

 蒸した草の匂いもまるで本物だ。


 夢……じゃない……

 

 とすると……


 疲れ切った俺の脳が現実逃避するために見せているホログラム?

 ルミがしかけた超大掛かりなドッキリ?

 それとも……死後の世界……?


 答えを模索するが、どれもピンとこない。

 なぜなら、まだまぶたの裏にあの魔法陣の光が焼き付いているからだ。

 

 やっぱりあの魔法陣が原因か……?

 

「まさか……異世界……」


 ショート寸前のオレの思考回路が導き出した答えに戦慄が走る。

 現実社会に疲れ果てていたオレは異世界召喚をどこかで夢見てはいた。

 オレのことを誰も知らない世界で、すべてをリセットして一から生きていくというシチュエーションに。

 だが──実際それが現実味を帯びてくると脳が拒否反応を示す。

 足が震え、心細く、不安でたまらなくなる。


「──そ、そうだ」


 ズボンのポケットからスマホを取り出し、誰かと連絡が取れないか確認するが──


「……駄目か」


 周囲になにもないのだ、スマホは当たり前のように圏外だった。

 それだけでなく時刻表示もおかしい。

 全部の数字がゼロのままだ。

 操作してもなにも反応しない。

 電源は入ってはいるが──どうやら壊れてしまったようだ。


 スマホが使えないとなると、ほかに持ち物は……


 オレの家の鍵と、ルミの家の鍵。

 定期入れと財布と……ルミの手紙。


 これだけか……


 役に立ちそうなものはなにもなかった。


 それはそうか……


 都合よく、ナイフとか片手剣とか、ましてやなんとかソードとか持っているわけがない。

 なにせ会社に行く途中だったんだから。


 おいおいおいおい、どうしろってんだよ。

 俺をこんなところに連れ込んでなにをさせようってんだよ。


 いや、そもそも本当にここは異世界なのか?

 

 オレがもう一度この景色に見覚えがないか確認しようと、周囲を見渡したとき


「ん? なんだ……?」


 生い茂る草の隙間に動くものを見つけた。


「──動物か?」


 そしてその動物もオレに気づいたのか、ピタリと動きを止めてこっちの様子を窺っている。


 長い耳。

 小さく赤い目。


「おお! うさぎか!」


 普段ならうさぎを見てもこんなテンションにはなりはしないのだが、今は知っている生き物がいたというだけで嬉しい。


 すると、オレの声に反応したうさぎがぴょんぴょんとこっちへ跳ねてくる。


「お? 人を見ても怖がらないんだな」


 そんなうさぎを見てほっこりしたオレは、その場にしゃがむとうさぎに向かって手を差し出した。

 腹が空いているのか、少し痩せている点が気になるが、毬のように跳ねながら近寄ってくるうさぎはなんともいえず可愛い。

 人懐っこいうさぎになにか食べ物を与えてやりたいが、オレは食料をなにひとつ持っていない。

 

 人参でも持っていればよかったな……


 そんなに都合よくいくわけがないのだが、そのことが多少悔やまれる。


「おいで、おいで」


 オレはせめて頭でも撫でてやろうと手招きをした。


 そして、オレとの距離が五メートルほどまでになったとき──


「──っ!」 


 突如うさぎが華麗なジャンプを見せた。

 

「え!?」


 それだけではなく、あり得ないほど大きく口を広げ──見る間に顔全体が牙だらけの口に変化していく。

 もはや可愛らしさなど微塵もない。

 口だけお化けだ。

 それが結構な速度でオレに突っ込んでくる。

 

「──ひッ!」


 オレは本能で察知した。

 このうさぎはオレを食おうとしている──と。

 いや、その姿はすでにうさぎでも何でもないのだが、そんなことはどうでもいい。

 

「く、来るなぁっ!」


 オレは必死で右手に持っていたスマホをうさぎの化け物めがけて思いっきり投げつけた。


『ぎゃん!』


 焦るあまり適当に投げてしまったのだが、口が元の三倍ほどまで大きくなったことが幸いして、スマホは見事うさぎに命中した。

 うさぎは尻尾を踏まれた犬のような鳴き声を上げて、オレの目の前にごろごろと転がってきた。


「な、なんなんだよ……この生き物……」


 うさぎはピクリとも動かない。

 牙剥き出しの真っ赤な口から涎がだらだらと垂れている。

 

 死んだのか……?


 念のため頭を踏みつけて止めを刺したいが、身体が硬直して動かない。


「や、やっぱり異世界じゃねえか……」


 確定だろう。

 こんな生き物は見たことがない。


 っていうか……こんなのありかよ……


 オレは可愛いはずの生き物が化け物のように変貌したことに、相当ショックを受けた。


 こんなのがごろごろいたら生き残る自信ないぞ──と、周囲にうさぎの仲間がいないか警戒心を強めたとき、うさぎの耳がピクッと動いた。

 やはりあの程度では息の根を止めることができなかったようだ。

 

 や、やばい!

 

 早くこの場から逃げなければならないのだが、身体が思うように動かない。

 腰が抜けてしまったのか、数センチ後退りするのが精一杯だ。

  

 するとうさぎは転がったままの姿勢で、口の中に突っ込まれていたスマホを音を立てながら咀嚼し始めた。


 バキ、ボキ、バキ、ボキ、と──。


 その地獄から聞こえてくるかのような音に、オレは股間を濡らしてしまった。

 二十五にもなって恥ずかしいなどとは一切思わない。

 ここで死ぬのか──と悟ったとき、人は羞恥心など感じている余裕は一ミリもないのだ。


 ごくん、と、スマホを嚥下したうさぎがむくっと起き上がる。

 いまだに口だらけの顔なので目がどこにあるのかわからないが、うさぎは確実にオレを見ていた。


 つ、次はオレの番か──


 歯が噛み合わない。

 声も出せない。

 どころか、指先ひとつ動かせない。

 せめて一矢報いてやろう、という感情すら湧いてこない。


 ただただ、うさぎの赤い口を見続けていた。


 こんなとき、小説の主人公ならカッコよく危険を排除できるんだろう。

 だが所詮オレは冴えないサラリーマン。

 そんなオレが未知の生物に襲われたら、なにもできずに捕食されてお終いだろう。

 

 そんな思いが刹那、頭に浮かんだ。


 お終いか……。


 すべてを諦めたそのとき──


 うさぎの口が閉じ始め、元の姿に戻っていった。

 そして、オレに頭を下げて(オレにはそう見えた)くるりと背を向けると、草の陰に消えていった。


 しばらくしても、オレはその姿勢のまま動くことができなかった。

 またあのうさぎが戻って来るかもしれない──と、どこかで恐れつつも、味わったことのない脱力感に襲われて、脳も身体も完全に停止状態になってしまっていた。


 たぶん十五分はそうしていたか。

 そしてようやく生きていることを実感したオレは草むらに寝転び、


「うおぉーっ! 生きてるぞぉぉおお! オレはまだ生きているぞぉおおおおっ!」


 腹の底から叫んだ。

 こんなに大声を出したのは生まれて初めてだ。

 自分が、思っていたより大きな声を出せることを知ってびっくりしたくらいだ。


 近くにうさぎがいたとしても驚いて逃げ出したことだろう。




「ははっ! ははははっ!」


 次になぜか笑いが込み上げてきた。

 オレは頭がおかしくなってしまったのかと、自分で自分が少し怖くなったが、なぜか笑いが止まらない。


「──はははっ! あーはははっはははっ! あぁはははっははああっつ!」


 こうなると、もうオレは感情を抑えることなく、心のままに声を出して笑った。

 こんなに愉快に笑ったのも生まれて初めてだった。


 真っ青な空を見上げて感情を剥き出しにする。


 なんだか最高の気分だった。



 ──それが目に入るまでは。



「──? なんだあれ……?」


 ひとしきり感情をさらけ出して、次第に冷静さを取り戻しはじめたときだった。

 オレの視界の先、青い空に小さな影が見えてきたのは。


「飛行機……? ん? 違うな……鳥?」


 初めは小さな点のように見えていたものが徐々に大きくなっていく。

 そして輪郭が捉えられるようになるころには、それがなにかわかった。

 

 ──わかってしまった。


「まさか……う、嘘だろ!?」


 ファンタジーものの最高峰、テンプレ中のテンプレ、古くは神話時代、最近ではRPGやラノベで名を馳せるあいつ。


「──ッド、ドラゴンッ!?」


 うさぎの化け物の次はドラゴン!

 なんでこうも立て続けに!

 勘弁してくれよ!


 まるでそれは『もしかしてここは異世界か』というオレの問いに対して答え合わせをしてくれているかのようだ。 


 いや、もうさっきので信じてるから!

 疑ってなんていないから!


 逃げようにも逃げ場がない。

 モノを投げようにも投げるモノがない。

 というか、さっきはうさぎだったからスマホでも上手くいっただけだ。

 たとえ地対空ミサイルを持っていたとしても、あれに通用するかどうかわからない。



「おい……まさかオレを狙っているんじゃないだろうな……」


 ドラゴンの影はこっちに向かっているようにみえる。

 と同時、ついさっきやっとの思いで手繰り寄せた『生』が、するすると遠ざかっていく感覚を覚える。


「マ、マジかよ……こっち来るぞ……」


 これだけ広い草原で、こんなちっぽけなオレを見つけたっていうのか?

 も……もしかしてあのアホみたいなオレの笑いが癪に障ったのか……?


 ドラゴンが咆哮を上げる。

 間近に雷が落ちたかと思うような轟音とともに、大気がビリビリと震える。

 そのとき、ドラゴンと目が合ってしまったような錯覚に、オレは再度股間を濡らしてしまった。


「く、来るな……」


 オレは尻を地につけたまま、ずるずると這ってドラゴンから遠ざかろうとする。


「こっちに来るな……」


 だが、ドラゴンはすでにオレのことをロックオンしているのか、一直線にこっちに向かってくる。


「く、来るなぁぁあああ!!」


 そして、予想通りオレめがけて滑空してきた空の支配者ドラゴンは──


「や、やめろぉおおお!!」


 六十八キロあるオレの身体を強靭な足で掴み上げ、


「うわぁぁああああ!!」


 空高く舞いあがった。



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