第2話
・波島順子の記憶を彼女の口調で
ここからはじまって、ここが終着点。
眼前にある墓標なき墓の主、タローの遺言だ。歳はいくつだっただろうか。三ヶ月ぐらいだったかな。薄情、鬼畜、人でなしとあちこちから苦情と罵声が聞こえてきそうだ。すこし憂鬱になった。
私は水分のない、からからに乾いた土の下に、ビニール袋につめこんで彼を埋めた。生前、彼に「私は友達よ」と宣言し、強引にとりいって話をし、食事をした仲だった。彼の笑顔はついに見ることが無かった。
両手を合わせて目を閉じ、やすらかに眠って頂戴、と頭の中で連呼した。暑い気温に鋭い日差しが私のやわな黄色肌にあたっていた。天罰、追い討ち、といわんばかり、湿り気の無い風が、顔と髪を削ぐように、短く通り過ぎていった。
日焼け止め、塗るのを忘れた。肌荒れしちゃう等の雑念が死者への罪悪感が無くなった証明だ。私は目を開けた。
荒野の墓標無き墓、彼を埋めた場所だけ土の色が、やや黒かった。上からかぶせた土砂に、水をかけたからだ。でも、この気温に日差し。日本なら海水浴場の感覚だった。水っ気がないぶん、もっと過酷なこの土地であれば一日で乾いてしまうだろう。その地下で彼も乾いてしまうのだと思った。
そのうち誰だかわからなくなるのだ。死んでしまうと、記憶や思い出になってしまうと、死者は完全に人と融合する、という。私は隣にある墓の主を忘れていた。きれいさっぱり、さらにその隣は墓なのか、ただの土なのか、憶えていなかった。私にとって彼らは生物かどうかも怪しく、言葉を交わしても理解はできないからだった。そう、それがネックになっているのだろう。それほどまで彼らに愛着も執着もない。だいたい、私は学者ではない。人間の定義なんて、知るものか。
彼らの言動を観察していても分析はできない。彼らとは給料でつきあっていただけだ。お金を得るために、友達という人類最高の曖昧表現で彼らに歩み寄った。セールス業界の人には理解しやすいと思うが、お金の力で人は、大概のことをやってのける。愛も語れるし、真実も虚実にできてしまう。日差しが植物を育てながらも動物を乾かせてしまうように、矛盾した行動をとっているように感じるのは、いつも受け手だ。太陽に心はない。全ての罪悪は苦しむ人間が創ったのだ。
日光を遮断し黒い影が私を包んだ。気温が下がったように感じられた。
「まいったよ。ジュンコ、菊なんて売ってない」
背後から私にむかって、英語で話しかけられる。聞きなれた丸い声だった。
「薔薇じゃ駄目かな……」
ネスだった。黒人特有のがっしりした太い腕の中に一輪の薔薇が握られていた。
「どうせ乾いちゃうから、なんでもいいよ」英語で返すと、私は、私のウエストほどの彼の腕から、薔薇を受け取り、墓に供えた。
荒野に咲く薔薇一輪。感動はなかった。
ネスは十字をきって、両手を握り合わせた。
「墓地に来るなんて、珍しいじゃない」
すると溜め息をついてネスは目をこすった。
「たまには泣きに来たっていいじゃないか……タローは凄くいいヤツだった、それが……」
私は溜め息をついた。ネスに呆れて。昨晩、散々と延々と泣いて、今日もまだ泣くのだから、もう励ます言葉は出てこなかった。
「ジュンコ。あいつは、タローは天国にいけたよな?」
「うーん」唸って私は辺りを見渡した。青空の下に土砂が果てしなく続いている。天国にも地図を持っていればいけるのだろうか。私にはわからなかった。
少なくともここは地球だ。タローはここから出ることができたのか、私に知る術はない。
日本製のラリーカーはアイドリングされていた。心地よい冷気が車内を漂っている。助手席に座って深呼吸をすると、肺の中まで涼しくなった。
「タローに乗せてやりたかったなぁ。あいつ、車が好きだったから」
言葉はしっかりしているが、ネスの瞳はまだ涙があった。彼が運転席に座って三分も経過した。二人きりの車は一向に発進する気配がない。嘆いているネスをよそに、私はダッシュボードを開けた。CDがわんさかとある。そのほとんどがヒップ・ホップだった。
「UKロックとか無いの?」
「そんなもん聴くと自殺しちまうよ。あれは暗い」
「私はあれこそ音の芸術だっておもうよ。うるさくもないサウンド、歌詞も詩的で、メロディとか凄く好み」
「芸術? 馬鹿いうな」
私に、ずいっと顔を近づけるネス。涙の奥にある瞳が少し、怒りの色を宿していた。
「ライムこそ人間の音さ。真実の叫びだよ、ギャングスタは」
「ドラッグとか迫害とか、ただ単に自分の不幸をネタにしているだけでしょ」
私の言葉がしゃくに触ったのか、ネスは首を横に振った。
「ジュンコ、わかっちゃいない。そこの黒いディスクかせ。こいつを聞けば、お前も目が覚めるはずだ」
アートとか音楽とか、そんなもの超越した男の実録――そんな題名のCDだった。私はためらいながらそのCDを手に取って眺めるが、そんな大層なものには見えなかった。
「ほら、かせ」
ネスが私の手にあるCDを取ろうとした。
私はあっちこっちに手を動かせて、彼の手を空振りさせた。
「私はファックとかビッチとか、悪態ついてばかりは嫌よ」
「大丈夫、真実はそのディスクにある。かしてくれ」
そう言って、渡すふりをする。ごつい手が空を切った。
「かせよ! 俺の所有物だぞ!」
「じゃあ、この車のローンを組んだとき、保証人になったのは誰だった?」
ネスの表情が変わった。痛いところをつつかれた怪我人のように、うっ、と唸った。
「違法改造するガレージを紹介したのは? カーステレオ、ナビを貰ってきたのは? 何年間も車検がきれたままなのに、告げ口しないでいるのは?」
黙りこむネスに、機銃掃射のように激しく攻撃する。しん、となった車内に冷房が静かに鳴っていた。
「全部はネス、誰かしら?」
「全部は」
ネスが呟く。語尾が震えていた。
そして、だんだんと表情が笑顔になった。
「全部……みんなのおかげだ」
私たちはふきだした。大きな笑いではないが、口から声が漏れた。
「この車はみんなのもの。だから私用はだめ。権利はみんなにあるのよ。CDだってみんなの趣味を考慮しようよ」
「そうだった。みんなのものだ。ガソリンだってタダじゃない。こいつは俺が運転しても、ジュンコたちが乗っているってことだ」
悪かった、と言ってネスはギアを入れ、アクセルを踏んだ。
タイヤが砂利をまきあげる音。ゆっくりと風景が変わっていった。
義理堅い男、ネス・スミス。恋愛感情ではないが、私は彼が好きだ。信用できるクリスチャン。
彼の音楽の趣味は信仰と反していると非難されるが、彼による返しは『聖書も正義だらけでは聖書ではなくなっていた』というのだ。
『欲がなければ仏陀も悟りは得られないのだから、体験を経ずして善悪を語ることは阿呆極まりないではないか。人道を語るのなら、まず周りを見渡せ、汚いものにも触れろよ』と彼は主張している。私は日本人の性なのか宗教に疎い。ゆえに、ネスの主張は理解できないが、それでも下品な歌は趣味じゃなかった。
「柄にもなく、しんみりしちまったな。ごめんよ」
そう言ったネスの目は澄んでいた。私の視線を気にしているのか、サングラスをかけた。
「どうでもいいわ」
私は返事した。彼を悪く思ってのことではない。私は感傷という感情が羨ましい。人間らしくていいからだ。
私は身内の葬儀を経験していない。祖父も祖母も九十を超えてなお、元気に拍車がかかっている。
時々、どちらかが他界すると悲しくなるのだろうか、と考える。そして自分が嫌になる。他人事のように身内の死を考えて、それは自分の感情を理解するため――なんていやらしいのだろう。そして、全ては自己証明のための行為と割り切ろうとして、割り切れずに死にたくなる。
二十八年間、考え続けてわかったのは、どうやら私の本能と理性は仲が悪いらしいということだ。だから恋愛もろくにできないし、長続きしないのだろうと、とっくにふっきれていた。
「ジュンコ、宇宙人がまた来るらしいぞ」
風景に建物がちらほらと混ざったところで、ネスの言葉に私は焦燥感に包まれ、気だるい溜め息をついた。
「なんてタイミング。新人が来るのも、今日じゃなかったの」
「新人は基地の見学中だ」
「慣れないでしょうね。他国の国家機密に携わるなんて」
私はオーディオのラジオを操作した。気分転換に音楽が聞きたいが、ネスの趣味は好きじゃない。周波数をいじっていると、バイオリンの旋律が聞こえた。
「古い曲だなぁ。さっきのディスクかせよ」
彼は煙草を口にくわえていた。とっさに私の記憶がひとつ蘇った。
「タローと約束してなかった? 禁煙するって」
「ああ。でもタローはこうも言った。『ネス、ぼくが大人になったら一緒に吸おう』って。そしてタローはここからいなくなった。つまり巣立った。大人になった。そう考えると楽だ。だから吸う」
すごい屁理屈だけど、泣かれるよりましだ。老若男女をとうして泣き声は嫌いだ。こっちまで気分が悪くなる。知ってか知らずか、彼は立て続けに語った。
「煙草を吸っている俺をみて、タローは言った。『ネスはトーマスの親戚なの?』
俺の親戚にそんなやつはいない。タローの手には絵本があった。だからトーマスの親戚なのと聞いてきた。俺は直感したが、一応、何故そう思うのか尋ねる。すると『トーマスは頭から煙を出しているよね。ネスは口から出している』だとさ。俺の直感は当たったね。だから、ふざけるなと言い返したよ。だってそれなら俺は、ケツから石炭をぶち込まれて笑っているヤツと同じ血を引くことになるからな」
明るい口調で喋るネスをよそに、私はラジオから流れるバイオリンに聞き耳を立てていた。どこかで聞いたことがある。モーリスは古い曲だと言った。クラシックだろうか。懐かしい感覚、郷愁に似た切なさが胸に広がるのだ。
どういう題名なのだろう。彼はまだまだ喋り続けた。
「俺は言った。そのトーマスは乗り物だ、俺はトーマスに乗る人間だ、それに乗るなら車、日本車がいいって。次の日、俺はポルノ雑誌を読んでいた。日本人の女が二人、裸で写っているページを開けると、タローが再び尋ねてきた。手に車雑誌を握って」
「ネス、この曲の題名は?」私の疑問が、声となって車内に響いた。
「違う!」わかりやすいセクハラ・ジョークのオチを潰されたネスは、軽くハンドルを叩いた。
オチのわかったジョークなんて笑えない。私はラジオの音量を最大まで上げた。
「ひとの話は最後まで――」ネスの抗議が、女性ボーカルに負けていく。
英語歌詞ではなかった。民族音楽だろうか。ロシア、ノルウェー、モンゴル、そのどれでもない。私は音楽について詳しくはないから、珍しい種類だと率直に感じた。
ネスが音量を調節する。そして解説してくれた。
〝O Pastor〟――マドレデウスというグループのセカンドアルバム収録曲だという。ネスの解説ではポルトガルの民族音楽と室内音楽、ポップスをハイブリットした独特の曲調が特徴とのことだ。
歌声から海を連想してしまう――しばらく拝見していない、海を。
私はずっと荒野と基地を、行ったり来たりしている。特別急がしいわけではない。遠出を許されていないだけだ。でも給料が良くなければストやデモを起こしていても可笑しくない環境かも……。
「海水浴もいいわね。宇宙人って泳げるのかしら」
荒野を疾走するラリーカーの助手席で呟く。私はそれがどんなに小さい疑問なのか、いちいちと考えていない。だから本質がみえず、歯がゆい思いをするのだ。
「ジュンコのスタイルなら、日本まで追いかけるさ」
白い歯を見せながらネスは笑った。そして「全ては疑問から始まる。真理は疑いの門をくぐらねば到達できない。真理を欲するなら疑問を持て」と、教師のように説教した。
「天才の言葉さ。俺も同感だね。疑問は解決しなきゃいけない。宇宙人に聞いてみろよ」
「そんなにいいものだったかなぁ」
私はネスのいう天才の顔を窓の向こう側に思い浮かべた。天才の見てくれと妙にフィットした。まともに舗装されていない砂利道。ごろごろ転がる大石小石。無数に設置された警告文の前で、立ち往生する観光客。見張りの軍人。遠くに見える滑走路。近づいてくる軍事基地、その全てが国と、宇宙人と、アイツのために、完全な安全を保障しているかのようだった。
五回も検問があり、そのつど身分証明証を警備員に見せる。監視カメラの前を何十回通っただろうか。地下駐車場に車を停めて、私たちは、スタッフ用エレベーターに乗り込んだとき「お仕事の時間だ」と虚勢を張るようにネスはサングラスを外した。眠たそうな目をしていた。
外観は軍事基地そのものだけれど、国が管理するから秘密がある。
ここでは宇宙人の接客兼、調査がそれだ。でも、だからといって行きかう人々全員が宇宙人に係わっているかというと、そうではない。
新型戦闘機の開発スタッフに新薬の開発スタッフ、それらを試す軍人に彼らを統括する偉い人など、仕事も人種も宗教も多種多様で、千人以上もの人間で基地内はごったがえしている。
私の属する宇宙人関連の部署は百人前後で運営されていて、多くは生物学の専門家だ。ただし、プロフェッショナルばかりではなくて、現場は五人、残りはデータ処理のみという風変わりな部署でもある。
変な経歴のヤツもいる。ここに来る以前、私は保育園で働いていた。ネスはラッパーとかスタンダップコメデイとか喋る仕事をしていた。
「見てみろよ、ジュンコ。グレイタイプだ」
ネスと私は、研究室に向かう途中、カフェテラスの前で、頭が異様に大きい銀色の小人と遭遇した。
隣に無神論者の白人、ニッキー・ロビンソンがニヤニヤしながら付き添っていた。彼とグレイタイプの身長差は大人と子供ほどあった。
「葬式帰りか? 晴れてよかったな」ニッキーは笑いを必死で隠そうとしているのだろう。英語の発音がへらへらとしていた。
グレイタイプがニッキーの白衣をひっぱった。
「紹介しよう。二人とも同僚だ。デカイ黒人がネス。グラマラスな日本人がジュンコ」
「はじめまして」おどおどと小人は手を差し伸べる。ひどく訛った英語の発音は国柄がよくでるものだ。
「ジュンコ・ナミジマです。よろしく」
私は握手して、ずん、と小人に顔を近づけた。小人の黒い大きな眼の部分に、無数の小穴が開いている。軽く溜め息をついて、先輩として最初の忠告をした。
「付き合う必要ないのよ」
銀色の大きな頭がうつむく。きっと素顔は赤面しているのだろう。ネスとニッキーは、腹を抱えて馬鹿のように大笑いしている。
こういう『いじめっこ体質』には説教か、鉄拳か、放っておくの三択だけど……。
小人はもじもじと身体を動かせている。小動物のように力も精神も弱いのだろう。反撃も防御も出来ない、何も知らないなら、流されるしかないのだ。そして目の前で、いじめっ子に泣かれたなら引け目を感じてしまうかもしれない。
「からかわれているのよ。嫌なら嫌って言いなさい」
私が作り物の頭部を外してやると、耳たぶまで真っ赤になった女の子が、涙を浮かべていた。歳は二十歳前後だろうと思った。短い黒髪でナチュラルメイク、可愛らしいアジア人だった。
もうちょっと被っていろよ、と男どもが漏らす。この国のそういうところが外国人にはやっかいだ。
「
私とナシンは二度目の握手をした。ネスも白い歯を見せて、好意的な笑顔で握手をした。
合衆国が誇る秘密基地内を、仮装させられて見学したナシンの感想は、あまりにも小規模だった。迷子になりそうで大変です、だ。
「すぐに慣れるわよ。嫌でもね」
そんな私のありきたりな言葉に、ナシンは明るく元気に返してきた。
「嫌なんてことはないです。宇宙人と、お喋りできる仕事だなんて、夢物語だと思っていましたから、凄く楽しみです! 真面目に頑張ります! よろしくお願いします!」
新人はこれだから良い。夢が砕けることを微塵にも考えない愚直さ、胸いっぱいの希望、それを見つめ疑わないからだ。
それらは全部、私が遠い何処かに置いてきたものだ。溜め息がでる。ナシンを見ていると、自分の老けた場所が浮き彫りになってくる。誰なのよ、学生をスカウトしたのは、という文句が脳裏を過ぎると、アイツの顔も浮かんできた。
「キミのようなスタッフが欲しいところだったよ」私の背後で声がする……この声は、アイツだ。
「可愛いし元気あるし、僕の好みだ」
黒い髪を肩まで伸ばし、歳に似合わない咥え煙草と物言いでやってくる。この基地で一番の阿呆のご登場だった。私は頭を掻いた。
「僕はマーヤー。一応、君たちの指揮をしているけれど、そんなことは気にしないで、一人の男性として、親しく接してほしい」
煙草を携帯灰皿に押しつけ、マーヤーはメイシンと握手する。メイシンは先ほどより顔を火照らせ、呆然としていた。
危険な状態だった。マーヤーの見てくれに騙されている。すこし男前で、背が高いだけの少年なのに。
「正直なインディアンは初めてかい、ナシンちゃん」
なんて甘ったるい声! 私の背筋に怖気がはしった。
マーヤーを白馬の王子様と思っているのだろうナシンは、恥じらい言葉を選んでいるのか、目線を合わせたまま固まっていた。
「ネイティブ・アメリカン?」ナシンの搾り出した声に、マーヤーは笑って言った。
「いいや、僕は本場さ。ガンガーでよく遊んだ」
「ガンジス川は遊泳禁止のはずです」
そこでナシンの表情が変わった。気持ちを手玉に取られたことに気づいたようだ。
そう、こいつはただの、ろくでなしなのだ。
「差別だよ、まったく」両手を広げ、マーヤー・ガンディーはその場を去ろうとする。彼の興味の数多くは花火のように、激しく一瞬で散った。
「差別かどうかは知らないけれど、アンタの行動が悪いのよ」私は彼を呼び止めた。言うことが沢山あった。
「悪事はしていないが、とりあえず聞こう」
マーヤーは私にくってかかった。
「ナシンは僕の出身がインドだと判断すると、偏見の眼差しに変わった。それまでは合衆国の人間だと独断し、敬意や尊敬、いやもっと好意的な感情を持っていたことが、その感情が僕の祖国の名と人種によって悪化したのだよ。ジュンコ、インドと中国の関係は知っているよね? 君は今、その縮図を眼にしたのだ。これを差別だと云わずして何と云う」
「また屁理屈並べて。アンタは彼女のこと誑かそうとしたでしょう」
「勝手なフェミニズムだね。根拠は?」
私は携帯電話を取り出した。昨晩中に保存していた動画を、この場にいる全員に見せるためだった。
「みんな、さっきマーヤーは、悪事はしていないって言ったでしょう」
私の問いに、マーヤーを除く三名が頷いた。
「その前に自分は正直者、とも言ったよね」
またもマーヤーを除いた全員が頷いた。
「言ってないね」と、マーヤー視線が泳いでいる。説得力もない。
「じゃあ、何か悪事をしたのかしら?」
「……いいや。何もしていない」
「マーヤーは先ほど嘘をついて女性を誑かそうとした。その根拠はこれ」
動画を再生する。昨晩の私の部屋の映像だ。暗い中、天井から録画したものだが画質は良好。私の寝顔までよく映っていた。
しばらくして私の姿がベッドから消えた。このとき、緊急事態が起きて呼び出しをくらったのだ。そして誰も居なくなった私の部屋に、マーヤーが現れ、クローゼットを丁寧に荒らしている様子が映っていた。
「部屋の電源は完全にシャットダウンしたのに」動画を見終わったマーヤーの第一声。そんな彼を全員が睨んだ。マーヤーは、手で口を塞いだ。
「駄目だな。言い逃れできない」ニッキーが溜め息交じりに声を出した。
マーヤーの行為は不法侵入とハッキング、もしかすると窃盗。
「いや、誓っても良い、悪事はしていない。そしてこれはジュンコと僕の関係から派生した行動であって、ナシンちゃんに直接的な被害は無いはずだ」と、マーヤーは聞き苦しい、言い訳を続けていた。
ナシンは女性だ。こんな男を信用など出来るわけがない。マーヤーがこういう人間だと知っていれば自己紹介の件で、下心を投影していることに気がつくはずだった。
「ネス、ニッキー、この阿呆を一発ずつ殴って」
そう言ってナシンの視界を、私は手で遮った。とっさの行動だったが、ふと思った。私にもまだ、暴力を否定する感情はあったのだ。
精神が和んだ。こんな学生気分も悪くない。馬鹿な行動と稚拙な論理からもたらされた罰――げんこつをもらう阿呆を見て、私は微笑んでいた。
『沖合で燻る
空想の小舟
私の夢は続く
心だけを
見張りに残して
沖合で燻る
幻想の小舟
私の夢を残して
目覚めの来ぬことを
願って』
マドレデウスの〝O Pastor〟の歌詞だ。
夢を妄信して現実から逃避している。そう気がついたとき、私は悔いた。
「私はいつも本質が見えず、歯がゆい思いをする」ということすら、口実だった。
そう、もっと考えておくべきだった。彼の行動には理由があったのだ。どんな理由で、どんな想いで、行動に至ったのか聞いていればよかった。そう、そのとき私は大事なことを疑問にしていなかった。私は、私の発した言葉で、その場を終結させていた。もうすこしのところで、その人が理解できたかもしれないのに。
後悔とは、後に悔やむと書く。そんなことにも気がつかずその時の私は、ただ微笑んでいた。
#
私、いや、ボク。
私はボクのことさ。俺もね。いいかい? 続けるよ?
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