第5話 中国 辺境
公安局庁舎に車が猛スピードで突っ込んだ。その瞬間、後部座席とトランクに積み込まれたTNT火薬が爆発した。爆発の衝撃は凄まじく、庁舎の三分の一は崩壊した。ウイグル族が漢族に対して、自爆攻撃を仕掛けたのだった。逃げまどう漢族を皆殺しにしようと銃や鉈を持ったウイグル族の若者が崩れた庁舎になだれ込んだ。大混乱に陥っているはずなのに、庁舎内は静まり返っていた。奇妙な音が聞こえてきた。ウイグル族の若者の顔に恐怖の色が浮かんだ。その奇妙な音を発するのは殺戮マシンと恐れられていた。その醜悪な形をした殺戮マシンはウイグル族を取り囲むように四方から現れた。四足の巨大な犬のような鋼鉄製の黒い物体だった。犬と言っても首も頭も無かった。頭の役目を果たす物は胴体の上にある半球体だった。半球には目が8個あり、前後左右すべての動きを察知していた。この殺戮マシンに探知されたら、逃げようがなかった。
ウイグル族の若者は醜悪な四本足に向けて、自動小銃を乱射したが、その分厚い装甲に銃弾は撥ね返された。一人の青年が勇敢にも鉈で四本足に挑んだが、切りかかる前に前足から飛び出した鋭利な刃先で腕を切り落とされた。噴き出る血を止めようと前かがみになった瞬間、首が吹っ飛んでいった。恐怖のどん底に叩き落とされた若者たちを殺戮マシンは執拗に追いまわし容赦なく惨殺していった。逃げまどうウイグル族を漢族の武装警察官は笑いながら見ていた。
背後に気配を感じて、振り返る前に走り出していた。悲鳴が聞こえた。また仲間が襲われた。深夜になると一人また一人とさらわれて、夜明けには無残に引き裂かれた亡骸が転がっている恐ろしい光景を何度見たことか。全速力で走り続けたために息が切れそうだった。立ち止まり、膝に手を置いて苦しげに息をしているすぐそばで足音が聞こえた。振り返った時、白く光る鋭い刃先が見えた。自分の上げた悲鳴で目が覚めた。
「また恐ろしい夢を見たのかい」リーはいつも優しかった。「ええ。いつも同じ夢なの。私たちには安住の地はないの」「アン、君のことは僕が守る。武装警察も他のことで手一杯さ」武装警察はアンとリーにとっては、恐怖以外になかった。リーとアンは武装警察の追跡を逃れるために居所を次々に変えるだけではなく、名前も身分も頻繁に変えていた。
二人のいる土地は、かっては新疆ウイグル自治区と呼ばれていた。中国共産党の腐敗と独裁政治に対する国民の不満が爆発して、中華人民共和国国内の混乱は10年以上続いていた。元々ウイグル族と漢族が激しく対立していた新疆ウイグル自治区は内戦状態に陥っていた。カザフ族、キルギス族、オイラト族など多民族地域なので、自治州、自治県など複雑な統治機構が混乱に拍車をかけていた。中央政府の統制がおよばない辺境の地のため、武装警察は単なる武装集団になっていた。強盗、強奪、強姦、強殺何でもありの恐怖の集団だった。
漢族の武装警察と激しく戦っているのは、ウイグル族だけで、数に劣る他民族は地域ごとに自警団を組織して、武装警察からの攻撃に耐えていた。アンとリーはどの民族にも属していなかった。そのため、自分の身は自分で守るしかなかった。
「アン、仲間がいる所に行こう」「そこに行けば逃げ回らなくてもいいの。枕を高くして眠れるの」リーはその場所の噂を聞いていたが、アンを安心させるために言った。
「もちろんだ。そこには仲間の自警団がいて、守ってくれる」リーは万に一つの賭けにかけるしかないと思った。ここに留まればいずれ武装警察に嗅ぎ付けられる。アンの精神は崩壊寸前だった。二人が目指す場所は人跡未踏の荒野だった。
二人を乗せたSUVは新疆ウイグル自治区の西端のクズルス・キルギス自治州を目指していた。こんな辺鄙な西域でも中国・パキスタン公路という立派な舗装路が延々と続いていた。行き交う車は少ない。標高は3千メートルを超えるため、ヒーターを入れないと凍えるように寒さだった。車窓には白い雪を被った天山山脈が雄大な姿を見せていた。アンは助手席で眠っていた。
カラクル湖が見えてきた。この湖は500万年前の隕石の衝突で出来たクレーターの中にあった。この湖は直径25kmあるが、周囲は荒涼としていて、無人の地だった。標高はすでに3,900mを超えていた。カラクル湖を過ぎた所で道をそれた。ここから先は舗装した道路はなく、GPSだけを頼りに進むしかなかった。悪路で車が前後左右に揺さぶられて、その衝撃でアンは目を覚ました。
「リー、目的地に近づいているの」「そのはずだ」アンは車窓に広がる草木が1本も無い極寒の大地に不安を感じ始めていた。こんな場所に人が住むことができるのだろうか。リーも同じ思いを持っていたが、こんな人跡未踏な場所だからこそ隠れ場所としては最高に違いなかった。天山山脈から吹き降ろす風は強烈で、巻き上げられた砂や小石が容赦なくフロントガラスを叩いた。道なき道を進むこと2時間、山の夜は早い。月明かりも無く、辺りは漆黒の闇に包まれた。ヘッドライトの光だけで進むことは危険だったので、車を停めて車内で夜を明かすことにした。
燃料節約のためエンジンを止めたので、車内温度は零度以下になっていた。寒さに震えながら、リーは寝袋から手を伸ばしてエンジンをかけようとした。その時、曇ったガラス越しに人影がよぎるのを見て飛び起きた。ガラスの露を払い、人影が動いた先を目で追ったが、降り始めた雪のせいで何も見えなかった。地面にはうっすらと真っ白な雪が積もっていた。アンは寝袋の中で猫のように縮こまって寝息を立てていた。リーは言い知れぬ恐怖を感じ始めていた。
「アン、何か様子がおかしい。起きて」リーに強く揺り動かされたので、アンは寝ぼけながらも目を覚ました。寝袋から出ると急に極寒の夜気に身震いした。
「何があったの」「外に何かがいる」「狼かしら」「この辺りに狼がいるのか」アンは助手席の窓から外をうかがったが、勢いを増し始めた雪しか見えなかった。
「ここに留まるのは危険な予感がする」「こんなに視界が悪くて大丈夫なの」リーはアンの問いかけに答える前にエンジンをかけて、車を前進させるのと同時にヘッドライトを点灯した。フロントガラスごしに見た光景に二人は思わず声を上げた。
雪に覆われた白銀の大地にぽっかりと開いた大きな真っ暗な空間が目の前に広がっていた。ブラックホールのような空間の向こうに3人の人影が見えた。頭はフードに被われ、表情は分からなかったが、落ち行くSUVに向かって何か合図を送っているように見えた。奈落の底に落ちていくような不快さにもどしそうになった。そして、激しい衝撃で気を失った。
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