TOKYO 2060

@Blueeagle

第1話 前兆

 命綱を付けているとはいえ、634mの高さではわずかな風の変化も地上とはまったく違う感覚だった。電波塔に観測装置を設置する作業はボルトをあと1本取り付ければ終わりだった。耳元で風の音に混ざって、聞きなれない音がした。羽音に近いが金属的な不快な音だった。高所作業ではちょっとした油断も大きな事故につながる。特に作業が終わりに近い時の安堵感が一番危険な時間帯だった。音を払いのけるように耳元に手を近づけた時、首筋に突き刺すような鋭い痛みを感じた。ゴーグルを通した視界があっという間に暗くなり始めていた。シャッターが降りるように消え行く光景の最後に映っていたのは小さな無数の黒い点だった。

 

 深奥と呼ぶに相応しいこの山の中腹にある朽ちかけた小屋には、電気も水道も無かった。ここでは、テレビはもちろん、携帯電話もインターネットもつながらなかった。この小屋の周囲10kmに住んでいる人間はいなかった。限界集落と呼ばれた山間地域の一つだった。人間社会との接点は樫の木の小さなテーブルの上にのっているSONY製のラジオだけだった。電池が消耗するのを恐れて、ラジオを聴くのは朝の30分だけと決めていた。気になるニュースがあればノートに書き留めていたが、1年以上も真っ白なままだった。

「昨日、スカイツリーの電波塔で作業員が宙吊り状態で死亡しているのが発見されました。警察が事件、事故の両面で捜査しています」頭の中に電流のようなものが流れた。ベットから飛び起き、ノートにニュースの内容を書き留めた。直感が何かを伝えようとしていた。不安が真夏の積乱雲のように膨らみ始めていた。

「いい天気よ。いつまでも寝ていないで、日光浴したら」開け放たれたドアに神々しいまでの光をまとった妻がいた。日光浴の後の妻は見惚れるほど美しかった。妻は普通の人間とは違っていたが、誰よりも愛おしかった。そして、妻のお腹には、新しい命が宿っていた。生まれてくる子のためにも生き延びなければならない。


 大男の息は耐え切れないほど臭かった。大男の欲情は昼夜を問わなかった。快感を感じているように喘ぎ声を上げていたが、少しも気持ち良くなかった。回数を重ねるほどに嫌悪感が耐え切れないほどになっていた。体重は間違いなく百キロは超えている大男が絶頂に達した時、汗臭い毛むくらじゃの肉体を払いのけていた。褐色の無駄肉のまったく無い美しい肢体は珠のような汗で光っていた。大男は屹立した男根のように怒り狂っていた。

「俺に逆らうとはいい度胸だ。懲らしめてやる」大男は女に向かって突進した。女はすでにベットから降りて、静かに仁王立ちしていた。女はこの嫌らしい大男に逆らったことは一度も無かったが、あの瞬間に感情の奔流が雷に打たれたように全身を貫いた。

 大男が女のか細い首を締めようとした瞬間、その太い手首を掴むと壁に向かって投げ捨てた。大男は頭から壁に激突して、首の骨が折れる音がした。ずるずるとその場に崩れ落ちた大男の目からは光が失われ、口元から真っ赤な血が胸元に向かって滝のように流れ落ちた。

 女は大男に向かって、唾を吐いた。この汚らしい男の痕跡をすべて洗い流すためにシャワーを浴びた。体のあちこちに殴られた青あざが残っていた。陰部がずきずきと痛んだ。この部屋にいつまでも留まっているわけにはいかなかった。あの恐ろしい武装警察から逃れた仲間を女は知らなかった。

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