第13話 東京デスゾーンⅤ 怪物

 ケンの恐怖は頂点に達していた。迷路は永遠に続いているようで、気味の悪い金属音は近づいたり遠ざかったりしていた。誰かが見ているのか、天井照明が明るくなったり、暗くなったりしていた。

どこにも監視カメラは無かった。ケンは壁の向こうにいる怪物がいつ現れるかと神経を研ぎ澄ましていた。いつのまにか金属音が聞こえなくなっていた。アキラとユウコは一体どこにいるのか。

 携帯端末から何かが近づいてくることを知らせるバイブレーションを感じた。照明が一層暗くなった。この迷路は誰かが監視しているのではないかと思った。天井にわずかな歪みがあるように感じた。まさかと思った瞬間、天井に張り付いていた何かが現れた。ケンは反射的に銃を向けて、弾倉が空になるまで撃ち続けた。怪物は周囲の色に体表を合わせることができた。銃弾が当たった所からは緑色の体液が滴り落ちた。どこに当たったかは判然としなかったが、悲鳴のような気味の悪い音を立てながら退避していった。

 突然、激しい痛みが左腕を襲った。左袖の部分が数十か所ズタズタに切り裂かれていた。左の上腕部が深くえぐられていた。鋭いナイフで切られたような傷だった。ドクドクと流れ落ちる血を止めるためにズタズタになった袖を破って、止血帯の代わりにした。ケンは怪物が去った方向と逆の方向に歩き出した。怪物はカメレオンのように体表の色を周りの環境に合わせて変化させる能力を持っていた。それだけではなく、鋭利な刃物のような武器と天井を高速で這い進む能力も持っていた。ケンはカメレオンとカマキリの融合した生物を想像していた。

 もしかするとこの迷路は蜘蛛が蜘蛛の巣で獲物を狩るようなものかもしれなかった。そうだとするとこの迷路から脱出するには、あの怪物を倒すしかなかった。自分の持っている武器であの怪物を倒すことは不可能なことのように思えた。この迷路には身を隠す場所が無かった。あの怪物は体表を周囲の色に変化することが出来る。相手に気付かれずに近づけるというのは決定的に有利だった。むやみに動き回っては勝ち目は無かった。

 ケンは必死に策を考えた。そして、背後から襲われる心配の無い通路と通路が直角で交わる角の部分で待ち受けることにした。この場所ならば視線の移動も最小限になる。ケンはリストバンドに仕込んでいたピアノ線を引き出した。ピアノ線がこんな時に役立つとは思ってもいなかった。

 角の左側にピアノ線を張った。怪物の視力がどの程度が分からないが、ピアノ線に触れれば動きで分かるはずだった。角に背を向けて座った。銃弾が尽きた時に戦えるようにサバイバルナイフを左側の腰のベルトにさした。怪物が姿を消してから2時間が過ぎようとしていた。恐怖の後に疲労から強烈な睡魔が襲ってきた。意識が飛びそうになるのを必死にこらえた。その時、人差し指に巻きつけていたピアノ線がわずかに引っ張られる動きがあって、目が覚めた。アドレナリンが体中に一気に放出された。腰をわずかに浮かせて、素早く動ける体勢にした。

 視線はピアノ線の動きを追った。全神経と集中力が一点に向かった。空気の揺らぎのようなわずかな動きが見えた瞬間、ケンはトリガーを引いていた。ブスブスという鈍い音がして、確かな手ごたえを感じた。その時、耳元をシュと切り裂くような音がして、壁に何かが突き刺さった。壁には深くえぐられた跡が残っていた。金属的なシュルシュルという巻き戻す音とともにえぐられた壁の一部が舞うように空中を飛んで行った。

 ケンは壁面が飛び去る方向に向かって、ありったけの銃弾を叩き込んだ。床面が激しく振動した。

そこには見たことがない全長が3m近い怪物が横たわっていた。棘のような物に覆われた背中がゆっくりと上下していたが、その動きは緩慢になりやがて止まった。

「見事だ」ケンは突然、右隣に現れた男に驚愕した。銃を向けたが、銃弾は撃ち尽くしていた。

「あの怪物を倒した人間は君が初めてだ」男は感心しきりだった。

「誰なんだ」研究者のような客観的な言いぶりにケンは怒りを抑えきれなかった。

「私は生物化学者だ。6号を処分しろ。ついてきてくれ」男は壁に開いた四角い穴の中に入っていった。ケンが続いて入ると穴は元の壁に一瞬のうちに戻った。男は青白い顔をしていて、肉体も見るからに貧弱で、虚弱体質といってもよさそうだった。

 男は手を伸ばせば届く幅しかない長い通路を振り返ることもなく、歩き続けて突き当たった所で階段を上がり、ほぼ正方形の部屋に入った。部屋には、所狭しとモニターが置かれていた。2台のロボットが部屋の隅で侵入者を見張っていた。

「この部屋は何だ」「あの怪物が徘徊する迷路を監視するモニター室だ」ケンは迷路を監視している者の存在を感じていたが、この虚弱な生物学者は想像出来なかった。

「君は、俺があの怪物と死にもの狂いで戦っている時にこのモニターをずっと見続けていたというわけか」「正しく言うと観察と研究だ」「あの怪物の生態と弱点を見つけ出すことが私の研究のテーマだ」ケンは胸の辺りがムカムカしてきた。

「あの怪物の正体は何だ」「この世界は混沌としている。人間、アンドロイド、2Hと呼ばれる超能力人間、マイクロマシン、そして凶悪な犯罪者が覇権を争っている。この怪物が誰が作り出したかは知らない。しかし、少なくてもマイクロマシンを標的にしたものではない。もしかしたら、人間の遺伝子操作の過程で偶然作り出された生物かもしれない」

「それで、あの怪物の弱点が見つかったのか」「弱点はある特定の周波数の音を嫌がることだ。これが私の開発した装置だ」生物学者は自慢げにポケットから小さな装置を取り出した。

「怪物は何匹いるんだ」「数十匹、いや数百匹かな」「繁殖能力は高いのか」生物学者は少し考えてから言った。

「あの怪物の凄いところは、殺戮と繁殖の能力が高いということだ。実験室で見つけたたった1個の卵を孵化させて、わずか一か月でこれだけの数になった」ケンは自慢げに語る生物学者を憎悪に満ちた目で見つめていた。「つまり、お前があの怪物の育ての親ということか」

「そういうことになるのかな。ただ、あの怪物をコントロールする手段をまだ持っていない。それが分かれば鬼に金棒というわけだ」ケンはこの生物学者の狂気に満ちた野望を見抜いた。

「なぜ助けた」「私は見てのとおりの虚弱体質だ。忠実なロボット2体だけでは、この世界を支配できない。強い仲間が必要というわけだ」

「なるほど。よく分かった。マッドサイエンテイストの夢というわけだ。残念だが君の夢はかなわない」ケンは生物学者の顔に一撃を加えて気絶させた。ケンは生物学者から装置を奪うとロボットに命令した。「さあ。今からは俺がボスだ。この男を運ぶんだ」生物学者は耳障りな金属音で目を覚ました。左頬が腫れて、ズキズキ痛んだ。どうやら冷たい床に寝ていたようだ。なぐられた衝撃が残っているせいで、腕時計の針がぼやけて見えた。上体を起こして、自分が迷路の中にいることに驚愕した。あの男は怪物が徘徊する迷路に放置していったのだ。口の中にある硬い物を吐き出すと血と一緒に折れた歯が2本落ちた。再び壁を引っ掻く金属音が聞こえてきた。

「助けてくれ」という悲鳴に似た絶叫が通路に響き渡った。

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