第29話 新世界Ⅳ
「アキラ、今は行動する時よ。行きましょう」ユウコに促されて、アキラはアンを背負うと歩き始めた。ユウコは一つの建物に目指していた。皇居の周辺にあるビル群は荒れ果て、崩れ始めているものも珍しくなかった。アキラはその建物に見覚えがあった。警視庁と呼ばれた建物だった。
警察機構が機能していた時には玄関に警察官が警備していたはずだが、今は誰もいなかった。玄関には目立った破壊の後は無かったが、中に入るとすぐに荒廃と略奪の痕跡が目についた。アキラは職員の休憩用の部屋にアンを横たえた。疲労が嵐のように襲ってきていた。
「何か食料がないか調べてくる」ユウコはそう言うと部屋を出て行った。このビルの中には食堂があるはずだった。警察官だった父親に会うために母が幼いユウコを連れてきたことがあった。食堂にはいろいろな店があった。洋食、和食、中華など何もかもユウコには物珍しかった。
食堂があった場所は荒れ放題になっていた。厨房に入ると食器や調理器具が床に散乱していた。奥の壁際に大きな冷蔵庫があった。中の物は干からびているか、腐っていた。近くには大きな冷凍庫があった。分厚い扉を開けるとかび臭い臭いが鼻を突いた。肉や野菜は原型を留めていなかったが、缶詰や瓶詰の食品は使えそうだった。ユウコは缶詰の製造年月日を見た。
2035年より後の日付は無かった。ということは人類が滅亡したのは2036年ということになりそうだった。それにしても人類はなぜ滅亡したのか。街のどこにも死体はなかった。白骨もないのはおかしい。核戦争であればビルが破壊されているはずだった。
ユウコが食料を抱えて戻ってみるとアキラは死んだように眠っていた。疲労が極限に来ていた。アンは静かに寝息を立てていた。ユウコは2人を起こさないように腰を降ろした。自覚が無かったが睡魔が急激に襲ってきた。油断は出来ない。見張りがいない状況で眠るわけにはいかない。うつらうつらしかけた時、何か物音が聞こえた。一瞬でアドレナリンが溢れ出た。ユウコはアキラを揺り動かした。アキラは唸りながら目を覚ました。
「何だ」「物音がした」ユウコの警戒心がアキラに乗り移った。ガサガサという音がかすかに聞こえた。その音はゆっくりと近づいて来た。アキラとユウコは素早くドアの両脇に移動して、侵入者にそなえた。ドアが音を立てて開いた時、2人が感じたのは鼻を突くような臭いだった。現れたのはボロ切れのような服に身を包んだ老人だった。老人は2人に気が付いて、腰を抜かした。
「驚かすなよ。君たちは何者だ」ユウコは老人を助け起こした。髪は伸び放題で、顔は汚れで真っ黒だった。「話せば長くなります。あなたはここに住んでいるんですか」アキラの質問に老人はどう答えるべきか考えているようだった。
「ここには食べ物がある。お世辞にも美味しいとは言えないがな」
「あなた以外に誰かいるの」「いや。随分長い間、人間には会っていない。だから驚いたんだ」
「変な質問だと思うけど、こんな世界にはなったのはいつからなんです」
「荒廃した東京のことか」老人は再び考え込んだ。
「随分前のことだな。あっという間の出来事だったと思う」老人の言葉を探しているようだった。
「あの日のことは記憶が曖昧なんだ。目を覚ましたのはここの留置場だった。二日酔いでひどい頭痛だった。留置場に厄介になるのは初めてじゃなかったが、様子がおかしかった」
「一体何があったんだ」「そう急かさないでくれ」と言うと老人は水筒を取り出し、口に含んだ。酒の匂いがした。
「不思議なことに留置場は静まり返っていた。いくつもある箱も空っぽだった」老人は水筒の酒を再び口にした。話が終わる前に出来上がってしまいそうだった。
「留置場が空っぽなことも珍しかったが、警察官がいないことの方が普通じゃなかった」
「誰かいないのかと大声を出したが反応が無かった。何回か繰り返したが、同じだった。いい加減腹が立って、鉄格子をガタガタしていたら扉が音もなく開いた。馬鹿な警察官が鍵をかけ忘れたに違いないと思った。日本の警察官も落ちたもんだとその時は思った」
「それは一体、いつのことなの」老人は記憶をたどっていた。
「5、6年前のことかな。何しろ、世界から誰もいなくなったので、時間の感覚が無くなった」
「2035年のことじゃないの」「君がそう言うならそうなんだろう」「留置場にはどのくらいいたの」
「さあ。1日か2日か覚えていない。言っただろ。ひどく酔っていたと。それがそんなに大事なことなのか」「私たちはこの世界の終末の理由を知りたいの」「終末の理由。俺は神様じゃないんだ。そんなこと知るわけがないだろ」そう言うと老人は再び酒を口にした。アキラは奇妙なことに気が付いた。老人は話をする時は必ず真っすぐに顔を見つめることだった。
横を向いて話す時には反応が無かった。老人は耳が聞こえないのではないかという疑問だった。アキラはユウコをそばに呼ぶと老人に背を向けて話した。
「気が付いたか」「何を」「老人は耳が聞こえないようだ。だから話す時にずっと口元を見ている」
「確かに言われてみるとそうだわ」「この男を言うこと信じられるか」「何か隠している気がするわ」
「注意を怠らないようにしよう」老人はいつの間にか寝ているアンの顔を覗き込んでいた。
「その女に近づくんじゃない」老人は背中を向けていたので、アキラの声に気が付かなかった。肩に手をかけると飛び跳ねるようして、その場を離れた。
「この女はアンドロイドじゃないのか」「なぜそう思うんだ」「人間よりアンドロイドの方が詳しいからな。それより腹が減ってるだろ。この子を起こして、俺の住処に来ないか」そう言うと老人はスタスタと歩き始めた。「どうする」 アキラはユウコの顔を見た。
「行くあてがないなら付いて行くしかないわね」ユウコはアンに声をかけて起こした。青白い顔が気になった。「具合はどうなの」「あまり良くない。墜落の時の衝撃でどこかが故障したみたい」
「どこに行くの」ユウコは老人の後姿を指さした。
老人の住処は5階だった。そこは宿泊できるようにベットも台所もあった。ソファもテレビもあった。
「今、お茶を出すからくつろいでくれ」アキラはテレビの電源をオンにしてみたが、スクリーンには何も映らなかった。「もうずっとテレビは見ていない。邪魔なだけだ」
「あなたは一体、何者なんです」「今は見ての通りの老いぼれだが、若い頃は優秀な科学者だった。酒に溺れる前までは」「何を研究していたんです」「いろいろだ。だから、その子の修理も出来るよ」老人はアンにベッドに横になるように指示した。机の上に置かれていた道具箱から手のひらサイズの電子装置を取り出した。
老人はその装置を使って、頭のてっぺんから足の先までスキャンした。電子装置の画面には走査した部分の異常個所が赤い画像として浮かび上がるようになっていた。
「この部分が故障しているようだ」老人は引き出しからチップを取り出し、アンの背中の開口部からチップをはめ込んだ。「最初は少し違和感があるかもしれないが、すぐに慣れて普通に戻る」
「君たちは人間だから修理はいらないな。実は人間の方は専門外なんだよ」アキラとユウコは老人に今まで経験したことをすべて話した。
「実に変わった経験をしてきたな。興味深い話だ」「あなたはどう思いますか」
「どう思うか。俺に意見を求めているのか」「人類は滅んで、宇宙人に再生されたと思いますか」
「どうかな。俺は昔のことをあまり覚えていないんだ。この世界が普通じゃないことは分かるが」
「覚えていることを教えてもらえますか」ユウコの問いに老人は遠くを眺めるような目をしていた。
「思い出せない。大勢の人間がいたが、突然いなくなった」「みんなどこへ行ったの」
「核戦争が起きたの。未知のウィルスによるパンデミックそれとも異星人の襲来」老人はため息をついて、どこか遠い方を見るような目をしていた。
「覚えているのは大勢の人が一斉に同じ行動を起こしたことだ。それは奇妙な光景だったな」
「何がきっかけだったのか。男も女も老人も子供もまるで催眠術にかかったように一人また一人と集まって、行進を始めた。小さな流れが集まり、小川が大河に変わっていった」
「集まった人々はどこへ行ったの」「分からない。延々と続く行列が突然途切れるとそれからは人の姿は完全に消えた。不思議なのは人間だけではなくて、あらゆる動物が消えたことだ。犬や猫、空を見上げてみろ。鳥の姿も消えた。こんな光景想像できるか」アキラとユウコは老人の言うことの正しさに気が付いた。地上に出てからまったく動物の姿を見ていないことだった。
「それはいつからのことなの」ベットから起き上がっていたアンが訊ねた。
「多分、人間が消えた時期と同じころだと思う」「ここは安全なの。襲われたりしたことはないの」
「襲われる。誰に。この地上からは人間も動物も消えたんだ」老人は警視庁の5階の窓から荒廃した東京の街を見下ろしながら言った。アキラは老人の隣に立ち、動くものの気配がないかを見ていた。風に揺れる街路樹と散乱したゴミがお堀の方に飛ばされていった。不思議な光景だった。デスゾーンと呼ばれる無法地帯が墓場のような静寂に包まれていた。
「一体何を信じたらいいのか分からなくなったわ」ユウコが言うとおりだった。ここには戦うべき敵がいなかった。その時だった。突き上げるような震動が襲ってきた。窓から見える高層ビルが激しく揺れていた。
「地震だ。これは大きいぞ」巨大地震にも耐えられる免震構造の超高層ビルが振り子のように激しく揺れていた。老人は皇居前の8車線道路が引き裂かれるように陥没していく様子に驚愕した。
最初の揺れから数秒後に激烈な縦揺れと横揺れが同時に襲ってきた。立っていることは不可能だった。床はまるで嵐の中の海面のように上下に波立った。不気味な音がした。地震の巨大なエネルギーが建物の構造物に致命的な損害を与え始めていた。4人は床に伏せて揺れが収まるのを待つしかなかった。巨大地震の揺れは2分近く続いた。床のタイルは剥がれ、波打っていた。
「あれを見て」ユウコの指し示す方向に真ん中から折れて、崩壊していく高層ビルの無残な姿があった。ドミノ倒しのように設計限界を超えたビル群が倒壊し始めた。
「このビルは大丈夫なの」アンは震えていた。老人は机の下で怯えた表情でアキラを見ていた。
「様子を見に行く」ビルのあちこちから破壊による音が聞こえてきた。
「待って。私も行く」アキラとユウコは天井板が落ちて、ケーブルやタイルが散乱するフロアを注意深く歩いて行った。アキラとユウコは不気味な音の変化を感じ始めていた。
「ユウコ、戻ろう」「倒壊するの、このビル」「時間が無い。急ごう」アキラは走り始めていた。ユウコも続いた。アンのいる場所まであとわずかというところで、床が崩れ始めた。老人の顔は恐怖で引きつっていた。ビルが自由落下を始めた。あらゆる物が一瞬、重さを失った。悲鳴を上げる者、走馬燈のように過去の記憶をたどった者、神に祈った者、何も考えなかった者、それぞれだった。
ビルは途中からお堀の方に向かって倒れていった。アキラは全身の痛みでうめき声を上げた。痛みの範囲が広くて、特定できなかったが、上半身に重い物がおおいかぶさっていることは、はっきりと分かった。近くでユウコの声がした。
「アキラ、大丈夫なの」「何かがおおかぶさっていて、動けない。ユウコは大丈夫なのか」
「瓦礫の中にいるけど、何とか動ける」「そこから抜け出したら、こっちの状態を見てくれないか」埃だらけになったユウコの顔がぼんやりと見えた。
「天井板がかぶさっている。梃子になるものを探してくる」アキラは両手で持ち上げようとしたが無理だった。長い時間が過ぎたようだったが、実際は5分くらいだった。ユウコが梃子代わりの鉄の棒で天井板をゆっくりと持ち上げた。アキラはゆっくりと這い出した。あちこちに切り傷と打撲があったが、何とか動けそうだった。
「アキラ、顔が血だらけよ」額から流れ出た血が固まっていた。二人は手分けして、アンと老人を声をからして探したが見つからなかった。
「とうとう二人だけになってしまった。これからどうする」アキラは疲れ切った表情でユウコに尋ねた。
「人類は絶滅したと言っていたけど、老人は生きていた。これも仮想現実の世界じゃないの」
「正直言って、何を信じていいのかまったく分からなくなった」ユウコはこんなに弱気なアキラを見るのは初めてだった。
「これからどうするの」ユウコも途方に暮れていた。その時、アキラの胸ポケットで震動があった。それはGPS装置だった。人類が絶滅してもGPS衛星が稼働しているのが不思議だった。取り出した画面に緑の光点が光っていた。光点はゆっくりとだが、移動していた。
「ユウコ、これを見てみろ」「ケンが生きているのでは」「場所はどこだ」光点は皇居の北の外れだった。この光点が何を意味するのかは分からなかったが、前に進むしかなかった。
「行こう」二人の歩みはゆっくりしたものだった。道路はあちこち陥没していた。ビルの窓は割れ、外壁が崩れかけていた。今にも雨が降り出しそうな空を見上げても鳥の姿は無かった。
「おかしい」アキラは光点の移動する場所を凝視していた。
「どうしたの」「光点の場所を見てみろ」光点はお堀の中をゆっくりと移動していた。
「泳いでいる。水生生物なの」「生物とは限らない。でもなぜ仲間のGPS装置を持っているんだ」
「その疑問に答えるには行ってみるしかないわね」堀に近づくにつれて、ポツポツと雨が降り始めた。そして、光点が示す場所を見下ろす場所に着いた時には雨は本降りになっていた。
二人は全身がびしょ濡れになりながら、動かなくなった光点の水面を凝視していた。
「まったく動かなくなった」「波に揺られていただけじゃないの」「そんな動きじゃなかった」
「生物だとすると水中でこっちを監視しているのかもしれないわ」服に染み込んできた雨のせいで体が震えた。このままじっとしていると低体温症になりそうだった。二人は堀から離れ、雨に濡れない場所に移動した。
「ユウコ、お堀で見たリング状の物体のことなんだが、これは追体験だと思う。異星人は何度も実験をしたと言っていた。同じ体験をあえてさせるのには意味があると思わないか」
「人類絶滅の謎に近づいているということ」「そうかもしれない」
「だとしても、私たちは次に何をしたらいいの」「何かが起きるのを待つか。それとも行動すべきなのか」「光点を追ってみる」「潜水用具も無く、潜るのは危険だ」二人は背後から近づいて来る物音に気が付いた。そこに立っていたのはアンだった。埃だらけ傷だらけの姿だった。
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