第11話 中国 辺境Ⅳ

 アンはあてどなく、走り続けていた。荒涼とした大地がどこまでも続いていた。国家は消滅し、無秩序が世界を覆いつくしていた。宗教で結びつく集団と暴力による集団の間に恐怖に脅える孤立した集団が散在していた。アンはどの集団にも属していなかった。唯一頼れるパートナーを失ったアンには絶望感しかなかった。アンは中国が過去の栄光を取り戻すべく、完成させた絹の道を走っていた。新シルクロードは中国が崩壊した後は放置されたため、舗装は剥がれ荒れ果てていた。アンドロイドが平穏に暮らすことが出来る場所がこの世界にあるのだろうか。

 この世界を支配しているのは、人類が遺伝子操作で作り出した新人類、人類が作り出し、自己増殖を始めたマイクロマシンなのだろうか。人類が作り出したアンドロイドが支配していないことだけは確かだった。人類は自ら作り出した悪夢のような世界の覇権を再び取り戻すことになるのだろうか。アンにはまったく予想出来なかった。

 不毛の大地の上空を獲物を狙う鷲のようにアンの運転するSUVを無人機が2時間も前から追尾していることには気がついていなかった。この無人機は太陽光でフル充電されていれば、12時間以上飛行が可能だった。

 アンは丸二日間、1台の車にも出会わなかった。そのため、どこまでも続く直線道路の遠い先に小さな黒い点はフロントガラスについた埃だと思った。しかし、その黒い点が次第に大きくなり、1つではなく、いくつにも分かれ始めたのを見て、恐怖感が湧き上がるのを感じた。アンは急ブレーキを踏んだ。あの黒い点は人に違いなかった。こんな場所に検問があるとは思わなかった。

 検問所の人間は盗賊と違いはなかった。アンは車をUターンさせて、逃げ出そうと考えた。しかし、ルームミラーに背後から迫って来る車列を見て、それが不可能なことを悟った。アンは人間に捕まったアンドロイドがどんな悲惨な目に合わされるかを数限りなく見ていた。こんな世界の果てのような場所では、想像するだけで身の毛がよだった。アンはグローブボックスから手榴弾を取り出し、安全ピンを抜こうとした。ピンを抜こうとした手を力強く押さえる手があった。

「止めなさい」運転席の窓の外からアンを見つめる目は優しかった。

「安心して。私たちはあなたと同じアンドロイドです」アンの目に涙が溢れた。車に乗り込んできたのは二人だったが、顔に白い布を巻いていたので人相は分からなかった。砂嵐と強い日差しを避けるための白い布を取り去ると現れたのは、美しい顔の二人の男女だった。日焼けして精悍な表情をしていたが、20代前半のように見えた。

「この辺りに長く留まっているのは危険だ。私たちの車が先導するのでそのあとに続いてくれ」

「心配しないで。私たちがあなたを守ってあげる」微笑む女の肌は白く透き通るようだった。アンを見つめる瞳は地中海の海の色のようなエメラルドグリーンに輝いていた。今まで出会ったアンドロイドの中で一番美しい女かもしれなかった。

 車列が進みだして、間もなく最前列の車が突然炎を上げて、空中を横転しながら吹き飛んだ。その光景に二人の顔色は一瞬にして、蒼白に変わった。2台目の車は道路わきの地中から突然姿を現した巨大な昆虫の怪物につかまれた。アンは地中から怪物が次から次に現れるのを見て、恐怖で絶叫した。車列は前進から全速力で後退を始めた。

 地上に現れた巨大昆虫の怪物にドローンから発射されたミサイルが命中して、バラバラに吹き飛んだ。怪物はこの攻撃に怯んだのかあっという間に地中に姿を消した。

「あの怪物は何なの」「あいつが現れるようになったのはつい最近のことなの。その正体はまだ分かっていないわ。分かっているのは、あいつが人間やアンドロイドを餌にしていることよ」アンは辺境の地で新たな敵が現れていることに驚愕した。

「あの化け物を作り出したのは誰なの」「人間とアンドロイドではないことは確かね。マイクロマシンが生物を作り出すとは考えにくいから、一番可能性があるのは新人類だけど彼らは都市部にいてこのあたりにはいない」「突然変異なの」「分かっていることは新たな敵が現れたということ」

 車から降りた男が前方の地上に向かって、数十本の槍のような物を発射した。地上に突き刺さった槍の後部は赤い光が灯っていた。赤い点は次第に黄色に変色し、数分後には青色に変わった。

「あれは、地中の物体を探索するセンサーだ。青色に変わったから、奴らはこの近くにはいない」車列は再び全速力で走り出した。何も無い荒涼とした大地を走る2時間はとても長く感じた。舗装された道から外れて、1時間ほど走ったところで小高い丘がいくつか並ぶ場所にたどり着いた。

「ここが我らの住処だ」男が指差したのは手前から3つ目の丘の頂上だった。車は丘と丘の間の死角になる位置に停車して、頂上を目指して歩いた。

 頂上は中世の城のように城壁で囲まれていた。入り口は頑丈な鋼鉄製の門だった。円形の敷地に周囲を見渡せるように円柱状の建物が一つ建っていた。この建築物は軽くて耐久性のあるグラスファイバーと炭素繊維で出来ていた。アンはここの住民の前で紹介された。

「アン、君を歓迎するよ」アンを紹介したのは、代表者のドクターの愛称で呼ばれる男だった。ドクターと言っても医者ではなく、自然科学に造詣が深いからだった。ドクターの容貌は独特アンは車に同乗していた若い女性のダイアナと同室になった。部屋は広く、シャワー室もあり、空調もきいていて快適だった。

「ドクターはこの施設のすべてを設計したの。凄い人だと思う」人という表現にアンは思わず笑った。

「ここに住んでいるのは何人なの」「88人よ。でもさっき4人が亡くなり、あなたを入れると85人になるわ」「こんな辺境の地で食料や燃料なんかはどうやって調達しているの」ダイアナは少し考えた後に声を潜めて言った。

「ここから北に30キロほど行った場所に鉱山があるけど、今は放棄されているわ」「なぜ放棄されたの」「理由は知らないわ。そこではいろいろな物が手に入るのよ」アンは頭の中に地図を描いていた。希少金属と言われる資源はなぜか中国の辺境にあった。そこは少数民族が支配する地域のため、漢民族は中国からの独立を決して認めようとしなかった。

 放棄されたという鉱山は希少金属を掘り出していたのに違いなかった。アンには放棄された理由について、思い当たることがあった。鉱山の従業員の町に電気を供給するために作られた原子力発電所で事故があったという噂だった。放射能で汚染されたために町は閉鎖され、必然的に鉱山も放棄せざるを得なかったというのだ。この噂の真偽はさだかではなかったが、放棄された鉱山が存在するのは事実だったのだ。

「アン、疲れたでしょ。これは元気を回復する特製ドリンクなの。飲んでみて」ダイアナがら渡されたグラスにはピンク色の液体が入っていた。アンは不安を覚えたが、ダイアナが自分のグラスを一気に飲み干すのを見て、一口飲んでみた。冷えた液体が心地よい喉越しで、甘さに飢えていた体に拡がっていった。すべてを飲み干した頃にはほろ酔いのような状態で、いつの間にかベッドに横たわって、寝息を立てていた。

 アンがベッドの上で目を覚ました時には、部屋には誰もいなかった。月の光がかすかに部屋の様子を浮かび上がらせていた。アンはよろめきながら立ち上がり、窓に歩いていった。西の空に三日月が出ていた。時計は午前3時半をさしていた。何かが動いているのが目に入った。建物の周囲を黒い影が動いていた。アンは不吉な予感を感じ始めていた。アンドロイドのユートピアと思った所は、マイクロマシンの奴隷と化したマイクロマシン製造工場だった。

 ここはアンドロイドが本当に安心して、暮らせる場所なのだろうか。それにあの巨大な昆虫の怪物は何なのか。あんな怪物の噂は聞いたことが無かった。この世界は混沌と破滅に向かっているようにアンには思えた。アンは肩にふれた手に思わず大声を上げた。

「脅かしてごめん」振り返るとそこにはいつのまにかダイアナが立っていた。ダイアナの表情は硬かった。「一体どうしたの」「奴らが襲ってくる」「奴らとは何なの」「あの怪物よ」巨大な昆虫の姿が浮かんできて、アンは身震いした。

「全員、武器を取って配置についている。私たちも戦わないと」そう言うとダイアナは棚から2丁の機関銃を取り出すと1丁をアンに手渡した。黒光りする機関銃はずっしりと重かった。廊下に出ると武器を持って走り出していく男たちの後姿を見て、緊張感が一気に高まった。

 アンとダイアナは城の頂上に出た。すでに多くの男女が四方を見張っていた。アンは城壁の下方に蠢く黒い物体に驚愕した。月明かりに照らされた荒地全体があの怪物に埋め尽くされていた。

その数は数千匹いや数万匹かもしれなかった。ダイアナの美しい顔は恐怖に引きつっていた。

「なるべく引き付けてから使え」若い男がアンに手榴弾を手渡した。銃弾が詰まったバッグを足元に置くとアンとダイアナは機関銃の城壁を這い上がり始めた怪物に照準を合わせた。

「あいつの急所は目と目の間よ」怪物の目は月明かりに照らされて、不気味に赤く光っていた。

「射撃開始」という声と同時に耳を劈くような射撃音が空間を満たした。ダイアナの叫ぶ声もかき消された。城壁の三分の二ほど這い上がってきた怪物の急所に銃弾が命中した。怪物は金属音のような音を立てながら、落下していったが、次から次へと這い上がってきていた。

 先頭集団の怪物は急所への銃撃で撃退出来たが、次の怪物には同じ手は使えなかった。6本足の前2本の足を目の前にかざして、銃弾の盾にしたのだった。この前足の先端は鋼鉄製の鋏のように頑丈で銃弾を受けてもビクともしなかった。その上、怪物は銃弾を避けることも出来るのだった。昆虫の複眼は人間の視力には劣るが、動体視力は人間の目をはるかに凌駕しており、銃弾さえ認識できる能力を備えていた。

「手榴弾を使え」若い司令官の声に呼応して、手榴弾の投下が始まった。アンもダイアナも手渡されたばかりの手榴弾を壁を這い上がってくる怪物に向かって投げた。ダイアナの投げた手榴弾は前足で弾き飛ばされたが、アンの手榴弾は怪物の手前の空間で爆発したため、効果抜群だった。

 3匹の怪物が吹き飛ばされた。手榴弾があちこちで爆発し、怪物の進軍が一時的に止まった。しかし、それはほんの一時の間だった。怪物は荒涼とした大地から湧き出るように出現した。上空を旋回していた3機のドローンからミサイルが発射された。ミサイルの爆発の衝撃は凄まじく数十匹の怪物が吹き飛ばされ、空中に胴体や足を四散した。怪物の血は緑色をしていた。

「このままでは弾薬が尽きてしまうわ」ダイアナの漏らした言葉にアンは戦慄した。戦う相手は多すぎるのだった。城壁の周りは怪物で覆いつくされていた。

 城壁の反対側で悲鳴が上がった。城壁を這い上がった怪物が仲間の一人を強靭な前足の鋏に挟んでいた。仲間を救おうと頭に向けて激しい銃撃を加えた。怪物は急所への攻撃を防ぐために挟んだ仲間を急所の前に置いた。勇敢な男が怪物の懐に飛び込んで、急所に槍を突き刺した。挟み込んでいた仲間を落とすと怪物は耳障りな音を発しながら、真っ逆さまに落ちていった。床に転がった仲間はかろうじて胴体がつながっていたが、背骨を断ち切られており絶命していた。

 あちこちで悲鳴が上がった。数匹の怪物が城壁を乗り越えようとしていた。防御線が破られようとしていた。その時、城全体が激しく揺れ始めた。

「何が始まったの」「分からないわ」アンとダイアナは激しい揺れに立っていることが出来ずに座り込んだ。「ぐずぐずしていられないぞ」ドクターが叫んでいた。その声に仲間は一斉に動き始めた。アンはダイアナに手を引かれて、走り出した。「どこに行くの」「ここにはもういられない。脱出するの」

 城壁の最上部に設けられた開口部から激しく水が噴き出していた。その水圧に怪物は抗しきれずに地面に落下していった。しかし、水圧が弱まると怪物たちはすぐに城壁を這い上がってくるに違いなかった。アンはダイアナに導かれるまま、城内を全速力で駆けた。大きな鋼鉄製の扉が開かれていた。そこには3機の巨大なヘリコプターが格納されていた。それは、米軍はオスプレイという名前で呼んでいた。恐怖にかられた仲間が次々にオスプレイに乗り込んだ。

 オスプレイは垂直に離陸することが出来るが、空中で翼の先のローターを水平にすることによって、飛行機のように飛ぶことが出来た。そのために通常のヘリコプターよりも航続距離が長かった。

オスプレイが飛び立つことが出来るように急峻な丘の側面が開いた。開口部の先にあるわずかな平らな場所にオスプレイは移動すると一機ずつ上空に飛び立った。アンとダイアナが乗ったオスプレイは2番目に飛び立った。窓から見えたのは城の頂上を怪物が這い回る光景だった。

「ああ、見て」ダイアナが声を上げた。最後に飛び立とうとしていたオスプレイに怪物が襲いかかっていた。その衝撃でオスプレイは平らな場所から押し出されてしまった。落ちる途中で崖にぶつかって、燃料を満載した機体は猛烈な炎に包まれ爆発した。

 仲間の三分の一があっという間に命を奪われたショックが悲鳴になって、機内を満たした。ダイアナは大粒の涙を流していた。アンは嗚咽するダイアナの肩を優しく抱いた。オスプレイは荒野を埋め尽くす怪物の大群の上空を北に向けて飛行していた。悲嘆と絶望に打ちひしがれていた仲間にスピーカーを通してドクターの声が流れ始めた。

「我々はジェイルに向かう。食糧と燃料がある場所だからだ。もう城には戻れない。新しい住処を見つけなければならない。希望はある。信じてついてきてくれ」ドクターの声に機内に喜びの声が上がった。「ダイアナ、ジェイルとは何処なの」ダイアナの顔に不安の影がよぎったのをアンは見逃さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る