第5話 その男は別れた妻にお世話になる
通された部屋で僕とゆかりが待つこと五分弱。
今回は部外者だからという理由でゆかりが外に出されることはなく、手続きそのものは滞りなく進んだと言える。
しかしながら、この事務所には金を常備しているというわけではなく、手続きをしてから数日の時間を要すること、それから地域の民生委員の許可も必要であることを説明される。
「中村さん、一応聞きますが食料の備蓄は……」
「ありません。昨日こちらの杉崎が来なければ僕は、飢え死にしていたところだったかもしれない、というレベルで生活は破綻していますから」
「なるほど……ライフラインも確か……」
「はい、全滅しています。もちろん支払いをすることで復旧は可能でしょうが」
「ふむ……」
僕らの担当である年配の女性が頭を抱える。
本当であれば今日中に何とかしたい、という意志が見える。
もちろん仕事で金を貸し付けるというものなのだから、個人的に何とかしようなどというのは公私混同もいいところだということは僕も理解しているし、望んでもいない。
「まずですね、その公共料金がどの程度の金額溜まっているとか、そういうのはおわかりになりますか?最低限、という意味で貸し付けることになるので、それによって今後の返済計画なども変わってくるんです」
「なるほど……そうですね、おおよそ、という金額であれば五万ほどで何とかなるとは思います。もちろん詳細な金額を知る必要があるということでしたら、一度帰って明細を持ってきますが」
「いえ、そこまでは……五万、ですね。そうなると一括でのお支払いは厳しそうですね……」
「…………」
生活保護費から月々引かれていくというその返済だが、月々に支給される保護費は働いていた頃に比べると三分の一程度まで減少する。
もちろん贅沢する癖などはついていない自信があるので、そこまで困窮した事態に陥ることはないだろうと思うが返済額が大きければそれだけ生活の心配は増えていくことになるので、無理のない範囲で、とその女性も考えてくれている様だった。
結局保護費から月々一万ずつ差し引き、その間で仕事が見つかる様であれば、収入から一括で、と言う話でまとまって、僕らは書類を渡された。
受け取った書類は自宅近くに住んでいると言う民生委員の人に渡す様に言われ、その書類に民生委員が貸し付けることを許可する為の署名等をしてくれるというものだ。
そしてその書類はまたこの事務所に持参して、そこで手続きは完了というものになる。
「ふむ、予想はしてたけど、すぐに貸してもらえるわけじゃないのね」
事務所を出た僕らは車に乗り込んで、早速その民生委員の人のところへ向かうことになった。
何となく、ゆかりにはすぐの貸し付けが受けられないであろうことが想像できていた様だ。
「まぁ……慈善事業に近い様に見えるし用意に時間がかかるのは仕方ないんじゃないかな」
「あんた呑気ね……そんなことだと、また死ぬ様な目に遭うわよ?」
「それならそれまでの運命だったって……悪かったよ、そんな目で見ないでくれないか」
途中まで言いかけたところでゆかりに睨まれて、僕は口を噤む。
心配してくれているのは痛いほどわかったから、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかと思うんだ。
「とりあえず、これ持ってなさいよ。ライフラインが復旧しなかったらまた無駄金使うことになるんだから」
そう言ってゆかりが手渡してきたのは、封筒だった。
中身はきっちり五万円。
一体どういうことなんだろうか。
「予想してたって言ったでしょ。今週中に貸し付けてもらえるんだったら、それで丸々返せるじゃない。だからそれについてはすぐ使いなさいよ。昨日の分はまた落ち着いた時にでも考えなさい。別に私は急がないから」
「いや、だけど……」
「グダグダうるさいわね。本人がいいって言ってるんだからいいの。あと、民生委員とか役所の人間の前で私から借金してる、とか間違っても言うんじゃないわよ? あんたバカだからそういうの普通に言いそうで困るわ」
「…………」
バカなのは認めるけど、そこまで言うことないのに、というのは見当違いだな。
借りがある以上、僕はゆかりに恩があることに違いはないし、文句を言いたければ先に返さなければ何を言おうと詭弁でしかない。
それに……ゆかりが悪意を持って言っているわけではないことくらい、さすがにわかる。
なので僕は、今回に限ってゆかりの厚意に甘えさせてもらうことにした。
「それより、役所でちょこっと聞こえてきたんだけど……騙されたとか、何のこと?」
「ああ、聞こえてたのか……あの役人が騒いだからな」
「あんなにお金なかったのに、私への支払いだけはしてたの? 本当にバカなのね」
「……心配かけたくなかっただけだよ。それで更にこんなことになってるからバカだって言いたいんだろ? わかってるよ」
「……全くね。というかその騙されたっての、詳しく説明しなさいよ」
聞かないことには収まらないと言った様子のゆかりに、僕はかつて友人だった石川のことを話した。
僕の話を聞いて、最初はふむふむ、と唸っていたゆかりだったが、見る見る内に般若の様な形相になって行って、僕が直接悪いことをしたわけでもないのに何だか怒られている様な気分になった。
「何よそれ……友情を利用して金を騙し取ったぁ……? そいつマジでクズね。見つけたらぶっ殺してやりなさいよ」
「……いや、僕にも落ち度はあったから。あんな状態だったとは言っても、安易に信用したのは僕もバカだった。それは間違いないからさ。あいつだけを責めるのはお門違いかなって」
「……はぁ、あんたって本当にバカね。じゃあ何? その石川っての、まだ友達だなんて思ってるわけ?」
呆れた様に言うゆかりだったが、こればかりは僕も賛同できない。
たとえ一度であっても、裏切りを働いた人間を信用して友達とられるほど、僕は甘くもなければ人間も出来ていない。
「……そんなわけ、ないだろ。僕に友達なんて日和ったものはいない。命がけの授業にはなったし、高い授業料だったけど、僕は今回のことで色々学ぶことが出来たと思ってるよ」
「…………」
僕はそんなに酷い顔をしていたのか、ゆかりは僕を見て一瞬引いた様な顔を見せた。
「……どっちにしてもそいつ、許せないわ。あんたがどう思っているかは別にして、私も人として許せない」
「そうか……何か悪いな、変な話聞かせて。確かにあいつがあんなことしなければ、今頃こんな面倒に巻き込まなくて済んでたんだし、もっともな怒りだよ」
「……本当、バカ。別にいいけど……ほら、そこの家みたいよ。私そこのコンビニで車停めてるから、終わったら来てね」
怒り心頭のゆかりは僕をその民生委員の家の前で下ろして、宣言通りコンビニへと車を走らせた。
事務所から紹介された民生委員は水田という女性らしい。
表札にもきちんとした書体で水田と書いてあることだし、ここで間違いはないだろう。
「ごめんください」
門の前についているチャイムを押して、反応を待つと十秒ほどで中から年配の女性が出てくるのが見えた。
「中村さんね? そんなにお若いのに……とりあえず、書類預かっても良いかしら」
僕が渡した書類を見て、水田はまた僕を見る。
一枚コピーを取るから、と彼女は家の中に一旦引っ込んでいって、僕は五分程度外で待つ。
雨が降りそうだ。
もちろん降ったからと言って、今の僕には都合も不都合もない。
ただ、ゆかりはもしかしたら嫌がるかな、なんてことを考えていると水田が再び現れて、僕に書類を返却してきた。
「これで大丈夫なはずだから、間違いなく事務所に提出してね。でも中村さん、あなたの人生はこれで終わりなんかじゃないから。頑張ってね」
何だか役所の大坪みたいなことを言う。
役人とかそういう関係の人間は、こういうことを言わなければならないという義務でもあるのだろうか。
そうなのだとしたら、僕はもう接客から足を洗った身でもあるし、こんな仕事は頼まれてもごめんだと思った。
「……終わったの? すぐ書類出しに行く?」
「いや、今日はもう帰ろう。お昼の時間も近いし……それに早めに復旧しておきたいしね」
「それもそうか。なら、ちゃっちゃと乗りなさい」
ゆかりは僕を車に乗せて、僕の自宅までの道を走る。
考えてみたら、水田の家に行く前に公共料金の関係の請求書など持ってきたら二度手間にならずに済んだ気がする。
そしてその考えはゆかりも同様だった様で、何年振りかに二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
結果として二度手間にはなったが、僕は自転車を漕いで近場のコンビニまで出向いて昼食を買うついでに公共料金の関係を清算した。
レジで少し時間がかかってしまって、後ろに並んでいる客から舌打ちされた気がしたが、そう言ったものはすべて無視した。
「これで、漸く人並みの生活に戻れそうね」
「ああ……何だか悪いな」
「私はこういう時、違う言葉が聞きたいかな。由衣にもそう教えてきてるんだから」
部屋に戻って一通りの入金連絡を入れて、それぞれ開通が来るまでの間で二人で昼食を済ませた。
車と僕の部屋とどっちがいいかと尋ねると、ゆかりはさすがに少し休みたかったのか僕の部屋でいいと言っていた。
もちろん電気はまだ開通していなかったし、コンビニで温めてもらってきているのでそう言った心配はない。
「そうだな、ありがとう。本当に、君がいなかったら死んでいたかもしれないんだから」
「別にいいわよ。それよりちゃんと、貸付受けられたら連絡寄越しなさいよ? ……あれ、私の好きな食べ物、覚えてたの?」
ゆかりに渡した弁当は、目についたから買っただけのものだった。
もしかしたら潜在的に覚えていたのかもしれないが、ゆかりにはこれじゃないと、みたいな気持ちを込めて買ったわけではない。
ただ、言われて思い出したので、当然だと僕は白を切る。
「……あんた、本当に嘘がつけないわね。まぁ、偶然とは言っても……別にいいけど……あ、そうそう」
僕の様な人間に、そんな気遣いなどを求める方が間違っていると思うのだが、どうだろう。
もちろんそんなことを言えばまたゆかりを怒らせてしまって、なんてことになりかねないし、高血圧で倒れられたりしたら、由衣の将来も心配だ。
ふと見ると箸を咥えたままでゆかりがバッグの中をごそごそと漁っている。
ビニール袋に入った長方形の箱が見えた。
「あんたの吸ってた銘柄、これで合ってるわよね?」
「……まぁ、そうだけど……いいのか?」
「人間に戻れた祝いって感じかな。本当なら辞めちゃえるのが一番なんだろうけど、これ無くなったらどうするかは自分で決めなさいよね」
「…………」
数日吸っていなかっただけのタバコだが、見ると無性に吸いたくなるのはやはり僕が中毒者だからだろう。
そしてゆかりは何だかんだ言って、僕が吸いたそうにしていたのを見ていたりしたのかもしれない。
頭を下げて礼を言って、僕はその箱を受け取る。
そしてその日の午後、全てのライフラインが復活して僕は漸く人間らしい生活を取り戻すに至った。
しかしこの時はまだ、僕の身に降りかかる面倒事に気づくはずもなく、呑気に構えていたのだということを割とすぐに思い知ることになるのだった。
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