第12話 東京デスゾーンⅣ 迷路と地下水路

 はるかに離れた場所だったが、不安にかられている人間がここにもいた。ケンは仲間と離れ離れになり、進退が極まっていた。わずかな隙間を抜けて、部屋の外の廊下に出たが埃が溜まっていたが物が散乱しているわけでは無かった。ここは完全に放棄された場所ではないようだった。デスゾーンは地域ごとに支配者が違っていた。この地上のゾーンの支配者が誰なのかをケンは知らなかった。薄暗い廊下に目が慣れるとゆっくりと歩を進めた。この建物の廊下はまるで迷路のようだった。ケンは途中で迷路を脱出する左の手を法則を利用することにした。

 左手を壁につけていけば、出口に出られるはずなのだが、もし出口が迷路の中心部にある時はこの方法は使えない。しかし、なぜこの建物がこんな構造になっているのかは不思議だった。その時、何か重い物を引きずるような異様な音が壁の向こう側から聞こえてきた。ケンはその場に凍りついた。壁に耳を当てると呻くような奇妙な声が耳の奥に届いた。その声はおぞましく気分が悪くなった。引きずるような音の後に壁に何かを叩き付ける音がした。悲鳴と同時に骨が折れる音がした。ケンはその瞬間、背筋が冷たくなった。

 迷路の向こう側では、何か得体の知れない惨劇が進行中だった。見えない敵にケンは今まで遭遇したことのない恐怖を感じていた。右手に握った拳銃のグリップが汗でぐっしょりと濡れていた。壁の向こうに誰かがいるのは間違いないが、進むことによって、敵に近づくのか遠ざかるのかはまったく分からなかった。ケンは身を固くして、壁の向こうの様子をうかがった。

 再び、引きずるような音が聞こえた。そして、グシャグシャという音とバキという骨を砕く音が聞こえた。ケンは耳を当てていた壁から思わず飛びのいた。壁の向こうにいる相手は獲物を食べているのだ。ケンは自分が立てた音が壁の向こうに気づかれたのではないかと耳を澄ました。

 グシャグシャという音が突然止まると同時に自分の心臓も止まったと思った。そして、獲物を投げ出す音と同時に今までとはまったく違う走り出す音が響いてきた。壁の向こうの何物かが新たな獲物に気が付いたのだ。ケンはなるべく音を立てないように走り出した。壁が途切れる角の手前では立ち止まり気配がないかを確かめた。運悪く迷路の行き止まりに追い詰めれたら、逃げ場がない。

 汗が噴き出しくる。後ろからなのか、前なのか音が反響して、方向が分からなかった。床や壁を金属で引っ掻くような耳障りな音が空間を満たしていた。


 アキラとユウコとワタルは、ところどころ水溜りのある通路をゆっくり進んでいた。この通路はゆっくりカーブしていた。「ここは一体どこなの」ユウコの後ろを歩くワタルは震えていた。アキラは二人の気持ちを落ち着かせなければと思った。

「ここは多分、東京湾まで続く地下河川の跡だと思う」「こんな所に人が住んでいるの」「早く地上に出よう」ワタルの声は弱弱しかった。「上は敵ばかりだ。先に進むしかないだろう」「ここはとても危険だ」「ワタル、何を恐れている。何か知っているのなら話してくれ」ワタルは周囲を見回した後に立ち止まった。

「地上の世界より地下の世界の方が怖いというのは、生きて戻った者がいないからだ。地下に潜った者には人間らしい理性はない。我々には想像できないような存在が支配しているという噂も聞いたことがあるんだ」「誰も正確な情報を持っていないなら、先に進むしかないわね」ユウコは再び歩き始めた。地下河川の所々に明かりが灯っていたが、明るくなったり暗くなったりしていた。

「何か聞こえないか」アキラは数分前から背中に空気の力を感じていた。「確かに聞こえるわ」

「大変だ」今までユウコの後を歩いていたワタルが泡を食ったように全速力で走り出した。アキラもユウコも何が起きようとしているかを瞬時に理解して、ワタルの後を追って走り出した。ヒタヒタと水が迫っていた。アキラの心臓は爆発しそうだった。緩やかなカーブを全速力で駆けぬけようとした時、前方に階段状の構造物が見えてきた。ワタルが先頭、次にユウコ、アキラが最後方を走っていた。アキラは階段状の構造物の最上部にドアがあるのを認めた。あそこ辿り着けば助かると思った。

 地下河川の川床に靴底が濡れるような水が迫ってきていた。押し寄せる空気圧と圧倒的な水音が恐怖心をかきたてた。ワタルが階段の一番下に辿り着いた時にアキラの膝まで沈む奔流が襲ってきた。急激に前進することが困難になった。次々に襲ってくる波に押し流されそうになりながら、階段を一歩一歩上がった。最初に最上部にたどりついたワタルが必死にドアを開けようとしていた。

「アキラ、ドアが開かない」ユウコが悲痛な叫びを上げていた。水はすでに3人の腰まで達していた。ドアは水圧でびくともしなかった。ドアは潜水艦に使われているような頑丈な物だった。

「力を入れろ」3人は激流に押し流されそうになりながら、ドアを開けようと必死だった。水流はさらに増して、アキラの胸に達していた。ワタルは溺れそうになっていた。

 その時、突然ドアが内側から開いた。流れ込む水と一緒にアキラは中に吸い込まれた。ワタルは水を飲んで溺れかけていた。開いた時と同じように頑丈なドアが瞬間的に閉まった。アキラは隣で意識を失っているワタルを蘇生させるために人工呼吸を施した。水を吐き出すとワタルは意識を取り戻した。その時、アキラはユウコの姿がないことに気が付いた。アキラはドアのハンドルを回そうとしたが、その手をさえぎる者がいた。

「その手を離しなさい」「向こうに仲間がいるんだ」「トンネルは水で満たされている。ドアを開ければここも水没する」「仲間を見殺しにはできない」「運が良ければ彼女は助かるかもしれない」アキラは自分の手の上に被さった手を払いのけようとしたが、その力強さに驚いた。その手の持ち主はグレーの体に密着するような服をまとっていた。通信装置を組み込んだヘッドギアを被っていた。

「ドアを閉めるのがあと少しでも遅れていたら、ここも水没していた。水はすぐにひくわ。あなたの仲間を探してみましょう」この女の答えにアキラが納得出来るわけがなかった。同じような格好の男たちがぐったりしているワタルを担架に乗せて運ぼうとしていた。

「水が引くのはいつだ」女は腕時計を見た。「後5分だわ」アキラはドアに耳を当てた。激しく打ち付けるような音がしだいにおさまってきているのが分かった。

「開けてくれ」「まだ十分水が引いていない」「お願いだ。開けてくれ」女は首を振りながら言った。

「まったく聞き分けの無い人ね」女は誰かと話すとドアは音も無く開いた。真っ暗な地下水路に灯りが灯り始めていた。あの奔流が嘘のように地下水路の底を濡らす程度の小川に変わっていた。

 アキラは水音を立てながら走り出した。その後を女が追った。どのくらい走ったのか息が切れた。そして、アキラは何かにつまづいて激しく倒れた。そこに倒れていたのは、泥まみれになった水死体だった。アキラはうつ伏せになっている死体に戦慄した。女は泥まみれの死体を足で裏返した。顔の半分は骨が露わになっていた。

「この死体はあなたの仲間じゃない。腐乱状態からすると3日以上経っている」アキラは立ち上がると女の目を凝視した。その目は怒りに燃えていた。

「少しは死んだ人間に敬意を払え」「こんな所に迷い込んで死ぬは自業自得。私は何も感じない」

「この地下水路はどこまで続いているんだ」女の目は黄金色に輝いていた。

「ずっと先まで続いている。最終的には東京湾につながっている。仲間が流されていれば簡単には見つからない。それからここに長くいるのは危険だわ」「何があるんだ」女は姿の見えない何かに脅えているようだった。女は踵を返すと早足で来た道を戻り始めた。アキラはしばらくその場に立ち尽くしていたが、意を決すると女の後を追った。

「いったい、何を恐れているんだ」ヘッドギアに隠れた頭髪から汗が滴り落ちていた。アキラは女の沈黙と張りつめた緊張感に言い知れぬ恐怖を感じ始めていた。

「走って」女は全速力で走り出した。アキラもその後姿を追った。ひたひたと何物かが迫ってくる気配を感じた。ドアに辿り着いた時は、息が絶え絶えになるくらいだった。女がドアをくぐり、アキラがその後に続いて、ドアを閉めようとした瞬間、左肩に何かが触れた。「早く閉めて」女の声に呼応して、ドアの電動装置が作動した。アキラは左肩に触る物を払いのけた。ドアが閉まった瞬間、凄まじい悲鳴が耳奥まで貫いた。ドアに挟まれていた腕が切断されて、床にドサと音を立てて落ちた。切断面からは白い骨と肉がのぞいていた。床に広がったのは不気味なくらいどす黒い血だった。

「危なかった」女は肩で息をしていた。「一体、何が起きたんだ」「あの化け物が最下層を支配している」アキラは床に落ちた腕が動いていることに驚愕した。紫色に変色した5本の指を使って、アキラに近づいていた。アキラが腕を蹴る前に女が銃で蜂の巣状態にした。最初に見た時と今では女の表情は一変していた。ヘッドギアを脱いだ額と髪の毛からは汗が滴り落ちていた。

「ここにいては危険だわ。行きましょう」アキラは女の後を追った。

「地下水路に入る前に会った醜い大男のことを知っているか。背中に槍を背負っていた」女はわずかにうなずいた。「知っている。みんなから嫌われているハイエナのような奴よ」通路を上ったり、下りたり何度も繰り返した後にたどり着いたのは、正面に大きな電光掲示板がある横長の大部屋だった。電光掲示板は何年も前に停止しており、埃をかぶっていた。

 この部屋には20名ぐらいの男女がいたが、全員がヘッドギアを付けていた。ワタルは部屋の隅に置かれたベッドの上で寝ていた。アキラの呼びかけに目を開けたワタルは弱弱しくうなずいた。

「君はデスゾーンの外の人間だろう。何をしに来た」リーダーらしい男がいつのまにか背後に立っていた。ヘッドギアを脱いだ男はスキンヘッドだった。アキラの見る目は突き刺すように鋭かった。

「デスゾーンに捕らわれているある少年を救いにきた」スキンヘッドの男の表情にわずかな変化が起きた。

「その少年とは何者だ」「それは私にも分からないが、特殊な能力を持っている」ワタルはそれ以上話すなという仕草をしていた。

「興味深い話だが君たちがこのデスゾーンの中心まで行くのは不可能だ」アキラはスキンヘッドの男の言葉に引っかかった。この男はヒカルについて何か知っているに違いなかった。

「ここに来るまでに2人の仲間とはぐれた。少年を探すのを手伝ってもらえないだろうか」

「なぜ君たちを助けなければならない。その少年を救い出すことによって、私たちに何か得るものがあるのか」スキンヘッドの男は言葉とは裏腹に考えていた。

「救ってくれたんだから君たちは敵ではないと判断する。その少年はこの世界の謎を解く鍵になるらしい」「デスゾーンは多重構造になっている。縄張りを犯せば我々の命は無い」ワタルはベッドから起き上がろうとしていた。

「アキラ、地下は危険だ。地上に出よう」「だがどうやって出るんだ」ワタルは沈黙した。

「私たちが支配している場所はとても狭い。まわりにいるのは凶悪な連中ばかりだ。引き返した方がいい」「引き返すことは考えていない。仲間を見つけるためにも先に進まなければいけない」

「自分にやらせてください」スキンヘッドの男の背後から一人の若者が名乗りを上げた。背はアキラとほほ同じぐらいだったが、がっちりとした体格の男だった。

「だめだ。お前にもしものことがあったら、皆を誰が率いていくんだ」「父さんがいるじゃないか」

「私もいつまでも生きているわけじゃない。行ってはだめだ」「父さんも分かっているだろ。この狭い世界に留まっていても未来がないことが」「外はここよりはずっと悲惨な世界しかいないぞ」

「悲惨という世界を自分の目で確かめてみたい」若者の決意はかたかった。父親と息子は言い合いを続けた。それはどこまでいっても平行線だった。

「少年のことを何か知っているんじゃないか」父親はその問いに戸惑いを見せた。

「あなたは少年がデスゾーンの中心部に捕らわれていることを知っていた」

「それは君が話したことだ」「私はデスゾーンに捕らわれているとは言ったが、中心部とは一言も言っていない。あなたが少年について知っていることの証拠だ」若者は父親を凝視していた。沈黙が続いた。その時、アキラは腕時計型情報端末にメッセージが届いたことを知らせる振動を感じた。

 メッセージは助けを求めるユウコからだった。メッセージは「助けて」という短いものだった。アキラはユウコの置かれている状況が危機的なものであることを感じ取った。

「仲間が助けを求めている。ワタル、出発だ」ワタルの視線は下を向いたままだった。

「地下水路に戻るのは嫌だ。行くなら一人で行ってくれ」ワタルは地下深くなるにつれて、恐怖心が増幅して、すっかり臆病な少年に変わり果てていた。こうなれば一人でも行くしかなかった。

「私が一緒に行こう」若者が言い放った。「助けを求めている人には施しを与える」若者の言葉に周りにいた者はうなずいた。

「仕方がない奴だ。必要な武器は何でも持って行け」父親は諦めたように言った。グズグズしている暇はなかった。

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