第2話 西暦2060年 東京 デスゾーン

 悪夢にうなされて、アキラは目を覚ました。喉がカラカラだった。起き上がると冷蔵庫から缶ビールを取り出して、裸足のままバルコニーに出た。開け放たれた窓のカーテンが風に大きくなびいた。

地上60階建ての高層マンションは2020年の東京オリンピックの年に完成した。ウォーターフロント

と呼ばれたこの地域にはたくさんの超高層マンションが建設されたが、老朽化が進み居住者の高齢化とともに廃墟に変わりつつあった。バルコニーから見渡すかぎり、明かりの見える部屋は2割ぐらいだった。活気に満ちた大都市東京は遠い過去のものだった。バルコニーに置かれた椅子に腰掛けて、地上の世界に目を凝らしても街路灯も消された高速道路をまばらに走る車のヘッドライトくらいだった。先進国最大の財政赤字を抱えた日本経済はとっくの昔に破綻をきたし、国民は極貧の生活を強いられていた。停電が頻繁に発生するために缶ビールは生ぬるかった。

 アキラはネオンが瞬く大都会の夜景を生まれてから一度も見たことが無かった。地上57階のこの部屋に住んでいるのも家賃がただ同然だったからだ。電力不足のためにエレベーターが常時使えないとなれば居住者がいなくなるのも当然だった。

 エレベーターが動かなくても不自由を感じないのは、屋上のヘリポートに駐機してあるアキラ専用のエアポッドがあるからだった。緊急連絡があればエアポッドを使って、現場に直行できる。道路や橋は予算不足のために長期間補修工事が行われていなかった。危険な場所はあちこち通行止めになっていた。東京の人口は300万人ぐらいまで激減していた。少子高齢化による人口減と国家財政が破綻したため、かっての23区はスラム化していた。特に山手線の内側は犯罪者が闊歩する危険地域として、デスゾーンと呼ばれていた。

 23区内に住んでいた住民はより安全な郊外へ郊外へと逃げ出して行った。アキラが相手にしているのは、警察が相手にする犯罪者とは違っていた。その時、突然リストバンドが震動を始めた。アキラは立ち上がると壁にかけてあるヘルメットを装着した。装着すると同時に目の前にシールドが降りてきて、本部からのメッセージが映し出される。デスゾーンのC地区で事件発生だった。

 アキラは頻繁に招集がかかるので、シャワーを浴びる以外はほとんど制服は着たままだった。屋上のヘリポートに駆け上がった時には、エアポッドの副操縦士席にはすでにユウコが座っていた。アキラが操縦席に乗り込むと同時にケンが息を切らせて、後席に飛び込んできた。

「ケン、いつもビリだぞ。ユウコを見習ったらどうだ」アキラはキャノピーを閉めるとエアポッドを垂直に上昇させた。デスゾーンに一人で行くことは禁じられていた。隊員は3名編成でいつも一緒に行動していた。それぞれに専門分野を持っていて、助け合いながら任務を遂行する。

「A地区でパトロール中の警察官が行方不明になっている」「なぜ、私たちが招集されたの」アキラを見つめるユウコの瞳は美しいブルーだった。「何の説明も無い。現場で判断するしかない」


 昔、山手線と呼ばれていた23区内を周回する首都東京の大動脈は、運行を停止してからすでに20年が経過していた。撤去された線路跡には、今は高圧電流が流れる3重の有刺鉄線が設置されていた。山手線の高架下はコンクリートで塞がれ、まるで万里の長城のように犯罪者を閉じ込める防壁と化していた。A地区は昔は歌舞伎町と呼ばれていた東京で最大の繁華街だった。飲食店やバー、風俗店が入居していた雑居ビルは犯罪者の巣窟になっていた。

 デスゾーンは東西南北の4つの地区に分けられていた。A地区から反時計回りにB、C、D地区と名付けられ、アキラの担当地区はC地区だった。担当地区以外の地区に派遣されることは、まれだった。派遣先が最も治安が悪いA地区だということも不吉な予感を感じさせた。エアポッドを現場に一番近いビルの屋上に着陸させると3人は周囲に最大の注意を払いながら降り立った。

 エアポッドを上空に浮上させた。待機時間は1時間にセットした。1時間後にここに戻ってこなければエアポッドは自動的に超高層マンションのヘリポートに帰還することになる。デスゾーンでは、金になる物を放置すれば二度と戻ってこなかった。3人はショックガンをMAXにセットしていた。スタンガンと呼ばれてたものと似ているが、撃ち出されるものはショック波だった。ボクサーがパンチで脳震盪を起こすようにショック波を浴びるとどんな頑強な男でも昏倒する強力な武器だった。

 MAXにセットすると最大射程が30mになる。逆にWIDEにセットすると射程は10mほどになるが、銃口から30度の範囲まで効果がある。

「現場はどこなんだ」ケンの声がヘッドフォンから聞こえた。「このビルの4階らしい」「警察官がパトロールでこんな場所まで来ることあるの」ユウコの疑問も当然だった。デスゾーンでは、警察官は装甲車のようなパトロールカーを離れて行動することはめったにない。各地区には要塞のような警察署があり、重武装した警察官は怪しいと思えばすぐに発砲することを許されていた。デスゾーンは文字通り死の街だった。

「後30分ほどで夜が明ける。明るくなるまで待った方がいい」ケンに反論するようにユウコが言った。「ここで時間を潰したら、エアポッドに間に合わないわよ」雑居ビルは不気味な闇に包まれていた。何の音も聞こえてこなかった。周囲のビルも荒廃していて、ネオンが瞬く昔日の面影はどこにも無かった。決断するのはアキラの役目だった。

「ここに留まっているのも危険だ。行こう」3人はアキラを先頭に進んだ。窓の無い階段は暗く、黴臭かった。ヘルメットシールドには暗視機能があるので、暗闇でも行動が可能だった。ライトを使えば相手に気付かれるが、ナイトビジョンにはその心配は無かった。

 最上階の部屋はオーナーの部屋だったらしく、立派な内装が施されていたが、調度品は壊されるか、略奪されるかして金目の物は何も残っていなかった。最上階から各部屋を点検しながら降りていったが、センサーに反応するのはネズミやゴキブリなどの小動物と昆虫だけだった。どこもかしこも荒れ果てていて、耐え切れないほどの悪臭に満ちていた。問題の4階は、その上の階と比較すると明らかに破壊の程度が違っていた。壁も天井も床もあちこちに大小の穴が無数に開いていた。何かの意図があったのか、それとも狂人が無差別に破壊したのか分からなかった。

「見て」ユウコの指差す場所にはおびただしい血のあとがあった。3人の間に一気に緊張が高まった。壁にも血が飛び散った跡があった。アキラは視線の先にこちらを見つめる目に気が付いた。

 それは、床から生えているかのようだった。「一人目の行方不明者だな」シールドに映し出されているのは行方不明になっている警察官の顔だった。

「こんな残酷な殺し方はどこだっけ」「歴史で習ったイスラム国」アキラは2人のやり取りは耳に入らなかった。わずかだが、奥の壁に動体反応があったからだ。

「静かに」アキラは薄汚れたクロスの壁を凝視していた。壁紙は波の模様がプリントされていた。動く物は何も無かった。「熱反応があるわ」ユウコが壁の右端の方を指差した。ケンはショックガンを向けていた。床が波打つように動いた。ケンのショックガンから放たれたショック波を浴びた何かが叫び声を上げた。

 何も無かったはずのカーペットに幼い少年が倒れていた。衝撃で失神した少年の口からは泡が吹き出ていた。真っ先に少年に駆け寄ったユウコは少年にアドレナリンを注射して、心臓マッサージを施した。「一体、どこから現れたんだ」少年の髪はブロンドで、ハーフらしい美しい顔をしていた。

「俺にも見えなかった。どこかに隠れていたようだが。助かりそうか」人工呼吸を繰り返していたユウコは心臓の鼓動が蘇ってきたのを確認してうなずいた。

「この子の意識が戻れば、ここで何が起きたのか知っているかもしれない」「すぐにエアポッドを呼び戻しましょう」「もう一人の行方不明の警察官はどうすんだ」任務放棄には処罰が予想された。

「エアポッドを呼び戻す」アキラは決断した。

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