第2話 その女は元夫に手を差し伸べる
あいつ、一体どうしちゃったのかしら。
連絡も寄越さないままで店も辞めてて、しかも携帯も繋がらない……多分止まったか解約したかのどちらかだと思うけど。
その日、私は午後から娘の由衣が遊びに出かけると言っていたので、私も胸騒ぎを覚えつつ元夫の家に様子を見に行くことにした。
最近は少し忙しかったせいもあって、様子を見に行けていなかったから、実に二か月ぶりくらいに会うことになる。
二か月やそこらで人がそこまで変わってしまったりということはないだろうと思いながらも、先ほど判明した事実や胸騒ぎが、どうも尋常でない何かを予感させた。
状況が変わったら必ず連絡する様に、と言ってあったにも関わらず彼は連絡を寄越さなかった。
何かあったか、最悪死んでしまったか。
後者であれば、少なくとも連絡がどこかしらから来てもおかしくはない。
たとえばあいつの住むマンションの管理会社とか。
しかし生きていても身動きの取れない状況……病気だったり大けがだったり、ということも考えられる。
ここで楽観して大丈夫、という予感は微塵もしなかった。
私の住む家から元夫の家までは、そんなに距離がない。
車であれば十分もかからず到着できる距離にある。
万一のことを考えて多少の現金と、食べられるものをと思ってカバンに小袋の菓子を詰め込んで、私は彼の家に向かった。
結果から言うと、彼は死にかけていた。
チャイムは押しても鳴らず、ドアを叩いても反応がないので、預かっていた合鍵でドアを開けて私は彼の部屋へ侵入した。
これをやると普段なら彼はあまりいい顔をしないが、どうもいい予感がしなかったからだ。
「ちょっと……あんた!? どうしたのよ!!」
まだ昼過ぎだというのに真っ暗な部屋の中で倒れ伏している、元夫。
ベッドで横になっているとかではなく、床に直接倒れていて、そのことがもう既に異常だった。
「……ああ、やっぱり君だったのか……」
力のない声で私の問いかけに応えて、彼は薄く目を開ける。
その目には生きる気力だとか、何かを成し遂げようと燃えていたあの頃の面影は微塵も見えない。
そして私がここへ来ることがわかっていたのだろうか、やっぱりと言うことは。
「何よこの惨状……生活、どうしてるわけ……?」
散らかり放題散らかった部屋、ゴミはもう何日出していないのか。
そして生活音が何一つ聞こえない。
冷蔵庫の音さえも聞こえない上に、部屋のあらゆる明かりが消えている。
「ご覧の通りさ……もうただ、死ぬのを待つだけの状態だった」
事も無げに言う彼を見て、何となくむかっ腹が立ってくる。
死ぬって、何を言ってるんだろうか、この男は。
そう考えるともう、私の中で何かが壊れた様なそんな感覚があった。
「死ぬのを待つだけの状態だった? 何寝ぼけたこと言ってんのよ……! 自ら死にに行く様なの、認めないから! 由衣に何て説明すればいいのよ!! 勝手なこと言わないで!!」
「ただの冷静な分析なんだけどね……癇に障ったならすまない。その由衣は今日、一緒じゃないんだな」
由衣はまだ小学生だ。
離婚した時の記憶は曖昧らしいが、この男は離婚してからも何度か由衣には会わせているし、由衣だって父親であることをきちんと認識しているのだ。
そんな男が死んでしまった、なんていう事実を娘に伝えなければならない私の気持ちも考えてほしいと、その時は思ってしまった。
「置いてきてる。友達と遊ぶって言ってたから。それより……もしかしてこの家、ライフライン止まってない? 物音一つしないじゃない。何も食べてないんじゃないの?」
部屋に食料らしいものは何一つ見当たらない。
仮にこの部屋に何か食べ物があったとして、おそらく電気ガス水道全てが沈黙してしまっているこの部屋で、食べることなどできるのだろうか、と疑問になるわけだが。
いやしかし、水まで泊まるって相当なはずなんだけど……というか、水?
そう思って立ち上がると、私は蛇口を捻ってみた。
……やはり出ない。
「本当に止まってる……水が止まるって、相当だと思うんだけど。どうしてこうなったの?」
正直、あれだけ一生懸命仕事に勤しんでいた彼が、こんな状態になっていること自体よくわからない。
性格は真面目だし、多少気性の荒さが目立つ男だったのは覚えているが、それでもこんな風に人生を捨てた様な生活をする様な男ではなかったはずだ。
答える意志がないのか、はたまたもう気力がないのか、いずれにしても食べていないというのであれば、先ほど私が持ってきたスナック菓子でもないよりはマシだろう。
そう考えて私は彼に、小袋のスナック菓子を放って渡す。
「とりあえずそれ食べなさいよ。少しでも動けないとどうしようもないでしょ」
躊躇っているのか、彼はなかなかその袋を開けようとしない。
借りを作ることを極端に嫌う性質があったのは覚えているが、こんな時まで意地を張られるとこちらとしても、何とも腹立たしい気持ちになってくる。
「早く食べなさいって言ってるの!! 出かけるわよ!!」
これだけでも食べさせて、ひとまず何かちゃんと食べる為に出かけなくては。
本当にこの男は死んでしまう。
そんな気がした。
「ありゃ……もうなくなっちゃった」
漸く食べることにしたらしい彼はあっという間にスナック菓子を空にした。
確かに量は少ないが、それでもそこまで一気に食べてしまえる様なものでもないと思った。
本当、どれだけの日数彼は食事をしていなかったのだろうか。
そう考えると、何だかやるせなくて涙が零れそうになった。
もちろんこいつの前で泣くなんてこと、ごめんだから必死で我慢はするけど。
「何で報告してくれなかったの? 怒られるとでも思った?」
「……いや、報告しなきゃ、って思った日に携帯が止まったんだ」
携帯が通じなくなったのに気づいたのは昨日の話だ。
そこまで放置していた私にも、責任はあるのかもしれない。
「仕事は? あの店にいなかったからおかしいとは思ったけど」
「……辞めた。僕は社会不適合者だから」
「は?」
辞めた、という事実は知っていたが、それでもその後に続いた彼の、社会不適合者という言葉がどうにもしっくりこない。
少なくとも彼はそんな風に絶望したりするタイプではなかったはずだし、仕事の姿勢だって真面目で客からの支持もそれなりに厚かった。
それを何度か目の当たりにしてはいたし、到底信じられる言葉ではなかったのだ。
「仕事、探してなかったの?」
「いや、探していたよ。だけど、こうなる前に見つからなかった」
「通信も全部止まってるんじゃ、もう手詰まりじゃない……こんな状況になるまで放置って、それ自体が異常なんだからね?」
せめて通じる間に言ってくれれば、こうなる前に何とかできたかもしれないのに、と思う。
そう考えると本当、この男はめんどくさい。
「まずは食事するわよ。こんな美人とご飯食べられるんだから、生きててよかったでしょ」
善意でやっていることだが、こいつに貸しを作ってやった、という概念を植え付けることが果たしてプラスになるのか。
今の彼にはその辺がどうでも良さそうに見えて、とりあえず生きてもらわなければ、という気持ちで私は提案する。
「……いや、それはそうなんだけど……僕はお金持ってないからまた今度」
「バカ!! 奢ってやるって言ってんの!! さっさとついてきなさいよもう!!」
そのまた今度、が死体で面会なんて私はごめんだ。
少なくとも、由衣が成人するまでは生きていてもらう必要がある。
そう思って私は彼、中村界人の手を引いて部屋を出た。
「……ご馳走様でした」
礼儀正しく手を合わせ、目の前に積まれた食器の山に向かって彼は一礼する。
とりあえず食べられそうなものから、と思って近所にあったファミレスで多めに注文したつもりだったが、その料理の大半を彼は平らげてしまった。
私は元々そんなにお腹空いてなかったから別に構わないが、こんなに一気に食べて体壊したりしないのだろうか。
「すごい食べっぷりね……お腹壊さない? 何日食べてなかったの?」
「最後に食事したのって、いつだっけな……何食べたっけ……」
どうやら本気で思い出さなければならないレベルで食べていなかったらしい。
聞いてもまた呆れそうなので、私は追及を諦めた。
「ああ、もういいわ……ここ何日も、ってことなんだろうけど……よく生きてたわね本当……」
「君が来なかったら、多分明日か明後日には死んでたんじゃないかな」
だから何でそんな平気そうな顔してんのよ、こいつ……信じられない。
死ぬことに対する恐怖とか、そういうの全くないんだろうか。
「何よ、助けてあげたのに不満なの? まさか死にたかったなんて言うんじゃないでしょうね」
だが雰囲気に呑まれてしまって、こいつにペースを掴まれるのも何となく癪だ。
とりあえずここは奢ってあげてるんだから、聞ける限りのことは聞いておこうと考えた。
「もちろん、そういうわけじゃないよ。ただ、もう諦めて受け入れていたって言うのかな」
「…………」
そんな風に死を受け入れたくなる様なことって、一体何があったのか。
聞かないといけない、そう思いながらも私は何となく聞けないでいた。
もしかしたら自分から言い出すかもしれないし、待った方がいいってこともある。
「とりあえず、ご馳走になった分は返したいところなんだけどね……出世払いとかで」
「それ、返す気のないやつのセリフでしょ……。現状文無しのあんたにそんなの期待してないわ。それより界人、あんたこれからどうするつもりなの?」
まぁ、返す気がないというよりはどっちかと言ったら、返す手段がない、という方が正しいのだろう。
どうしたいのか、とかそういうことから今後のことは少し手を貸してもいいかもしれない。
しかし、彼は少し考えて再びテーブルに目を戻す。
「どうせあんたのことだから、何も思いつかないんでしょうけどね」
「まぁ、そうなるかな」
やけにあっさりと認める。
昔はもう少し情熱的なやつだった気がするんだけど……いつからこんな熱のない人間になってしまったんだろう。
今ご飯は食べさせたが、あの部屋で今夜も、ということになるとさすがに食事も何もどうにもならないだろう。
私は財布から一万円札を一枚取り出して、彼に渡すことにした。
「とりあえずこれ、持ってなさいよ。一円も持ってないんじゃ、どうしようもないでしょ」
さすがに文無しであの部屋じゃないところで過ごせ、と言ったってそれはもうホームレスと同じだ。
まぁ、あの部屋で過ごすんだって正直ホームレスみたいなものではあるが。
しかし彼は私が渡した一万円札を、テーブルの上に置いてすっと押し返してきた。
本当、いい根性してるわこいつ……。
「……何のつもり?」
「受け取る理由がないから。それに一円も持ってないわけじゃないよ。大体、こうしてご飯をご馳走になることだって、本来なら……」
「ならいくら持ってるのよ、言って見なさいよ」
「……十六円」
それは持っているとは言えないし、その金額じゃコンビニの菓子すら満足に買うことは出来ない。
本当に、私が来なかったら死んでいたんだろうな、としみじみ思う。
「バッカじゃないの!? 大体ね、あんたになくても私には理由があんのよ!! くだらないこと言って意地張ってないで、持ってなさいよ!! あげるんじゃなくて、貸すの!! いい? ちゃんと生きて返すのよ!!」
そう怒鳴ってしまって、まだ今が夕方前であることを思い出す。
人目がまだかなりあって、一瞬店内が騒然としたのがわかる。
「……どうしても返したいなら、いつか生活が何とかなってから返してくれたらいいから。そのお金で、今日はネカフェにでも泊まったらどう? ああいうとこなら有料だけどご飯も食べられるし、電気も使える。携帯も充電できるしWi-fiが使えるらしいじゃない。飲み物も大体は飲み放題なんでしょ?」
また借りを作ってしまった、なんて思っているこのバカな男に、私は一応の大義名分と生きる理由を与える。
猶予もきちんと与えてやれば、きっかけ次第でこいつはちゃんと返してくるはずだし、最悪金なんか帰ってこなくても仕方ないと思った。
「駅前にあるでしょ、確か。ちょっと遠いけど、そこまでは連れてってあげるから」
そしてこいつに足がないことはわかりきっている。
だから私は車で送ってやることにした。
「明日、また来るわ。ちょっと心当たりあるところもあるし、一緒にそこ行くわよ」
「デートかい?死にかけの男とデートしたいなんて、変わってるな」
本当に寝ぼけているのか、バカにされているのか。
どっちにしてもこんなに人通りの多いところでこいつを怒鳴りつけても仕方ないので、聞き流すことにした。
「……はぁ。まぁ、今言っても仕方ないから明日のお楽しみってことで。だけど色気のあるとこじゃないとだけは言っとくわ」
「そうか、面倒かけるね」
本当にそう思っているのかは疑わしいが、ひとまずそのことはいい。
「そんなにほいほい助けてあげることは出来ないけど、導いてあげることは出来るから。今日のことは運命だった、とでも思うことにする」
とりあえず、まだ彼は死ななくてもいいということになる。
そして私は、明日一緒に行くと言っている場所について、色々調べることにした。
場合によっては今日以上にお金が必要になるかもしれないが、それにしたってこいつは返そうと躍起になるだろう。
翌日十時にまた界人の家に行くと告げ、彼がビルの中に消えたのを確認して、私も自宅に向けて再び車を走らせた。
デートだなんて寝ぼけたことを言っていたけど、明日はきっとそんなことにはならない。
だけど界人はある程度生活を戻せる様になるはずだ。
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