第7話 中国 辺境Ⅱ

 アンとリーが目覚めた場所は奈落の底ではなかった。眩い光に溢れた緑の草原に二人は横たわっていた。鳥のさえずりの心地よい声に目が覚めた。草原は柔らかいカーペットのようだった。アンは起き上がり、周囲を見渡したが地平線近くに小高い森があるだけだった。

「ここはどこなんだ。SUVはどこにある」アンとは対照的にリーは警戒を怠らなかった。アンは途切れた記憶をたどっていた。二人が最後にいた場所は西域の極寒の地だった。ここは、まるで極楽浄土の場所のようだった。

「リー、私たちはこの世ではない所にいるのよ」「あの落下で死んだというのか。ちゃんと脈もあるし、心臓も動いている。俺たちは死んではいない」「じゃあ、ここはどこなの」アンは足元に近づいてきたリスに目を奪われた。前足で団栗を器用に回しながらかじる姿は可愛らしかった。左手を差し伸べると手のひらにリスは飛び乗ってきたが、その小動物にはまったく重さが無かった。右手でその背中を撫でようとすると通り抜けて左手に触れた。リスは仮想現実だった。

「アン」リーの声で眼前に現れた白髪の男性に気がついた。英国紳士のような仕立ての良い背広に身を包んだ男は口元に微笑をたたえていた。

「君たちを歓迎する」「ここは私たちと同じアンドロイドの世界なの」「世界中で迫害されてきたアンドロイドが平和に暮らせる世界だ」「ここはでも現実の空間ではない。地下に作られた施設なのか」 

 リーの質問に白髪の男性は微笑みながら答えた。「アンドロイドにも自然の環境が必要なんだよ」その時、緑の草原が銀色に輝く部屋に変わった。壁も天井も床もそして、机も椅子もすべてステンレス製だった。一瞬にして世界は無機質な世界に変わった。白髪の男性の代わりに立っていたのは赤い目をしたロボットだった。ロボットは旧式でボルトが丸見えだった。

「そろそろ正式に挨拶をしたいんだけど」壁とドアの継ぎ目が分からなかったが、ポッカリと開いた空間から二人の男女が現れた。男は背が高く、東南アジア系の顔立ちだった。女は男よりわずかに背が低かったが、金髪の北欧系の透き通るような白い肌だった。

「よくこの場所まで辿り着けましたね」女はいたわるような優しい声で言った。

「あちこちを転々としていました。中国には私たちのようなアンドロイドが安寧に暮らすことは出来ません。一か八かの賭けのつもりで最果ての地を目指してきました」

「ここにいる人たちは君たちと同じ覚悟を持ってここまでやって来た。歓迎するよ」男はほとんど表情を変えずに話した。その声は表情と同じぐらい感情がこもっていなかった。 アンもリーの不安感を感じ取っていた。

「やっと来たこの世界と仲間を紹介してもらえませんか」男は女を見やって、了解を求めているようだった。そして、しばらくの沈黙の後、重い口を開いた。

「分かりました。少し時間をください。作業をしている者もいるので」そう言うと二人は部屋を出て行った。「何かおかしくないか」「リー、心配のしすぎじゃない」リーは常に警戒を怠らないことで、生き延びられたという思いがあった。この場所がアンドロイドの天国だとしたら、なぜあの二人の表情に幸福感が見えなかったのだろう。

 待っていた時間は30分ぐらいだったが、二人には数時間のように感じられた。部屋にある物はすべてステンレス製だった。そして、この部屋全体もステンレスの箱だった。壁の上部にある換気口から暖められた空気が吹き出していたが、温度は低めだったため二人は寒さを感じ始めていた。

多分、室温は20度くらい。湿度はかなり低かった。部屋には温度を設定する装置は無かった。

「お待たせしました」案内役は金髪の北欧系の美女ダニエルだった。アンとリーが最初に案内されたのは植物工場だった。工場は体育館のように天井が高く、広かった。中は4つの区画に分かれていて、各区画は3段構造になっていた。野菜、果物など種類も多く、収穫時期を変えて効率的に栽培されていた。LED照明、水量、温度、湿度の設定、維持管理はすべてコンピュータが行っていた。

 管理者はモニター画面をチェックするのとその日に必要な分を収穫するだけだった。作業をしているのは、3人しかいなかった。次に案内されたのは、医務室だった。アンドロイドは、人工的に作られた生命体のため、具合が悪くなれば特殊な処置が必要だった。

「あなたたち、具合の悪い所はないの」医務室のドクターはラテン系の褐色の肌の女性だった。もう一人のドクターは東洋系だった。リーは中国人に対しては警戒心が異常なぐらい強かった。

「私は、カキザキと言います。ここでは唯一の日本人です」アンとリーは日本人と聞いて安心した。

「カキザキさん、私たちは中国人に対してとても恐怖心を持っているんです」

「その気持ちよく分かります。長旅の後です。体調はいかがです。一度健診をしてみませんか」カキザキの優しい心遣いにアンもリーもやっと心が安らいだ。

「用意しておくので後で来てくれ」「オーケー、お願いするわ」アンとリーが次に案内されたのは、ビッフエスタイルの清潔な食堂だった。食堂には100人以上の人たちがいた。

 アンとリーも久しぶりに暖かい食事にありつけた。食事は美味しかったが、皆黙々と食べ物を口に運ぶだけで会話が無かった。よほど作業が過酷なのか表情は疲れきっているように見えた。

「今日は、作業がきつかったです。いつもはもっと明るくて賑やかですよ」ダニエラが二人の様子に気が付いて、言い訳のように説明した。ダニエラは微笑みを絶やさず、清潔で整頓された施設を次々に案内した。

「これだけの施設をよく地下に作りましたね」リーは極寒の大地がコンクリートのように硬くて掘削が困難なことを知っていた。

「正確に言うとここは地下ではありません。山の中に作られています」「しかし、私たちのSUVは地下に落ちたはずです」「あれは、侵入者を防ぐために作られたトラップです。そのトラップにあなたたちが偶然落ちたのです。残念ながらSUVはかなり破損していて、部品が手に入らないので完全に直るかは分かりません」「修理工場があるのですか。見せてもらえませんか」リーは機械修理が趣味だった。ダニエラはこの要望に戸惑ったようだった。

「上の者に相談してみます。少し待っていてください」「私は修理工場には興味が無いので、健診を受けてきていいですか」アンの要望にはダニエラはすぐにオーケーを出した。

 アンは一人で医務室のドアを叩いた。カキザキはアンの顔を見るなり、嬉しそうに笑った。

「君はもうあがっていいよ」カキザキはラテン系の同僚医師が部屋を出て行くのを待った。

「それじゃあ、検査を始めるか。まずはスキャンから始めよう。これを付けてくれ」アンはカキザキに渡されたヘッドフォンを着用した。アンはドーム型の検査装置の中に入った。

「アン、聞こえるかい」「よく聞こえるわ」「こちらの内容が分かったら、頷いてください」アンは軽く頷いた。

「オーケー。その調子です」カキザキはマイクに特殊な装置を付けた。この装置を通せば外から内容を傍受することは出来なかった。

「これから話す内容はショックだと思うけど冷静に聞いてほしい。僕には仲間が必要なんだ」カキザキの意外な言葉にアンは少なからず衝撃を覚えたが、うなずいた。

「ここはアンドロイドの天国じゃない。むしろ地獄だと言ってもいいだろう。質問をしたいだろうが、黙って聞いていてほしい。そうしないと奴らに感づかれる。スキャンを始めるよ」カキザキは装置のスイッチをオンにした。ドームの中に低周波の音がこもり始めた。

「僕も最初に来た時は君たちと同じだった。ここを支配しているのはアンドロイドではなくて、マイクロマシンなんだ。マイクロマシンが生物と同じように増殖するのは謎だったが、辺境の地でアンドロイドを使って、マイクロマシンは増殖し続けている」アンはドームの中で体を硬くしていた。カキザキの話すことを必死に理解しようとしていた。マイクロマシンが生物のように増殖する謎については諸説あったが、ここが工場という説明は説得力があった。

「マイクロマシンが意思を持っているように行動しているのはなぜなの」カキザワは沈黙した。謎に対する答えを持っていないようだった。

「そのことはずっと考えていた。マイクロマシンが蟻や蜂のように集団行動しているのかもしれない。しかし、工場で自らマイクロマシンを製造していることを考えると命令しているボスがいるのかもしれない」アンは旧式のロボットを思い浮かべ、この場所のどこかに中枢機関があるに違いないと思った。「なぜ逃げ出さないの」「ここの監視体制は完璧だ。ここにいるアンドロイドの体内にはマイクロマシンが埋め込まれている。逃げ出せば爆発する」アンは自分の体が空中に飛散する光景を想像して恐怖で凍りついた。

「心配するな。君たちの体にはまだ埋め込まれていない」「何か手は無いの」「マイクロマシンが埋め込まれる前にやらなければいけない。僕はこの機会をずっと待っていたんだ。外の世界からやって来たアンドロイドは3年ぶりなんだよ。これ以上、話していると怪しまれる。ヘッドフォンを外してくれ」

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