雑記

有鱒 露帆

数学は美しくない

 数学は美しく無い。あるいはそれは小綺麗であるかも知れないが、美しいという言葉の持つニュアンスとは真逆の存在である。数学を美しいと思う者は、美しさが如何に生まれるか理解せざる者である。

 すべての辺がきっかり10cmで、すべての内角が90度の四角形――正方形が、一切の狂いなく、印刷されている。これは、整っていて、綺麗な四角形と呼ぶことは出来ても、美しくはない。逆にもし、手描きの、少し歪んだ、例えば右の辺が9.93cmで左の辺が10.12cm、角は90.34度だったり88.65度だったりするような四角形が、カンバスに描かれていたとすれば、それは美しくなりうるし、例えばその歪みがとりわけ魅力的で、鉛筆の掠れ具合が見事であったなら、芸術にもなりうるだろう。

 それは、その一枚が、二度と再現できないからかも知れない。描いた人、そしてその人の気分、腹は減っていたか、眠かったか。直前に飲んだのはアールグレイか、それともコカ・コーラか。気温、湿度、気圧、カンバスと鉛筆の材質とコンディション。一人で、小さな室内で描いたのか、数人で談笑しながら描いたのか。あるいは船の上で、大草原で、砂漠で、湖畔で描かれたのか。手描きの図形には、それらすべての、ありとあらゆる環境がその姿に影響する。故に、同じものは二度と作れない。そこに魂が宿り、魅力を放つ。

 だが、数学的なものはそうではない。2×2は誰がどこで解いても4である。南極でも、エベレストの山頂でも、火星に降り立ってもなお4にしかならない。言葉も分からない外国の、一つも見覚えのある品のない市に露店を構える果物商が解いても、やはり4である。果たしてそれは美しいか?数学において正しいとされるものには、背景や個性がない。どうしても、時々答えが3や5になってほしいと思ってしまう。数学は何かを成すための道具としては役立つにしても、そこには何ら魅力はないし、ましてやそれそのものが目的となることは決して無いのである。

 比して、美しさとはそれそのものが目的である。芸術は、時として何かの手段にはなるにしても、あくまで道具にだけは決してならないし、なってはならない。ここに数学と美が真逆の存在であることが明らかになるのである。

 ある人は、芸術の中に数学が使われる、という主張をする。これは部分的には正解であるが、しかしだからといって、数学が美しいということにはならない。

 例えば、遠近法というものがある。これは基本的には数学的に正しいものであり、計算によって、その立体の変化を計算できるだろう。しかし、実際に計算をしてから描く画家がどれほどいるだろうか?だいたいこのくらいここは短くなるだろう、という感覚で描くのである。しかも、遠近法の発見以降にも、あえてその消失点を左右でずらすような画家さえいる。もし、数学的に、完璧に計算された形が美しいなら、彼らはどうしてそんなことをするのだろうか?私には彼らが、計算による正しさよりもむしろ直感を、個性を、背景を大事にしているように思えるが、それを数学の美を唱える人間は、どう反論できるのか。

 人間の視覚は、数学的ではない。錯覚というのはその典型例であるが、何かを見たときに、人は対象の正確な形状や、物理特性を認識するのではなく、ぼんやりとしたイメージで捉える。あるものは実際より大きく、あるものは実際より小さく見え、またあるものは赤みを帯び、あるものは黒ずんで見える。聴覚も、触覚も、嗅覚も味覚もまた同様に、イメージで捉える。感情、気分、思考もまたイメージで生まれる。そしてそれらのイメージは、言うまでもなくその人間の性格、年齢、性別、所属する文化圏等々のあらゆる要素が影響するために、個性あるものになる。風景画家はそのイメージを平面に落とし込む。実際の風景ではなく、イメージを描くのだ。故に描かれるものは、非数学的で、個性ある――即ち美しいものになるのである。あらゆる芸術家も同様に、五感から形成されたイメージを、それぞれの領域、例えば言葉や旋律へ変形させる。そしてそのイメージが優れた独自性、つまり数学的なものから離れていればいるほど、表現されるものは、美しくなる。

 数学は美しくない。これは多くの人には意外であり、納得し難いことであるかもしれないが、ここで明らかにしたように、それは事実である。もし、あなたが優れた芸術家を目指するならば、あるいはそこまででなくとも、芸術を理解できる人間であろうとするならば、せめて作品と関わる瞬間だけは、数学と決別しなければならない。

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