第6話 秘密を守る為に作ってしまった秘密
「中村さん……ですよね?」
「……え?」
ゆかりに色々と助けてもらってから早くも三か月。
保護費の受給もきちんとされて、貸付金でゆかりへの借金を返して、と僕の生活は漸くの平穏を取り戻しつつあった。
仕事については未だ求職中の身ではあるが、最低限食べるのには困らないし以前よりも有意義に時間を使うことができる様にはなっている。
もちろん、仕事が決まればこんな自堕落な生活はすぐに終わりを告げるものではあるが、僕はまだ仕事に就くことを諦めてはいなかった。
当然のことながら自分に与えられた最低限の収入は、決して僕が苦労して手にしているものではない、ということも弁えてはいるつもりだ。
だから僕は最近近所に出来た激安スーパーで食材を買う様にして、なるべく無駄な出費を減らす方向で暮らしていた。
そして普段通り、その激安スーパーで適当に安い食材でも買いあさって帰ろうと思っていたら、冒頭の様に声をかけられた。
見覚えがある様なない様な、幼い……とまではいかないが若い女の子。
可愛らしく、整った上品な造りの顔にポニーテールがよく似合っていると思った。
僕は以前、何処かでこの子に会っている気がする。
もちろんこんな若い子と出かけたりする様な、浮ついた青春を送ってはいないのであくまで仕事で、ということにはなるのだが。
「えっと……覚えてませんかね?お店で、母と一緒にお世話になったんですけど」
「…………」
まさかの親子丼。
なんていう言葉が頭をよぎったが、まず間違いなくそんなことをした記憶はない。
僕はお酒を飲まないし、泥酔して失敗した、なんて言うのを聞いているとこいつバカだな、くらいに思っていたくらいなのだから。
というわけで、いかがわしい関係ではないことがまず明らかになる。
しかし、一行に思い出せない。
元カノとかでもないはずだし……というかこんな若い子、どう見ても十代だし犯罪だろう。
「あら、中村さん」
そんなことを考えている間に、もう一人僕に声をかけてくる人がいた。
どうやらこの子の母親……思い出した。
「金元さん、ですよね」
「そうですそうです! 良かった、思い出してもらえたみたいで! 私娘の千夏です」
「ご無沙汰してますね、中村さん」
「いえ、こちらこそ……」
正直なことを言おう。
僕は買い物に時間をかけるのが大嫌いだ。
ゆかりは正反対に、滅茶苦茶な時間をかけて商品を選んだりと、ショッピングそのものを楽しんでいる風だったが、僕からしたら全く以て理解できない。
買い物、と銘打って出かけるからには買うものなど予め決まっているのが当然だし、それが見つかったのであればとっとと会計をして帰るべきだ。
なんて言うことを昔ゆかりに言ったら、物凄い形相で睨まれた挙句にあんたと買い物するの嫌だわ、とかしみじみ言われて僕の心は少しだけ傷ついた。
まぁそれはいいとして、何が言いたいかと言うと、さっさと帰りたい。
帰ってアニメが見たかった。
最近見つけたささやかな趣味でもある。
そしてこの親子にそんなことを言えば、少々……いや相当な勢いでドン引きされるんだろう。
一瞬は名誉など何のその、とか思わなかったわけではないが、やはり体裁とか向こうが持っているイメージは大事にするべきだ。
「中村さん、あのお店やめちゃったのね。良くしてもらっていたのに、残念だわ」
「…………」
「私たち、あのお店に行くなら中村さん指名で、って決めてたんですよ」
思いもよらない言葉に、思わずはっとさせられる。
確かにこの親子はよく僕を訪ねてきてくれていた気がする。
僕が折り悪く休みだったりしたときにも来てくれていたことがあって、休み明けに同僚から言伝をもらったりしたこともあった。
「何だか他の方だと対応が微妙だったんで、私たち行くのやめちゃったんですよ」
「そ、そうなんですか……それは申し訳ない」
特別なことを何かしたわけでもないのに、何で僕なんかをそんなに特別視しようとするのかが理解できなかったが、気持ちそのものが嫌だということはないので、素直に詫びた。
すると親子そろって逆に恐縮した様な態度を見せたから驚きだ。
「えっと……まぁ、あれです。僕、この近くに住んでますので。何かあればまた力になりますよ」
あくまで早くこの場を離れたいという、それだけの為の愛想笑い込みの社交辞令。
普通の大人ならそれを察してくれるだろうし、はっきりきっぱりズバッと言うだけがマナーではない。
ところが……。
「わぁ! 本当ですか!? 中村さんがまた教えてくれるんだったら、安心です!」
目の前の少女はまるで長い冒険の末に宝箱でも見つけたかの様に喜び、僕を仰天させた。
その宝箱がミミックじゃない保証なんてどこにもないというのに。
「あ、ああ、任せて。あはは」
先ほども返した愛想笑いが更に乾いて、もう自分でも何をしているのかわからなくなってくる。
それにしても、初夏……いやもう暦の上では夏に差し掛かってじめじめと蒸し暑いのに元気なことだ。
これも若さというやつなんだろう。
「千夏、中村さん困ってるじゃない。すみませんね、中村さん」
「あ、いえ……そんな、全然」
またも心にもないことを言って、後悔する。
ここできっぱりと迷惑です、なんて言える人間なんかそういるとも思えないが。
このままじゃキリがない、と思った僕は適当に挨拶を済ませて帰ろうとした。
しかし、その手首をがっちりと掴んで離さない者が一人。
金元千夏その人だった。
「こら、千夏……」
「中村さん、どの辺に住んでるんですか? 近くって言ってましたよね。今度遊びに行ってもいいですか?」
「え、えっと……」
どうにかしてくれよ、という思いを込めて少女の母を見るが、母も仕方ない子ね、なんて言いながら笑っている。
使えない女だ……。
「ごめんなさいね、中村さん……この子ったら、中村さんがお店にいなくなったってわかってからずっと、中村さん中村さんって言っていて」
「…………」
「ちょっとお母さんやめてよ!恥ずかしいじゃない!」
そう思うならその手を離してもらえませんか。
僕も恥ずかしいけど、無理やり振り払ったらさすがに傷つけちゃうかもしれないじゃないですか。
「じゃあ中村さん、連絡先、交換してもらえませんか? さすがにああいうお店だと個人情報が、とかコンプライアンスが、って難しそうだったので。私、ずっと交換できないかなって考えてたんです」
「……う、うんわかった」
結局僕はその少女、千夏ちゃんの押しに負けて連絡先を交換する羽目になった。
千夏と呼んでください、なんて言っていたけど別に付き合ってるわけでも娘なわけでもないんだから、下の名前を呼び捨てというのは抵抗があった。
しかも母親の目の前でなんて、そんな度胸は僕にはない。
兎にも角にも僕は漸く開放されて、家路につくことができたというわけだ。
これでアニメ鑑賞に精を出せる。
そう思って僕はルンルン気分で自分のマンションへの帰り道を急いだ。
歩いても五分程度の道。
エレベーターを使ってもプラス一分かかるかどうかだ。
部屋の鍵を開けて、ドアを開ける。
そして荷物を入れてドアを閉めようとしたとき、ドアに思わぬ力がかかってそのドアが閉まることはなかった。
「……は?」
「え、えへへ……来ちゃいました」
その少女は先ほど別れたばかりの金元千夏だった。
肩で息をして、額に汗を浮かべながらドアを押さえている。
「き、来ちゃいましたって……尾行してきちゃいました、の間違いなんじゃ……」
「そうとも言うかもしれませんね……」
「いや、そうとしか言わないでしょ? ていうか、さすがにこの光景はまずい。女子高生を家に入れるなんて、出来ないからね。場所もわかったし連絡先も交換したんだから、もう帰らない?」
あくまで穏便に、僕は済ませたかった。
何故なら連絡先がわかっているということは、この後親に連絡が行く懸念がある。
あの母親は僕に好意的ではあったが、人間なんてのはいつ何処で、何をきっかけに豹変するかわからない生き物なのだ。
不安の芽は摘んでおくことに越したことはないだろう。
「嫌です。せっかく見つけたんです。ずっと、探してたんです」
「……え」
「中村さんを!私、ずっと探してました!初めて見た時から、ずっと、好きでしたから!!」
この時ばかりは、僕も人間の反応速度とか無限の可能性とか、そういうものを信じようという気持ちになった。
千夏ちゃんが叫んだ瞬間、内容を確認する前に体が動いていて、千夏ちゃんを玄関に引き入れていたのだから。
「あのね……何でそういうこと玄関先で叫んだりするの? 僕に何か恨みでも?」
「ち、違うんです……昂ぶってしまったと言いますか……つ、つい……」
「悪いと思ってるんだったら、もう帰りなさい。どうせ親御さんには言ってきてないんだろ?」
「母には……言ってあるんです」
「…………」
何ということでしょう。
僕はこの子を甘く見ていたのかもしれない。
普通の神経してたら、言えないと思う。
いや、もちろん一般家庭が全て正しいなんて言うつもりはないし、当たり前だと思っていたものが実は非常識、なんてことだって沢山あることは知っている。
だけど、こんな三十代半ばの一人暮らしの男の家に行く、と言ってそれを了承する親って……。
親子共々信じられない。
「どうしたら、帰ってくれる?」
「何でですか? 迷惑なんですか?」
迷惑だ、と言ってしまいたい気持ちをぐっと堪えて、僕は考える。
そういえば京都だかどっかの地方では、お茶を出すんだかお茶請けを出すんだかして、帰れという意志表示をするんだと聞いたことがある。
ならばと僕は一旦玄関から部屋に引っ込んで、千夏ちゃんにコップに注いだ麦茶を手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「…………」
何だか素直に感謝されている気がする。
どうしよう、今更言っても通じないかもしれない。
「あ、もしかして……京都の風習真似てみたんですか? 私の母が京都出身で、私もたまにあっちに行くので知ってるんです」
「そ、そう……」
これは困ったことになった。
見抜かれていて、その上通用しないとなると……。
さっき、聞き違いかもしれないがこの子は僕を好きだと言っていた気がする。
ならばそれを逆手に取ってしまえば……。
「ち、千夏ちゃん。申し訳ないんだけど、僕はこれからその……ガス抜きをしないと、って思っていたところで」
「ガス抜き?」
飲み終わったコップを僕に返しながら、千夏ちゃんは首を傾げる。
やんわりとオブラートに包みすぎたのがいけなかったか。
「あれだ、その……自家発電。君だって、するだろ?」
「…………」
何だろう、頭のてっぺんから垂直に、脊髄なんかを通って細くて鋭利な氷柱を突きさされた様な、この悪寒。
これはさすがに軽蔑されたか、と思って僕は勝利を確信した。
何故なら勝利すれば、こんな汚らわしい男に会おうなんて馬鹿なことを考えることもなくなるであろうことが想像できるからだ。
「しませんけど」
「あ、そ、そうなんだ……」
「妹の部屋との壁が薄いので、そういうのバレそうだし情操教育上よくないと思うので、我慢してたんです」
「…………」
何でそんなことを赤裸々に語るんだ、この子。
恥ずかしいとかそういうことを考えたりはしないのだろうか。
「恥ずかしいに決まってるじゃないですか」
あれ、僕喋ったっけ?
いや、喋ってないはずだ。
なのに何でこの子には言いたいことがわかったのだろうか。
「だって今、中村さん思ってましたよね。生きてて恥ずかしくないのか、って」
「いや、生きてて、とか思ってないから。寧ろそういう理由で我慢してるって、立派だと思うよ、うん。……だから帰りなさい」
「嫌です。このまま帰すつもりなら、私母に中村さんに強姦されたって言いますから」
「…………」
何この子、悪魔なの?
いい金づる見つけたぜヒャッホー! みたいな感じなの?
そんなこと言われても僕にはお金なんてないんだけど。
「で、でもそれって調べたらすぐにわからないか? 僕の体液とか付着してないだろうし。そしたら君が狂言言ってる狼少女みたいになるんじゃないかな」
一瞬カッとなりそうな頭を懸命に落ち着けて、目の前の少女を何とかして宥める努力をしてみた。
半分脅迫みたいな感じになってしまったが、これで冷静になってもらえるんだったら、僕はいくらでも悪役を演じよう。
「何言ってるんですか? 体液なんて私が中村さんを犯すか、中村さんが私を抱くかでいいんですから。無理やりか同意あってのことかの違いですよ」
「…………」
「もし何もしないって言うなら、私、これから中村さんを犯します。私の思いに応えてくれるんだったら、考える余地くらいはあげますよ」
く、狂ってやがる。
こういうの、慣れてるんだろうか。
だとしても、さすがにちょっと……。
「あの、一つ聞きたい。君は、そういうの慣れているの?」
「……は? 初めてに決まってるじゃないですか。だから私は頑張るつもりでいますけど」
「だ、だったらもっと自分を大事にしないか?これから先、もっといい男なんかいくらでも現れるだろうし……」
僕個人としては、会心の一撃とも言える様ないいことを言ったつもりだった。
しかし、この一言は彼女にとって逆鱗に触れるものでしかなかった様だ。
「私には! 中村さん以外いりません! 何なら一生を中村さんに捧げてもいいとさえ思っているんです!! 何なんですか!? 私じゃ不満ですか!?」
「ち、違う、そうじゃないよ……」
そうは言ったが、目の前の猛獣は今にも襲い掛からんばかりの勢いで迫ってくる。
万事休すか……そう思った時、その場しのぎではあるが僕には一つの光明とも言える案が思いついた。
「わかった、じゃあ千夏ちゃん。今日大人しく帰ってくれるなら、チューしてやろう」
「……え?」
目の前の少女の顔色が、目に見えて良くなっていくのがわかる。
所詮は何だかんだ言っても子どもだな。
僕みたいな大人にかかればチョロいもんだ。
もちろん、するのはほっぺだし。
いきなりがっつりいけるほど、僕の根性は据わっていない。
「ほ、本当ですか? 絶対ですよ?」
「あ、ああ……男に二言はないよ」
いざ、と思ってほっぺにチューするべく、顔を近づけると何と千夏ちゃんはそのまま振り返ってきた。
ある程度の勢いを持っていた僕の顔はもう止める術など持たず、そのまま見事に二人の距離がゼロになってドッキングしてしまった。
「…………」
「……やった。うおおおお! やった! 中村さんとチューした! あははは! やったー!!」
そう叫びながら彼女は、放心している僕を置き去りにして喜び勇んでドアを開けて出て行った。
秘密を守るために、更に秘密を作ってしまった今日と言う日。
これで終わりなわけないし、本当どうしよう……。
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