雨の夜の出逢い
和之
第1話
雨の夜
この夜、永田町の公邸で仮装舞踏会が開かれた。公家、諸侯の紳士、淑女が刻限に次々と馬車で参集する。まさに庶民とは掛け離れた、贅を尽くした夜会が繰り広げられた。
ここが稼ぎ時であり情報収集にと同時刻に永田町公邸近くの虎ノ門の道端で、一人の人力俥夫が客待ちをしていた。
夜も更け呼び止める客もなかった。小雨さえ降るに及んで俥夫は宿へ帰るべく空の車を引き始めた。その時に後方から麗装した令嬢か夫人かと見間違える、洋装姿の女が息を切らせて駆けて来た。
女は俥夫を呼び止めるなり。
「駿河台まで行って下さい、代価はお屋敷でお支払いしますから」
女は俥夫の返事を待たずにドレスの裾をつまみ上げ、軽やかに身のこなしで車に乗り込み幌を下ろした。
「ちょっと待って下さい、あっしはまだゆくとも言っていませんよ」
男は梶棒を降ろし女を見た。女が下ろした幌で顔は判らない。足下を見れば裸足だった。
「どこのお姫さんか存じませんが余り見られたものじゃ有りませんね」
女は急にドレスの裾を掴み足下に広げて素足を隠した。
「あなたが駆けて来た方角では、今夜お列席方の夜会がありましてね・・・、そこで何か不祥事でもありましたか」
男は俥夫をしているが元は侍である。多くの士族は今の新政府に不満を持っていた。それだけに彼らは政治の匂いを敏感に嗅ぎ取る癖が抜けきらない。今夜の夜会もそれとはなしに遠巻きに傍観し、そこから溢れ出た者からそれらしい匂いを嗅ぎつける。
「あなたのような俥夫には関係のない世界よ」
「しかしあなたのような麗人が夜会の席から従者も連れず、しかも裸足で駆けて来るなんて。詮索したくなりますよ」
女は首から外したネックレスを差し出した。
「数年分の稼ぎになるわ、これで行ってちょうだい」
「俺はそんなつもりで言ったのじゃない! 見損なうんじゃない」
「行ってくれないのなら自分で歩いて行きます」
男は慌てた。
「何も行かないとは言ってませんよ。気の短いお嬢さんだ、何か訳でも有りそうだが裸足では無理ですよ。行ってあげますよ」
俥夫は梶棒を上げて歩き出そうとした。
「待って! とにかく受け取ってもらいます。あとで面倒な事になるのがいやですから」
男は顔をしかめて振り向いた。
女は幌を上げてネックレスを差し出しながら顔を起こした。その刹那、淡いガス灯の光が女の顔を浮かび上がらせた。男はその顔に思わず梶棒から手が離れた。座席は勢いよく前に傾き、その反動で女は座席から落ちかけ咄嗟に男にしがみ付いてしまった。抱き止めながら男は「節子さん」と女の名を呼んだ。
彼女は驚き身を引きながらガス灯を背に受けて立つ男の顔を視た。
「そのお顔は江坂十郎殿、・・・ではありませんか」
江坂十郎、元江戸市中警備の庄内藩士である。節子は傾いた幕府を支える元旗本の娘である。ふたりは家と家との取り決めで婚約が決まっていた。節子十四歳の春だった。だが幼い節子にはこの縁談には不満だった。気がのらないのである。ゆえに話が進まなかった。
この時期に薩摩藩は幕府を挑発するために江戸市中で狼藉を働いた。ある日、この事件に節子は巻き込まれたが居合わせた江坂によって救われた。これを切っ掛けにふたりはお互いを見初めた。だがお互いの存在に気付くのが遅すぎた。一ヶ月後には鳥羽、伏見で薩摩、長州と幕府軍の戦端が開かれ、ふたりは維新の流れに翻弄された。
そして今ふたりは再び巡り逢った。張り詰めた糸が切れたように節子は一呼吸肩で息をして頬を緩め瞳も潤んでいた。
「十郎さま、この様な所でその様なお姿でお会いするとは・・・。いったい江戸市中警備をなされていたあの凜々しいお姿が・・・。いったいどおなさったのです」
「藩も武士も無くなれば落ちるところまで落ちてゆくしかあるまいに」
江坂は苦笑して向き直り梶棒を上げて歩き出した。
「別れてからもう何年なるかなぁ、十年いや九年か。あれから庄内へ帰って新政府側に寝返った秋田藩を攻め、落城寸前まで追い詰めながら・・・。会津の降伏に因って無念の退却となった」
奥羽列藩同盟を離脱した秋田藩は北からの南部藩主力の同面軍、南からはこれまた庄内藩主力の同面軍に攻め込まれ秋田藩領は焦土と化した。
江坂は江戸で節子と別れ、庄内で官軍と戦って降伏した。この戊辰戦争で庄内藩は薩摩の西郷の寛大な処置によって救われた。
「十郎さま、庄内藩は戊辰戦であれほどに活躍されたのに、その庄内藩士で有るあなたさまがこのような事をなされているとは思われません。何か訳でもあるのでしょうか」
「確かに領国は焦土と化さなかった。家名も存続が許された。だがその時のとばっちりで多くの士族が禄を持たず溢れているんですよ。今の薩長の藩閥政治に口を入れる隙はありませんよう。それより節子さん、あなたも裸足で駆けて来るなんてただ事じゃないですね」
「わたしのことより今の政府に不満を持つあなたのことが心配なのです、何か起こしそうで」
「節子さん、わたしだけじゃありませんよ。今の政府に不満を持つ士族は、特に勝った薩摩や長州の不満は図り知れません」
「ではこれで痛み分けになるではありませんか」
此の人にはもう恩讐をこえて新しい時代を生きてほしい。それが節子の願いだった。
「だが庄内藩は会津に比べて寛大な処置をしてくれた薩摩の西郷さんには恩があるんです。今がその恩に報いる時なんです」
「十郎さま、目を覚まして下さい。もう武士の時代ではありません。今のあなたのお姿を考えて下さい。あなたが命がけで尽くしてももう報われないんですよ。そのような武士など捨てて下さい・・・」
十郎の姿を見て喉につかえていた言葉を絞りだした節子だった。
「今夜の集まりでそのような話がありませんでしたか」
さっきの言葉を聞き流した江坂に哀しみよりも深いあわれみを抱いた。
「舞踏会ですから人の色恋ばかりです」
十郎は裸足の節子を思い出した。
「そのとばっちりを受けたようですね」
「ええ・・・、本当は夫に愛想が尽きたのです。それで仲を取り持って下さった黒田様の前で飛び出して来たのです」
「それじゃ黒田は居たのか?」
江坂は急に車を止め節子を見た。
「黒田は鹿児島の事を云ってませんでしたか、西郷さんの事を・・・」
「ええ・・・、」
節子は眼を覚まさせようと屹度して江坂を見つめた。
「そのような事はどうでもいいじゃありませんか。それより今は何処に住んで居るんです?」
江坂は瞳を曇らせた。
「浅草の方で間借りしてます」
「そう。それではその道を曲がって下さい」
駿河台は真っ直ぐで、曲がれば浅草方面である。
「節子さん、あなたは駿河台のお屋敷に帰らねばなりません」
江坂は車を動かし始めた。
「もう帰りたくありません」
「いけません、お帰り下さい」
「十郎さま、あなたが江戸を離れる時にわたしに云った言葉を憶えてますか」
「ええ憶えてます」
「あなたは変わられたのですか?」
「いえ、あなたへの気持ちは変わりません。それどころか忘れようとしても忘れられませんでした」
節子の瞳が幽(かす)かに輝いた。
「では連れて行って下さい」
「今わたしは人力車の俥夫ですよ、駿河台の生活とは掛け離れ過ぎてます」
「その路を曲がって下さい」
「真っ直ぐ行きます」
「今日の舞踏会で何が有ったとお思いですか。居並ぶ華族の前でわたしは、あの人を罵倒してきたのです。もう屋敷には戻りたくありません。戻れません。・・・曲がってくれますね」
江坂は車を道端に寄せて梶棒を置いた。
「曲がってどうなると云うのです」
「あなたこそ戦ってどうなると言うのです。もう武士ではないのよ、もう藩も殿様ないのよ」
節子は込み上げる涙を押し殺して説得した。
「落ちるところまで落ちてしまったわたしにはやる事はひとつしかないんです」
この人の真っ直ぐなところに惹かれてしまった節子にはそれが今はこころに悲しく響いた。
「どうしても戦(いくさ)にゆくんですか。もうあなたの働きを誰も認めてくれないのですよ。もうそんな時代じゃないんですよ」
「身も心も武士のままで死にたい。刀を取るのもこれが最後になる。だからゆくんです」
彼女は自分の力でこの人の運命を変えることは出来ない。変えられるとすれば名実ともに武士であった江戸を離れるあの時だったかも知れない。そんな想いが節子の脳裏をかすめた。
「わかりました。駿河台へ行って下さい」
「すべてを伺えば・・・」
「わかりましたお話します。・・・西郷は士族の不満を抑えきれない。そして鶴岡にも叛旗が呼応する。鹿児島は万全の態勢でも腹背に敵をうけては特に奥羽は収拾が付かなくなるその方が心配だと語っているのを小耳にいれました」
庄内は維新以来西郷の庇護を受け、庄内士族も西郷びいきである。萩の乱、佐賀の乱と鎮圧されて、次は鹿児島と庄内に関心が向けられていた。
最南端に有る鹿児島はある程度の戦線の広がりは目をつむっても、戊辰戦争で賊軍であった奥州の鶴岡には絶対に火を付けてはならない。その鶴岡で戦端が開かれれば他の地方に広がるのは必定と政府は考えていた。
黒田は、庄内軍はまず県庁を制圧すると考え、山形県庁に守備兵を配置した。そして仙台、越後方面を固め、多数の密偵を庄内に入れていた。だが情報が集まらない中で準備だけは具体的に進んでいた。
節子はこの黒田清隆の考えを説明して車から降り皇居の濠を見つめた。その向こうに見える駿河台の灯りが彼女の瞳に鈍く光っていた。
すべての人々が維新の流れの中で私情が翻弄された。あの時は時代が彼女を諦めさせた。そして江戸に残された彼女は長州の人のところへ嫁いだ。今また大きなうねりが訪れようとしていた。
「黒田がそのように考えているのなら、節子さん、このままでは庄内全土が焦土と化す、なんとしても戻らねば」
この言葉で一気に肩を落とした節子にはもう振り返る勇気がなかった。
「憶えていますか、あなたは十年前も同じ事を言ってたのよ、そしてまた同じ事を繰り返すのね」
十年前、慶応四年二月二十日、藩主酒井忠篤は庄内を焦土にしても薩長中心の征伐軍を迎え撃つ覚悟を決め江戸を引き上げて庄内に向かった。
江坂も節子と別れて藩主と共に帰国した。あの切ない別れ以来ふたりは会えなかった。いやふたりは時代の烈しい流れに呑まれていった。そして偶然に今ふたりは同じ澱(よど)みに流れ着いた。しかし次の濁流が迫っていた。
「あの時はお殿さまの為に、今度は西郷さまの為ですか。もういやです。いったいいつになればご自分の為に生きてくれるのです」
節子は尚も瞳を潤ませて彼の心に一矢を放った。
「人が羨む駿河台の今の生活に何が不満なんだ」
だが的は射抜けなかった。次の二の矢は捨ててしまった。
「こころが貧しいのです」
涙と共に霧のような小雨が節子の頬を濡らした。
「今ほどあなたを必要として居る時はありません、そのことに初めて気付きました、わたしを浅草へ連れて行って下さい」
節子は今度は心に訴えた。
「逢うのが遅すぎた、仲間を裏切る訳にはいかない」
「あの時と変わってないのね、でもあの時には存在した藩も殿様も無いと云うのに・・・。今はあなたの意地だけですのね」
そう言って節子はひとり歩き出した。
「待て! 駿河台での生活がそれほど嫌なのか」
この時、夜会会場から帰る一台の黒塗りの馬車が、二人の前で停まり馭者が彼女の名前を呼んだ。
「奥様、丁度よいところでお会いしました。今からお屋敷に戻るところですからお乗り下さい」
聞き覚えのある馭者の声に節子は自分の立場を認識した。
彼女は振り返り視線を落としたまま、江坂のすぐ傍を通り抜けて馬車の前で立ち止まった。そこで彼女は今一度振り返って江坂を見た。彼は俯いたまま雨でぬれた顔を拭っていた。
「あの人は泣いてくれているのかしら?」
呟く節子の背中に雷鳴のような声が響いた。
「節子!」
馬車の窓から礼装の洋服に身を包んだ中年の男が顔を出した。
「あなた!」
振り返った節子には二度と記憶の中に呼び戻したくない夫の顔がそこにあった。
「さっきはわしに恥をかかしてくれたなあ。屋敷に戻りたかったらここで土下座して謝れ」
節子は今一度江坂を見た。
江坂は『行け』と云う顔で節子を見ている。その顔に一度は切なくしおれたが、気を取り直して夫をにらんだ。
「どうした、なんだその眼は、そんな顔をしてもお前はわしに許しを乞うしかないんだ。お前は今の贅沢な生活から抜けられやしない」
「奥様、雨に濡れますとお風邪を召しますから早く乗って下さい」
御者は見かねて声をかけた。
「節子! さっさと土下座しろ」
節子の顔は雨と悔し涙にまみれたまま両手を付いて座り込んだ。
「よーし。『もう二度とこのような不手際は致しませんから屋敷に置いて下さい』とちゃんと許しを乞え。だがお前を連れて帰るのは妻としての世間への体裁を繕うだけだと云う事を忘れるな」
元幕臣旗本の娘としてこれほどの屈辱はない。元は無禄の下級武士、いや百姓だったかも知れない。ただ維新の功労で成り上がっただけのこの男に許しを乞う自分が惨めすぎた。
その思いは嫌と云うほど江坂にも伝わって来る。
「節子! そんな男に謝る必要はない」
駆け寄った江坂は節子を抱き起こした。
「なんだお前は?」
「もと庄内藩士江坂十郎だ」
男は人力車俥夫姿の江坂を見て更に軽蔑の眼でじっと眺めた。
「賊軍のなれの果てか」
高笑いを浮かべて男は馬車から降りると節子の手を引っ張った。
「どうしても屋敷へ戻るんだ。俺の世間体を考えろ、恥の上乗せをするきか」
駆け寄った江坂は男を張り倒した。
「貴様、新政府の高官に手を掛けてただで済むと思うな」
男は捨てぜりふを残して馬車に飛び乗った。馭者は節子に軽く会釈をして馬の尻に鞭を入れた。氷雨が降る中を真っ直ぐな道へ向かって馬車は消えた。
泣き崩れ縋り付く節子を江坂は人力車に乗せた。頬を伝う涙が雨と混ざり、濡れたからだの節子を乗せて人力車は動き出した。
節子を乗せた人力車は真っ直ぐ行かず、直ぐに曲がった。ふたりは強くなった雨の中へ消えていった。
一ヶ月後、西南戦争が勃発した。しかし庄内はまだ深い雪の中にあった。その中にふたりを見たと云う噂もあったが定かではなかった。
(完)
雨の夜の出逢い 和之 @shoz7
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